何が嬉しいと言うわけでもない。俺にとっては、何の面白みも利益も無いただの平日だ。
 だがそれでもある人にとっては人生最高の、そしてまたある人にとっては最低の日になり得る。人生に一度しか訪れない、それでいて年に一度必ずやってくるその日。
 かく言うところの『誕生日』が今年もやってきた。

 (いや今年「も」ってのはおかしいか。)
俺があいつの誕生日を祝うのは今年が初めてなんだから。今までに何度も潰してやったこの日をまさか俺自身が祝うことになるなんて。過去の俺なら目もくれなかったようなことに、今俺は真正面から向き合っている。
 仕方の無いことと割り切ることも出来ない。突然に起こるイレギュラーを俺は愛しているが、嫌いあっていたはずの仇敵と恋人同士になるという現実味のない出来事にはまだ頭が付いて行っていないのだ。
 好きだと言われて真っ白になった頭はそのことに言及すると思考を放棄する。「馬鹿じゃないの」と言ってみてもあいつは聞きさえしない。
 それでも抱きしめられた時のぬくもりを思い出しては赤面するあたり、俺も末期なのかもしれない。
 どうしようもないのはお互い様である。

 ***

 そして俺は悩んでいた。
 愛し愛される(笑うところだ)関係となったあの男に何をくれてやったものか。
 きっとそれを直接言えば「お前が欲しい」なんて脳の代わりに腐葉土が詰まってミミズが蔓延ったような返事がなされるというのは目に見えている。

 「いいじゃないか。君たちは恋人、ふふ、恋人同士なんだからさ。」
 前言撤回。笑われるのはやっぱり癪だ。フローリングに投げ出していた視線をにわかに鋭く尖らせてそちらへ向けると、俺の親友(今日だけは笑わないでいてやろう)、新羅はわざとらしく肩を竦めた。
 「間違っちゃいないだろ。彼が喜ぶことがわかっているなら何をためらうことがあるんだい。」
 「正論でこの世の全てが構成されていると思うなよ。俺にだってプライドがあるんだ。」
 「大丈夫。静雄は抵抗されると燃えるタイプだ。」
 「それが怖いんだって。童貞の怖さは夢を見ていることだからね。」

 室内には消毒液の香りがそこはかとなく漂っている。はぁあ、と大きく溜息交じりの嘆きがそれと交じり合って何ともいえない気分になった。ソファに身を沈めて目を閉じる。現実逃避を図ってみても時計は変わらずに時を刻み続けていた。頭に響く鼓動と秒針。

 「わかった、一計講じよう。」

 黙り込む俺に救いの手が伸べられた。いつもは腹が立つ笑顔も今日は女神のそれに見える。
 「ご都合主義だね。ま、僕にとっての女神はセルティだけだから関係ないけど。」
 御託も余談も不必要だと眉を顰めれば新羅は笑いながら俺の前に座った。にこにこと効果音の付きそうな表情に何が潜んでいるかはわからない。それでも当初に俺が考えた「俺がプレゼント」作戦よりはましな答えが返ってくるはずだ。わずかな期待に希望の全てを見出そうとする。

 「静雄の欲しいものってのはさ、つまりは君なんだよ。」
 「それは重々承知の上さ。」
 「あは、妬けちゃうね。でも僕とセルティには、」
 以下省略。俺は片手で話の続きを促した。
 「君が素直になればそれが最善なんだけど、しかしそんなことを許すような自尊心を君は持ち合わせていない。非常に面倒くさい人間だね君は。」
 何度同じ台詞を言わせるつもりか。俺は黙ったまま目の前にいる男を見つめる。その視線を受け止めた新羅はいっそう笑みを深め、椅子から立ち上がるとスタスタとこちらへ近付いてきた。そしてソファに沈む俺の前に立つ。

 「僕が協力するよ。今日だけ君は素直になるんだ。」
 「はぁ?」
 余りにさっきと矛盾する新羅の発言に俺は思わず怪訝な表情を浮かべる。
 「ご都合主義は君のモットーだろ。」
 初耳だ。右手を硬く握り締める。さぁまずは眼鏡から割ってやろうかと構えれば、新羅は慌ててそれを止めた。まぁ聞いてよ、と宥めるような声。

 「今から僕は静雄に電話を掛ける。内容はこう、『臨也がうっかりして僕の作った薬を飲んだ』。さぁ察しのいい君ならもうわかっただろう。」

 なるほど。目を閉じて大きく息を吸う。目を開いたときにはもう俺は次にするべきことについて考え始めていた。

 「責任は取ってくれるんだろうね。」
 「もちろん。親友のためならご都合主義に付き合うくらいなんのその、だよ。」
 「全く。感謝を述べるべきかい。」
 「遠慮しとく。それよりさっさと始めようじゃないか。」

 下らない茶番を。
 そう言ったのはどちらだったかわからない。ともかく俺はその時、生まれて初めて友情というものの存在を認めたのである。

 ***

 エプロンをつけるなんてもう何年ぶりだろう。普段は波江しか装着しない濃緑のエプロンの腰紐を結びながら考えてみたがどうにも上手くいかなかった。寒いわけでもないのに手が震える。うっかり縦結びになってしまった結び目をもう一度解いてから結びなおす。こんな風に、人間関係も失敗したら直せればいいのにと柄にもなく溜息を吐いてみたがそれで状況が変わるはずもない。わかっているのに足掻くのは人間の本性なのだ。一介の人間に過ぎない俺は逃げ出したい衝動を抱えながらようやく並べておいた食材に向き合うことにした。

 新羅の電話はあいつにどう受け止められただろうか。
 『素直になる薬』なんてものがノンフィクションのこの世界にあると言うことさえ狂気の沙汰なのに、信じるとなればもっと低い確率のはずだ。
 恋と愛というピンク色のフィルターのおかげで上手く引っかかってくれるといいが。

 「まぁそもそもシズちゃん馬鹿だから信じそうだよね。」
 一人ごちつつ白菜に包丁を入れた。
 「うっ、」
 案外硬い。無理矢理縦にして真っ二つにすると、予想外にバラバラになった。流しに落ちそうになる葉を慌てて手で救う。ああどうしよう、波江に手伝ってもらえばよかった。今更思い浮かべるのは、一人で鍋ぐらい作れると虚勢を張る俺を見つめる波江の冷ややかな視線だった。後悔に後悔を重ねる間にも時は刻々と流れる。

 額に浮かぶ汗。素敵で無敵な情報屋さんの俺が料理ぐらいできないわけはないんだとサブリミナル効果で自分を騙し、世の中のお母さんを思い出せほら皆適当に切って味付けをしても上手くいっているんだとバーナム効果で励ました。

 そのお陰かヴァルキリーの守護かはわからないが、どうにかこうにかみずみずしい緑の束を口に入るぐらいのサイズまで裁断しきることが出来たのは、始めにそれを手に取ってから優に一時間が経過してからだった。
 俺は汗を拭う。コーヒーでも入れて一息つきたい気分だったが三次元というのは残酷だ。未だ食材としてのアイデンティティを保持したままの野菜や生肉が整然と並んでいる。まだ先は長いようだ。自覚して眩暈に襲われた。しかしそれでも俺は逃げることは出来ない。

 「俺は素直にあいつを祝いたいんだ。」

 言い聞かせるように呟いて、包丁を強く握りなおす。
 俺の戦いはまだ始まったばかりだ。

 ***

 こたつの上には鍋の準備が出来ているし、指からの出血も止まった。エプロンを外して疲れきった身体をこたつの中に滑り込ませる。ほどよい温もり。目を閉じればすぐにでも夢の世界に旅立てそうだ。しかし試しに瞼を下ろそうとしてみたが、うるさいほどに脈打つ心臓のせいで目と脳は冴え渡るばかりで眠るどころかじっとしてさえいられない。
 立ち上がる。デスクの上に重ねられたファイルを見つけ慌てて棚に片付ける。寝転んだせいで服にしわがついたのではないか、髪ももっとちゃんとセットしたほうがいいんじゃないか。急速に回転しだした頭についていけず無意識に部屋の中を右往左往していた。
 ふと気付く。俺はどうかしていると。何をそわそわしているんだ。

 「あはは、まるで初恋みたいじゃない、」

 初恋?
 俺は首を傾げた。脳内の普段使わないルートファイルまで引っ掻き回してみるが、どうも記憶が無い。
 「俺、初恋っていつだったかなぁ。」
 優秀な俺の脳が忘れるはずは無いのに。どうしてだろうといくら頭を絞れどひねれど答えは出てこない。その時の俺には一つの革新的な答えを見つける術はなかったのだ。
 そうしているうちに鐘が鳴った。

 ***

 ぴんと背筋を伸ばして玄関に立つ。ドアの鍵は開けてある。後はあいつが入ってくるのを待つだけ。
 (なんでこんなに緊張してるんだろうか)
 久方味わっていなかった感覚に俺は戸惑っていた。深呼吸をしても心音は途絶えない。当たり前だ。
 素直素直と何度も頭の中で繰り返す。素直がゲシュタルト崩壊しそうだと混乱を極める脳内で役に立つか怪しい幾度目かのシミュレーションを丁度終えたとき、遂にドアが開いた。

 「邪魔すんぞ。」
 うっかりいつもの調子で「邪魔するなら帰れ」と言いかけて固まる。
 (素直素直素直素直素直)
 一体どんな意味なんだったかすっかり忘れてしまったその言葉を反復し、俺は顔を上げた。意を決して一歩を踏み出す。

 「いらっしゃいシズちゃん。待ってたよ。」
 いつもとは違う俺の態度に一瞬たじろいだが、新羅はちゃんと仕事をしたらしい、あっという間にシズちゃんは顔を真っ赤にして嬉しそうに微笑んだ。つられて赤くなる頬を右手で、そしてシズちゃんの手を左手で引いて歩き出す。繋いだ掌は熱い。思わずそらしてしまったが、未だに瞼の裏に幸せで幸せで堪らないと言うシズちゃんの笑顔が焼きついていた。

 (勢いに負けて恋人になったと思ってたんだけどなぁ。)
 頭に鳴り響くのはもはや警鐘ではない。赤く染まる脳内は早くも思考を諦めそうになっていた。