(ああ雪だ。)
ちらついた白い粒を目は思わず追う。釣られるように空を仰ぐと、重たそうな雲から続々と雪がこちらを目指しているのが見えた。そりゃあ寒いわな、と隣でトムさんが大げさに肩を震わせる。雪国生まれのヴァローナはそんな上司の様子を不思議そうに眺めては首を傾げていた。きっとこの後輩の故郷ではこんな気温じゃ寒いって言葉を使わないんだろう。トムさんに比べて薄着なヴァローナの頬は雪みたいに白い。
冷えきった指先をダウンのポケットに押し込みながら息を吐く。真っ白だ。ふと思い立って振り向くと、道行く人々は皆俺と同じように白い息を吐いていた。これが集まって雲になって、そしてこの街に雪を降らせているのかもしれない。柄にもないようなことを思ったと、俺は一人気恥ずかしくなって頭を掻いた。
(これは絶対あいつのせいだ。)
名前を呼ばれてようやく俺は立ち止まっていたことに気付き、先を行く二人の後を追い始める。早足で人混みを抜ける間ずっと頭に思い浮かんでいたのは、たった一言。家を出るときに臨也が口にした『雪が降るから、今日は早く帰ってきて』という言葉だった。
付き合い始めて二年とちょっと。一緒に暮らし始めてもう半年が経とうとしている。どっちが先に好きだと言ったのかは忘れた(と、臨也が言うから俺も忘れておくことにする)。
この暮らしは余りに心地が良すぎて、俺はもうあいつがいないとまともに暮らせる気がしない。
朝起きて、隣で警戒心の欠片も無い顔で眠る臨也を見る度に、胸の奥の方がじんわり温かくなる。俺はこの為に生きているんだ。あいつが側にいる、そんなふとした瞬間に思うようになった。今の俺を生かしているのは、他でも無い臨也なのだ。
臨也だって、たぶんそうだろう。まぁ、あいつの場合、そもそもあらゆる生活能力が欠けているから、そういう意味でも俺がいないと生きていけないはずだ。
お互いに相手がいないと駄目ってぐらいには依存してるし、もし死ぬなら自分が相手を看取るんだって二人とも心に決めている。「せいぜい長生きしろよ。」最近じゃ、そんな軽口を叩き合うのが楽しくてたまらない。
細い路地をいくつも抜けて、俺たち三人は静かな住宅街の一角にたどり着いた。今日の最後の仕事相手は俺と同い年の男だそうだ。
ここだ、とトムさんが指で示し、先だってアパートの階段を上っていく。錆び付いた金属の手すりに軽く触れながらヴァローナもその後に続く。来たことは無いはずなのに、何となく見覚えがあるような気がして俺はそのぼろっちい建物を見回した。階段の脇の色褪せた消火器、ちかちか点滅する蛍光灯、蜘蛛の巣に絡まった蛾の羽の切れ端。
木製のドアがノックされる。
一回二回三回。段々と強くなっていく音と混じり始めた上司の怒号を柱に寄りかかって聞いていた。ヴァローナも俺と同じように背中を鉄柵に預けながら出番を待ちわびている。落ち着かない様子で上司の背中を見つめる姿にまた既視感。
あれ、なんだったっけな。寒さで靄のかかった頭で考え込む。落とした視線の先にはコンクリートの床。所々に残る黒い跡に、ふっと思い浮かんだ情景がある。
(俺の住んでたアパートにそっくりだ。)
昔、というほど前でも無いが、ここは俺の家だった場所によく似ている。
ドアが開く音を聞いて、隣から金髪のロングヘアが飛び出していく。そうだ、あいつもあんな風にいつも俺が帰ってくるのを待っていた。寒い日は鼻先を真っ赤にして、冷えきった指先を擦り合わせながら柱に寄りかかっていた。薄暗い廊下で黙って立っている臨也のために走って帰っていたことも今じゃ懐かしい。
考えを切り上げて部屋の方へ向かうと、ちょうど上司の足下で男が土下座していた。もうおおよそは片が付いてしまっているらしい。トムさんはそいつの肩に手を置いて、慰めるみたいな調子で通帳とハンコの在処を聞き出していた。出番の無かったヴァローナは少し不満げに、俺に向かって今日は早急に帰宅可能なようですと呟いた。
「平和なのも悪かねーだろ?」
トムさんは戦利品片手に笑い、少し乱暴にドアを閉めた。さっさと帰るぞ。まだ向こう側で続く泣き声に笑い声を被せながら言うトムさんはいつもより上機嫌なようだった。
「ほらこれ、俺らから。」
「高価と表現可能な金額の物品ではありませんが。」
「それを言うなって。」
帰り際、トムさんは苦笑しながら俺に紙袋を差し出す。中には綺麗に包装された瓶が一つ。ありがとうございます、と驚きながら受け取るとトムさんはにやりと笑って俺に言った。
「今日は早く帰って嫁さんと一緒に飲めよ。」
「嫁って、そんな、」
「いいだろ嫁で。お前が煙草止めたのも臨也くんのおかげなんだし。いつまでも仲良くやれよ。」
帰った帰ったと背中を押されて、言葉を重ねる暇もなく俺は家路へとつかされる。動揺も驚きも感謝も、すべて言葉にしたいのに出来ない。
(こんな時、臨也だったら上手く言葉にできるんだろうか。)
一瞬そんなことを考えて、すぐに自分で否定した。あいつも俺と同じで、いざという時にはなにも言えなくなるのだ。告白した時のことを、始めてあいつを抱きしめた時のことを思い出して緩みそうになる頬を押さえながら俺は歩きだした。
「静雄、おめでとう。」
「おめでとうございます。」
少し遅れて後ろから聞こえた声が照れくさくて、俺は振り返ることもできなかった。
雪はやはり、夕方になっても止むこともなく、しんしんと降り注いでいた。時折吹く風の冷たさに身は切られるようだが、歩くのは辛くない。「今日はごちそうだ」と張り切っていた同居人の姿を思い出すだけで道のりなんてたいしたものではなくなるのだ。
マンションのロビーに入るとようやく頬に温もりが戻ってくる。じっとエレベーターを待つのも億劫で、俺は迷わず階段へと足を踏み出していた。一段飛ばし、二段飛ばし。無意識に足は速くなり、部屋の前にたどり着いた時には鼓動は弾んでいた。
ポケットから取り出した鍵でドアを開けていると、向こう側からスリッパで駆けてくる音が聞こえた。慌ててドアノブから手を離し、顔を押さえる。しかし俺の準備が整う前にドアは開かれ、いつの間にやら臨也が腕の中にいた。
(どうしよう。)
この緩んだ顔。見られないために腕に力を込めると、同じように臨也も俺の背に手を回す。きっとこいつも似たような顔してるんだろう。お互いに意地っぱりなところは死ぬまで変わりそうにないなと思い、思わず口から笑い声が出た。なぁに、シズちゃんもう酔ってんの。臨也の声は柔らかくて温かかい。
「お前のせいだよ。」
俺が今、こんなに楽しくて泣きそうなぐらい幸せなのは。耳元に口を寄せて呟くと、臨也はくすぐったそうに「ばかじゃないの。」と言って俺の首に手を回す。
臨也の肩越し、窓の向こうに雪が見える。寒かっただろう。臨也は俺に尋ねる。今は温かいと俺が答えると、臨也は満足げに喉を鳴らせた。
「早く帰ってきてよかったでしょ。」
「ああ、本当にな。」
一つ歳を取るのがこんなにも嬉しい。いつまでもこんな会話をしていられたら。二つの相反する希望を俺が持つようになったのは全部臨也のせいだ。
「誕生日おめでとうシズちゃん。俺より早く死んで。」
笑い混じりに放たれる言葉の意味を俺は知っている。