・秋

【橙】

橙色の光に目を細める。窓枠に身体を凭せ掛けていた荒北は眩しさに何度かまばたきをして、俯いて、それからふと隣にいる男が自分と同じような表情をしているのを見て笑った。
「サボんなよォ、福ちゃん」
荒北はそう言って肩を揺らす。その声を聞いて見られていたことに気付いた福富がぱっと顔をそちらに向けると、目の合った瞬間また荒北は盛大に声を立てて笑った。お前な、と口に出かけたもののそれでも福富が言い返し損ねたのは、その笑い声を聞いた生徒の何人かがこちらを振り返ったからである。教室内にまばらに残った生徒達の視線が一斉にこちらを向いて、それぞれに困ったような色や怒ったような色や、また呆れたような色を示してくる。仕切り屋の女子が「ちゃんとやって」と三角にした目を向けてきたのに、福富は思わずたじたじとしてしてしまう。責めるように荒北の方を見ると、彼はそ知らぬ顔をしてまた窓の向こうに目をやっていた。
「荒北くんも、邪魔するなら出てって」
その女子の矛先が今度は荒北の方にも向かう。荒北はそれにちょっと肩を竦めて、へーへーと適当な返事をするがそこには一つも悪びれた様子はなくて、それどころか彼女が顔を背けた途端、福富に向けてまた悪い表情をするから困り者である。
「真面目なこった」
荒北がそう皮肉っぽく言う。その声があちらに聞こえたのではないかと福富は内心ひやりとするが、さっきの女子はそれには気付かなかったらしく、こちらに気にも留めないで教室の真ん中の方で集まっているクラスメイト達と喧しく話をしていた。彼女たちの手元にはそれぞれ鋏やら筆やら糸やらの道具が握られている。机と椅子を全部後ろに引いてしまってがらんとした教室の中央辺りには、今は作業用の青いビニールシートが敷かれていて、彼女達は皆上履きを脱いでその上に座り込んでいるのだった。筆を持った数人は立て看板に文字を書いている。その隣にいる、さっきの生徒も含めた数人は針と糸を使ってそれぞれに何か縫い物をしていて、喋っている間中も手元は常に忙しそうに動いていた。教室の脇では男子生徒たちが黙々と作業を続けている。ダンボールを組み合わせて何かを作っていたり廊下で切った木材を教室内に運び入れていたり、または宣伝用の大看板を作っていたりと彼女達よりは大掛かりだがこちらも慌しい。文化祭はもうすぐ一週間後に迫っているのだ。学校全体がどこか浮き足立った雰囲気に包まれているのが肌でも感じられる。
それを眺めながら「福ちゃんトコ何すんだっけェ」と荒北が欠伸交じりに言う。くあ、と大きく開いたその口を眺めていた福富はそれに釣られて小さく欠伸をして、それから「お化け屋敷だそうだ」とこちらも何だか気の抜けたような調子で返した。
「だそうだ、って」
「よく知らない」
文化祭の出し物は夏休み前の放課後にある程度は決めたらしいが、その頃福富はインターハイ前で忙しかったし、インターハイが終わってからの夏休み中の文化祭準備も(一応は)怪我静養という名目で部活を休まされていた彼には誘いが来なかったのだ。
それにそもそも、福富はほとんどこういう行事に関して興味がないのである。真面目な男だからサボったりだとかそういったことは滅多にしないが、しかし自ら積極的に参加しようともしない。自転車に関すること以外、この男は本当に興味がないのだ。

(こういう奴だからいいんだよなァ)

 

 

 


・冬

【青】


青い空はとうに消えて、気付けば紺色になっている。日が暮れるのが随分と早くなった。ついこないだ夏が終わって秋が来たと思っていたのに、もう冬の訪れを告げるようなひやりとする風が吹いていることに驚きを隠せず、福富は思わず振り返る。
校舎の影から、もうすでに夕日のすっかり沈んで黒くなっている山々を見る。ついさっきまでまだ山の端に残っていた紅葉が見えていたのに、いつの間にかてっぺんの落葉した木々が見えるばかりになっていた。どこか物寂しい。冬は嫌いではないがしかし寒さがやってくるのを感じると、そのうちに雪が降って外を走れなくなるのだと思うから複雑な気持ちになるのだ。

「さっびい」
部室から出てきた荒北は、そう言って途端に首を竦める。元々寒さに弱い男である。十一月に入って早々にブレザーとセーターを出した彼はそれを着こんでなおも文句たらたらだ。
猫背気味の背中をさらに丸めた荒北は、肩に掛けた二つのカバンを脇に仕舞いこむようにしてぎゅっと身体を押し縮めている。風が強くびゅうと吹くと、そのたび尖った肩が震える。寒さのせいで眉間に皺が寄って、余計に目つきの悪くなっている彼は返答もどこかぶっきらぼうで、部室の鍵を閉めている福富の後ろで、早くしろよ、と不機嫌そうな声で言っていた。

がちゃり、と音がして、古い扉は閉まった。それを後ろで聞いていた荒北が途端に近付いてきて、「早く行こーぜ」と福富を見る。
「待たせたな」
「アア、ほんとだよ」
荒北はそんな軽口を言ってから自分でも笑っていた。福富が口元を緩めているのを見て、さらにその笑みは深くなる。寒さに震えながら笑うからその声も小さく揺れていた。
荒北が福富の方に一つカバンを寄越す。鍵を掛けている間は荒北が福富の荷物を持つというのがいつの間にか、二人の間の習慣になっていた。一年の時からのことだから、身についてしまうのも仕方のないことなのかもしれない。

ついこの間の追い出しレースを経て、ようやく正式に三年生が引退してから福富が本格的に部長としての仕事をするようになったから、二年の今鍵を持っているのは当然のことだが、しかし一年の時にもどうして同じようなことをしていたかというと、それはひとえに荒北がいたからである。
それまでロードバイクの存在すら知らなかったずぶの素人が、全国的にも「王者」として名前の知られている箱根学園の自転車競技部に入るのは容易いことではない。荒北は確かに運動神経は良かったし、原チャリで福富とレースした時に見せた身のこなしや、また思い切りの良さなんかは他の新入部員達と並んでもいいほどのものだったが、しかしそれでも圧倒的に練習量が足りない。箱根学園の自転車競技部に入ろうとやってくる生徒達は皆それぞれに自転車に関して県下名だたる有名校の出身であったり、また個人でレースに出て名前の知られている選手だったりする。当然のことながら、彼らは強い。その強さを裏付けるものは才能やセンスよりも、それまでの経験と努力なのだった。
自転車のことは何も知らない。しかも他の新入部員達より数ヶ月遅く入部している。それらのディスアドバンテージを克服するために荒北ができることといったら、ただ福富に言われたとおりにペダルを回すことぐらいだった。
一日に何時間も何時間もローラー台に乗って、ハムスターみたいに延々と回し続けて。そしてふと気が付けばいつも自分と福富以外には誰も部室には残っていなくなっていた。集中していると自分の心臓の音と、それから時々隣にいる男が「もっと上げろ」だとかそういうことを言う声ぐらいしか聞こえないから、周りの人間の気配なんか全くわからないのだ。
荒北が一人でまともに走れるようになるまで、福富は荒北のローラー台練習に毎回付き合っていた。きっと何度かハンガーノックや酸欠でローラーを降りた瞬間に崩れ落ちたことがあるからだろう。自分がこの道に引っ張り込んだんだから責任は持つ、とまで丁寧に福富が口にしたことはなかいが、きっとそういう気持ちがあったのだ。一人で外に練習をしに行くようになってからも、福富が荒北がきちんと帰って来るまで待っていたのもそれのせいかもしれない。
他人の三倍回す、という目標があるために、外周をしに行った荒北の帰りはいくら頑張っても遅くなる。終わりのミーティングの時なんかに間に合ったことはないし(そもそも荒北がそれに参加する気がないというのもあるのかもしれないが)、下手をすれば寮の食堂が閉まるぎりぎりまで戻ってこないこともあるのだ。それでも福富は荒北を置いて帰ることはなかった。周りの人間は「よく付き合うな」と呆れていたが、福富は別段それを気にすることも、また荒北に対して何かしらの気負いめいたものを持たせることもなかった。これは自分のやるべきことである。福富の態度はそういうものだったのだ。
そうすると結果的に必ず二人揃って部室を出ることになる。鍵を閉めるのは福富の役割だと決まっていたが、それ以外の多少の片付けだとか明日の準備だとかは(ダウンしていない時以外は)荒北も手伝うようになった。初めこそ「なんでこいつは待ってんだ」だとか「なんでオレまで付き合わなきゃいけねえんだ」だとかそんなことを思ったものだが、慣れは怖い。毎回、それこそ毎日やっている間にすっかり身体に馴染んでしまって、もう今や寒い暑い以外の文句なんて出なくなってしまった。
それに福富も荒北も、鍵を掛けたりすることについては面倒だと思うことはあれど、二人で寮まで帰ることについては嫌ではないのだ。

「さびい」と荒北がまた言った。さらに背中を曲げる彼を見ながら、もっと寒い季節になったらどうする気だ、と福富は少し呆れた風に言う。
「そんときはもう一枚上に着るだろ。それにマフラーとか防寒具もつけるしさァ。でも今はどうやったって防御できねえじゃん」
荒北はそう言いながら、どうにか暖を取ろうとでもするように首を引っ込めて、ブレザーの袖を引っ張る。入学した時には少しだけ長かったらしいそれは、今やもう彼の手首を覆うに足りないほどになってしまっている。ズボンの丈も同じだ。短くなったズボンの裾から、荒北の履いている小豆色の靴下が覗いていた。丈が変わったせいで裾に開いた隙間から風が入るのもよくないらしい。手で無理矢理紺色のブレザーの袖口を掴んで引っ張り上げながら、荒北はそれにも文句を言っていた。