目覚まし時計の音で目が覚めた。8時。ぼやけた頭を無理矢理枕から引き剥がし、窓の方へと目を向ける。開け放したままのカーテンが揺れている。たしか窓は閉めたはずだったのに。寝惚けたままでは何もわからない。俺は枕元に手を伸ばした。
「はい、煙草。」
「ああ、悪い。」
横から差し出された煙草の箱から一本取り出してくわえる。するとやけに慣れた手つきで火が点けられた。深く吸い込んで吐く。だんだんと鮮明になっていく視界。
「なんでてめえがここにいるんだ。」
「入ってきたからに決まってるじゃないか。君って実に馬鹿だな、シズちゃん。」
吹き込んだ風が臨也の髪を撫でていく。爽やかな笑顔。不本意だが付き合いが長いと悪いことを考えていることぐらいわかる。何を考えているのかと眉を顰めても目の前の男は笑みを深めるばかりだ。しばらくの睨み合いの末、臨也が口を開く。
「鬼ごっこだ。」
「はぁ?」
理解できずに聞き返す。臨也はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「鬼ごっこだ。今日中に君が俺を捕まえられたら、もう俺は君には近付かない。」
手を伸ばすとあっさりかわされた。俺の突然の攻撃は予想されていたようで、臨也は顔色ひとつ変えることない。舌打ちして立ち上がる。再度俺の手は避けられた。バランスを崩して二人で畳に倒れ込んだ。俺の両手は臨也の頭の横に置かれている。間近にいるのに捕まえられない。俺はまた舌打ちをした。額には銃口が当てられている。ひやりとした感覚に目を細めれば臨也はおかしくて堪らないと喉を鳴らす。
「本当だろうな。」
「俺が嘘なんてついたことがあったかい。」
心当たりを挙げればきりがない。胡乱げな目つきで見つめれば臨也は俺に銃口を突きつけたまま大きく頷いた。
「ただし今日一日、君が誰にも捕まらなかったらの話だけどね。」
ほくそ笑む臨也。俺はとっさに身を引いた。直後トリガーは引かれけたたましい音が室内に響く。本物の銃では無かったらしいが、ことを起こす引き金としては十分だった。がちゃりと荒っぽく扉が開かれる。反射的に目を向けた。そこには何人もの黒服。
「さぁ早く逃げないと捕まっちゃうよ?」
臨也はおもちゃの銃を片手に胡座をかいている。なだれ込んでくる黒服のせいでその姿は次第に見えなくなった。笑い声だけが耳に届く。苛立ちは抑えきれないが仕方ない。俺は窓枠に足を掛けた。
「首洗って待っときやがれ、臨也ァ!」
そのまま一気に飛び出した。振り返った先にはまだ笑い声が反響している。
***
いくつか気付いたことがある。
一つは4月の風が思っていたよりも冷たいこと。
もう一つは裸足では街を思うように走れないこと。
そしてもう一つ、今日は街全体が俺の敵であるらしいということだ。
黒服をどうにか振り切って走る俺の後ろには何人もの男たちがいた。いや、男だけではない。女も老いも若いも「平和島静雄」知る誰もが俺を見ては襲いかかってくるのだ。喧嘩でなぎ倒したことのあるチンピラ、いつも煙草を買うコンビニの店員、はたまた臨也の差し金である黒服まで、皆が皆息を切らして俺を追いかける。
「一体なんだってんだ。」
俺が何をした。むしろ臨也が何をした。妙に人々が楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。そんなことを思っている暇もなく、俺は地面を蹴る。塀を乗り越え、フェンスを飛び越し、空を蹴る。
数え切れないほどの路地を曲がったところで後ろを振り向くと、いつの間にか誰もいなくなっていた。歩幅は変えずに早さだけ落とす。
しばらく歩いて呼吸が楽になった頃、俺は見覚えのある場所にたどり着いていた。子供の頃よく来た公園。人気のない公園内はブランコが独りでに揺れるだけで非常に静かだ。ベンチに腰を下ろしてから、煙草を奪い損ねたことを後悔する。足に付いた土を軽く払ってみたが泥までは取れなかった。
あいつが何をしたいのかまるでわからない。黒服たちはおそらく金で雇われたのだろうが、それにしても何で臨也があんなにまどろっこしいことを始めたのか理解できない。
(いつもみたいにナイフでも突きつけてくりゃあいつを殺せたのに。)
邪気のない悪意は苦手だ。ため息は欠伸とともに溶けていった。
身体の力を抜いてしばしベンチに沈んでいたが、ほど近くで馬の嘶きが聞こえたような気がして俺は立ち上がった。見れば見慣れた黒バイクがこちらに手を振っている。
小さく手を挙げて応えるとセルティはこちらに歩み寄ってきた。
『大変そうだな。』
「まぁな。本当にろくなことしねえぜ、あの野郎。」
苛立ち混じりに息を吐くとセルティは肩を竦めていた。ふと思い出したようにセルティはバイクから何かを取り出した。そしてそれを俺に手渡す。古風な風呂敷だった。中を開けるよう促され、俺は結び目を解いた。
中には真新しい運動靴に靴下、そして上着。上着についてはご丁寧に俺が今履いている高校の頃のジャージに合わせてある。胸元に入った「平和島」の文字には驚きを通り越して呆れさえ覚えた。変なところでこだわりを見せる男だ。
ぎっしりと詰め込まれていた画鋲を取り除いてから靴を履くとサイズは丁度だった。さすが情報屋、とでも言うべきか。癪だから絶対に言わないが。
セルティに礼を告げると、言う相手が間違っていると軽く返される。言葉に詰まって俺は頭を掻いた。きっとセルティに声があったなら笑っていたところだろう。「冗談だ。」と画面に文字が表示され、また俺は肩を落としたのだった。
いくらか会話を交わした後、俺はそこを離れることにした。遠くの方で笑い声が聞こえたような気がしたのだ。
短く挨拶して踵を返す。予想以上に履き心地のいい靴に違和感を覚えつつも俺は駆けだした。
セルティは何も言わない。当たり前だ。それが日常なのだ。俺はそう信じきっていた。しかしここにあるのは「非」日常なのだ。
後ろで嘶きが聞こえる。信じたくはなかったがそれは段々と近付いてきているようだった。意を決して振り向く。そこには黒バイク。そしてその手には大きく黒い網。
「まじかよ。」
俺の問いかけにも答えずセルティは網を振りかざす。慌てて地面に転がって回避するも追撃は続く。立ち上がり走り出す。セルティは全力で俺を捕らえにかかってくる。なんでどうして。その文字は走れば走るほどに小さくなっていき、次第に俺は逃げることだけに専念し始めていた。
大通りは避けて路地から路地へ。できるだけ細い道を探しながら俺は逃げる。バイクの幅よりも細い道は案外少なくて、まだ俺の後ろにはエンジン音が絶えない。
(敵に回すとこんなに厄介だとはな。)
もう数十分近くこうして駆け回っている。その間も黒服やチンピラなんかは襲いかかってくる。もしかすると黒バイクのせいで余計に目立っているのかもしれない。散々だ。
崩れそうな廃ビルに飛び込む。埃まみれの階段を駆け上がる。さすがに階段は上れないらしく、エンジン音は遠ざかっていった。俺はその隙に上へ上へと登る。たどり着いた屋上からは錆びたフェンス越しにいつも通りの街が見えた。気付ばもう11時だ。