■春



緑色の季節である。花はもうすっかり散った。カレンダーには六月の文字が見える五月の終わり頃のことである。
春と梅雨の間の中途半端な気候の中、ようやくすっきりと晴れた今日の空は雲の影もまばらで日の光は明るい。寮の屋上からは遠く向こうの山間に霞がかっていないことさえ見えた。だがそんな爽やかな気候の下で、ハァ、と陰気な溜息を吐いた男がいる。そうしてそれに続いて舌打ちが一つ。
「何だね、その態度は」
そう不機嫌そうに言ったのは東堂である。休日の朝だというのにこんなに彼が苛立っているのは珍しいことだ。そもそも普段からあまりそうした感情を表に出すような気質ではないのに彼がどうしてこんなにも険のある表情をしているのかという理由の一つは、明らかに彼の目の前にいる男が原因だった。
「反省しようという気はないのか」
東堂はそうわざとゆっくりした口調で言う。普段あまり怒ったりしないものだから思わず詰まったような声になった。だが答えを促すように強い視線をそちらに向けてみても眉を寄せてみせても目の前の男には応えたような様子はない。それどころかいつもに増したような不遜な様子で「オレの知ったことかよ」と軽く鼻で笑ってみせたほどだ。
「それが人に謝ろうという態度なのか!」
「ハッ、そもそも謝る気なんざねえっつーのバァカ!」
「お前な!」
「他人に頼ろうっつう魂胆が悪いんだよ、自業自得だろォ」
わざとらしく荒北が口の端を吊り上げながらそう言うと、東堂はぐっと言葉を詰まらせて彼の方を見た。確かにそれはそうだが、と口ごもる。もうすでに言いくるめられかけている。ハッ、と荒北がまた馬鹿にしたような笑い方をすると、それに腹が立ったらしい東堂は食ってかかるようにまたそちらを睨みつけた。
「いいか、荒北。オレはお前が嫌いだ!絶交だ!」
「オレだってお前なんざ嫌えだよ、このでこっぱちが」
「なんだと!」
東堂がそう叫んで目を見開く。喧嘩なんかし慣れない男だからそれからどう続けたらいいのかわからないらしく、唇を噛み締めた彼はしばらく拳を握り締めたまま荒北を見詰めていたが、それを見ていた荒北がふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らした瞬間そちらへ掴みかかるように手を伸ばした。まさか東堂がそんなことをするとは思っていなかった新開が慌ててその間に割って入って東堂の腕を押さえる。まぁまぁ、と苦笑しながら新開が東堂を宥めている間に荒北は踵を返してその場から離れて、二人のことを遠巻きに見ていた福富の元へとゆっくりと近付いてきた。
「やりすぎだ」
「オレは何にもしてねえだろォ」
言い返しただけだ、と悪びれもせずに言う彼の様子に福富が渋い顔をすると、荒北は決まり悪そうに目を逸らして頭を掻いた。去年の、出会った頃よりはずっと丸くなったが、だがそれでも本質的なところは変わっていないらしい。福富は荒北の横顔を見ながらそう思って、どうしたものかと小さく溜息を吐く。視界の端で人の動く気配を感じてそちらに目を向けると、東堂がこちらに背を向けて歩き去っていく姿が見えた。さっきまで彼を宥めていた新開はやっぱり苦笑したまま福富に視線をやって、しばらくは収まらなさそうだとでも言いたげに軽く首を横に振ってから、それからこちらにゆっくりと歩み寄ってくる。
「それにしても派手にやったよな」
新開が笑いながら言った。それを聞いた荒北が不機嫌そうにじろりとそちらを見ると、新開はわざとらしく肩を竦める。
「お前らも怒っていいんだぜ」
やけになったような言い方で荒北がそう言うのを聞いて新開が笑う。
「悪いことしたなぁって自覚はあるんだ」
「別に悪いことなんかしてねえし。ただお前らが文句あんならさっきみてえに言い負かしてやろうと思っただけだっての」
「はは、靖友らしいな」
「っせ!お前なんかにオレの何がわかんだよ」
荒北は噛み付くようにそう言って、それからふいと新開から目を逸らしてその後ろの方に視線を向けた。釣られて福富もそちらに目をやる。その瞬間、物干し竿に掛かっていた薄紫色のシャツが膨らんではためくのが見えた。


(略)



■夏



白い玉が宙に浮いた。小気味良い音の後に歓声が続く。
電気も点けず、カーテンも半分閉まったままの、灰色に沈んだような食堂の中で福富はぼんやりとテレビの中のその光景を眺めている。遠いところにある景色である。
食堂内はあまりクーラーが効いていなくて蒸し暑かった。部屋の中は彼一人きりだ。お盆休みに入って食堂のおばさんたちも休みになって、ほとんどの生徒も帰省してしまっているから寮はどこも静かである。窓の外で蝉がうるさく鳴いているのが余計にそれを感じさせる。聞こえるのといったら蝉の声と、テレビから響いてくる歓声と、それから自分が箸を動かすわずかな音ばかりだった。
福富は一人食事を続けながら、ぼんやりとその音を聞いている。蝉の声もテレビの音も、何もかも自分とは関係のない外側にあるような感覚があった。どうにも現実感がないのは、もしかするとまだ目が覚めきっていないからかもしれない。昨晩は久しぶりにゆっくり寝たのだ。
(いや、あれは寝たというよりも、)
昨日の夜のある一点から先の記憶がまるで無い。ぷつんと糸が切れたみたいに意識が飛んでしまっているから、単に身体が限界にきて力尽きてしまっただけなのかもしれない。夢も見ないで眠ったのなんて随分久々のような気がする。いつもだったら眠ったとしても、ややもしないうちにうなされて目覚めてしまうのだ。浅い眠りが続いているせいで調子も良くないし、自転車に乗ってペダルを回すことがひどく苦しい。インターハイが終わってからずっとこんな状態だ。朝鏡を見たときに、目の下のクマがはっきりと出ていることにここ最近はもう驚かなくなってしまっている。

白い玉を追って、テレビの画面には真っ青な空が映し出されていた。それを見た瞬間、不意にある光景が頭を過って福富は強く目を瞑る。眩しいほどに明るい夏の光景だ。白っぽい光が瞼の裏でちかちか点滅する。血が足りていないせいでぐらつく頭のその揺れが、平衡感覚を失って落車したときのあの感覚に似ていた。思わずぐっと喉を詰める。腹の底から酸っぱい液体が上ってきているのを無理矢理飲み込みながら、必死に彼は頭の中から何もかもを追い出そうとしている。

福富はどうにか目を開けて、一つ溜息を吐く。このところ、身体がひどく重い。何をしていても引きずられるような感覚がある。どこが痛むだとか。どうしたら治るのだとかそういった具体的なことが何一つわからないのも悪いのかもしれない。何かしないといけないと思うのに何もできないし、何もしてはいけないのだということが自分を焦らせる。あの日からずっとその感覚に追い立てられているのだった。
からんと何かが落ちるような音がして、福富は慌てて顔を上げる、手に持っていたはずの箸が一本ない。自分がいつの間にか意識を飛ばしかけていたことに福富はそこで気が付いてまた溜息を吐いた。テーブルの上に落ちた箸の片割れを拾い上げる。先ほど食べ終わったカップ麺の器にはまだスープが残っているが、これを飲みきれるような食欲は彼にはなかった。眠れなくなって食べられなくなって、それから次は何を失うのだろう。

福富は顔を上げて、薄暗い中ぼんやり光っているテレビの方に目をやった。6回裏、と実況する声がする。白い帽子を被ったピッチャーがボールを片手で確かめるように握っている。
『三年の彼にとっては最後の試合です』
アナウンサーが感傷を込めたような声で言った。その選手は俯いて、じっと自らの指先を眺めているようだった。そうしてふと、グローブを着けた左手で軽く右肩を叩く。その後彼はぱっと顔を上げて、正面を見て頷いた。それが彼の目の前にいるキャッチャーに向けたものだったのかそれともバッターボックスに立つ選手に向けたものだったのかはテレビを見ているだけの福富にはわからない。ただ、その顔がどうしてだか一瞬笑っていたように彼には見えた。
前を向く。彼は帽子を被り直して、その後また一つ頷いた。慣れた様子で一歩足を引いて、それから大きく振りかぶる――


その時ふと視線を感じて、福富は振り返る。すると、食堂の入り口に誰か立っているのが見えた。細長い影にはっとして、福富はテレビのリモコンに手を伸ばす。
「変えんなよ」
男はそう言って福富の方へと歩み寄ってきた。静かな食堂内に、彼が裸足で歩くペタペタという音が響いている。
「オレも見るからァ」



(略)