「しまった。」
俺は思わずそう呟いた。すっかり忘れていたが今日は平日だ。つまり当然仕事がある。いつもフラフラしている臨也に釣られてしまっていたが俺は確かに社会人なのだ。
どうにかして上司と連絡を取らなければならない。しかし携帯電話は家に置き去り、公衆電話を使おうにも今俺は一銭も持っていない。地上に下りればきっと人に囲まれてそれどころではないだろうし、そして場所がばれているということはここもじき安全ではなくなる。ゆっくりはしていられない。俺は焦っていた。
「うわっ、」
ポケットが震えたことに咄嗟に対応できなかった。上着の右ポケット奥に押し込められた四角を取り出すと、それは確かに俺の携帯電話だった。あいつの良心か、いやそれとも罠か。判別は付かないがともかく助かった。慌てて電話を取り出して通話ボタンを押す。
第一声に謝罪を告げるとトムさんは笑って許してくれた。
「いいって、なんか大変なんだろ。」
「すみません。あいつのせいで、」
「本当に仲いいよなお前ら。」
トムさんは何か勘違いをしているに違いない。即座に否定してもトムさんは愉快そうにへえ、と言っただけだった。からかわれている。頭を抱えたいのを抑えながら俺は今日は休むという旨を伝えた。
「ああ、わかった。気ィ付けろよ。」
「はい、ありがとうございます。」
理解のある上司で助かった。俺は心底トムさんの部下であることが幸運だと思って、今までに無くこの人を尊敬した。懐の深さや回転の速さ。こんな人に俺はなりたい。
「油断したね、シズちゃん!」
聞こえるはずの無い声。
俺は振り向いた。誰もいない。
そうなればこれが聞こえてくるのは、
「人を見たら、いやこの場合だと聞いたらか、敵と思わないといけないよ。特に今日は。」
電話の向こう側で聞き覚えのある笑い声。
「こんなに長い間通話してちゃ黒バイクの一人やロシア人の二人そっちにたどり着いてても不思議じゃないよねえ?」
「臨也、てめえトムさんまで!」
「彼が望んだことさ、俺がどうこうしたわけじゃない。」
臨也はそこで一旦言葉を切ると、急にトーンを落とした。背中に嫌な汗が伝う。フェンスの一つを蹴り壊して隣のビルへと跳ぶ。
「早く逃げないと、『彼女たち』は手強いよ?」
背後で叫ぶようなエンジン音が響く。着地して目だけそちらへ向けると、もうすでにバイクはこちらへ走り出していた。脚を止めず、次にどこに行くべきか目を走らせていると不意に声がした。
「目標、視認しました。捕獲作業を開始します。」
「ヴァロ、うわっ」
まさか後輩まで臨也の魔の手にかかっていたなんて。バイクの後部座席から飛び出してきた金髪は真っ直ぐに俺の方へと手を伸ばす。身体を捩ってそれをかわし、そちらを見ればヴァローナの目はしっかりと俺を捉えていた。俺はあることを思い出す。いつだったかトムさんの奢りでケーキを食べに行ったとき、ショートケーキ一択の俺の隣でヴァローナは同じ目をしていた。そうだ、これがこいつの本気の目だ。
「油断禁物です、先輩。全力で相対、希望です。」
跳び退いて逃げ道を探す。しかし攻撃の手は緩められることなく、俺は注意をそちらに向けざるを得なかった。鋭い蹴りを片手で受け流す。腹部を狙う蹴りは後方へ跳んで回避。素早く姿勢を立て直し右へ。後ろにいる黒バイクも忘れてはならない。黒い網の大振りを屈んで避けて、さらにそちらへ走る。
「悪い。」
ヴァローナが伸ばしてきた腕を取って投げる。落下方向にいたセルティは焦ったように網を振った。
俺はその隙にバイクの隣を抜けてさっきいたビルへ跳ぶ。
呼ぶ声に釣られて視線を向けると、黒い網の中で金髪がもがいていた。
(敵に回すもんじゃねえな。)
俺は改めてそう思い、早くいつもの平穏が戻ってくることを心から願ったのだった。
***
一段飛ばし、二段飛ばし、そして踊り場へ。ほとんど階段を飛び降りながら下を見る。手すりと階段の間から見えるフロアには人が犇いていた。
(しくじったな。ここから逃げるんじゃなかった。)
上にはまだ黒バイクと後輩がいるし、下には人だかり。横に窓はあるが臨也ならともかく俺の肩幅が通るとは思えない。逃げようが無いのだ。
俺は一度足を止めた。かんかんと靴を鳴らし人々が上がってくるのが聞こえる。
伸びをした。
「要は捕まんなきゃいいんだろ。」
逃げるだとか、もうそんな小難しいことを考えるのは疲れた。朝から頭を使い通しだ。俺は臨也じゃない。いつもどおりでいればいいのだ。そう思った瞬間に肩の荷が下りた気がした。
(いつも通りあいつを追いかけて、どうにかして捕まえりゃいいんだ。)
ただし今日だけは殺さない。そこだけが「非」日常であればいい。
「首洗って待っときやがれ。」
一人ごちてそう呟くと俺は足を階下へ向ける。一つ下の踊り場にはもう人々が網を構えていた。赤い目と不自然なほどの無表情。前にもこんなことがあったな、と俺はあの時の高揚と一緒に思い出した。
「手加減しなくて、いいんだよな。」
言うが早いか、俺は踏み込んだ。なぎ払い蹴り倒す。網を叩き折り、そこに転がる人々を踏み越えて、なりふり構わずとにかく前へ進む。あの憎たらしい笑顔を歪ませてやる。その一つだけを心に留めると随分楽だった。
見覚えのある男を蹴り飛ばすと、そいつは服を撒き散らしながらドアの向こうへと飛んでいった。外は光に満ちている。突然明るくなった視界の端に黒が過ぎる。俺はもう何も考えない。ただ本気で「鬼ごっこ」をしていたのだ。
***
コートが翻る。
角を曲がるたびに見慣れたファーが上下するのがわかる。走っているうちだんだんとそれは近付いてくる。近付いているはずなのに手は届かない。もどかしい。必死で脚を動かすと自分の息遣いがやたらと大きく聞こえた。
歩道橋を渡っていく黒い影を俺は追う。俺が階段を駆け上がったところでそいつが車に乗り込むのが見えた。舌打ちしつつ階段を何段も飛ばして駆け下りる。
地上に降りた途端、一台のワゴン車が俺の隣で止まった。不審に思いそちらを睨むと、開け放たれたドアの向こうには見慣れた顔があった。
「シズちゃんがジャージだよ、ゆまっち!滴る汗腹チラああああ!」
「キャラ崩壊著しいっす、狩沢さん!」
「あたしはいいの。萌えのためならこの世界なんてアンインストール。」
「世界にアンインストールされかけてんのはアンタの方っすよ!」
相も変わらず騒がしい。門田は耳を塞ぎながら呆れたようにそれを見て、それから俺に声を掛けてきた。
「あいつ追ってんだろ。乗せてってやるよ、静雄。」
門田だけがこの街の良心なのかもしれない。いつもと変わらない調子でそう告げた門田の目には曇りなど無かった。俺は少しそれに安心する。誰もかれもが敵だと思ったのは早計だったかもしれない。走るスピードを落とすとワゴンもそれに合わせて止まった。開けられたままのワゴンの入り口に俺は脚を掛けた。
だが俺は乗り込まずに踵を反して駆け出した。背中に嫌な感覚が走ったのだ。ドアの向こうの薄暗がりで三人がにっこりと微笑んだように見えたのだ。何かが闇のなかで鈍く光った。
逃げ出した俺の背後で声が聞こえる。
「なんでバレたんだ。」
「野生のカン?」
「狩沢さんがにやついたからじゃないっすか。」
「えぇ!アタシ手錠プレイについて考えてただけだよ!?」
聞きたくなかった。音よりも速く走れたらと思うのはこんな時だ。ワゴンは追ってくる。俺はトップスピードを維持しながらどうにか細い路地に入ろうと試みる。しかしどこもかしこも人の気配がする。気付けば、俺はいつの間にか街の中心に入り込んでいた。
目の赤い人々がこちらを見ている。口々に何かを呟きながらもこちらには近付いてこない。疑問符が頭に浮かんだが、遠巻きに見ているだけなら害はない。遠くの脅威より目先の恐怖だ。俺の背後ではまだワゴンが唸りを上げていた。首だけ捻って後ろを覗くと、助手席に座っている門田がにやりと笑うのがわかった。いつかの夕暮れが頭を過ぎる。
(まずい。)
そう思った時には身体が宙を舞っていた。
***
「『撥ねろ』だなんて、さっすがドタチン、過激ィ!」
「そこに痺れる憧れるゥ!」
「馬鹿言ってねえで早くワイヤー持ってこい。逃げられるぞ。」
車の下で俺は呻いた。昔トラックに撥ねられたほどではないが、痛いものは痛い。腰に走る鈍い違和感に俺は溜息を吐いた。
(絶対これ痣になってんだろ。しかもちょっと擦り剥いたし、)
風呂に入るのが憂鬱で仕方ない。この苛立ちをどこにぶつけよう。
(そうだ臨也だ。)
空が見えた。車が移動したのだと気付き俺は身を起こした。周りからざわめきが起こる。見回すと、口をぽかんと開いてこちらを見ている人々とワイヤーと手錠を構えた四人の男女が見えた。
「気絶さえもしてないとか。静雄さんチートキャラすぎる。呂布以上っす。」
「ああ、シズちゃん絶対呂布コス似合うよね!」
門田はつっこむことを止めたようだった。無言で立ち上がると、俺は門田を見た。互いに何も言わない。今まで感じたことは無かったが、門田の瞳の奥にも熱い部分がある。じりじりと距離を保ち、牽制。俺は走り出す準備を、そして門田は手に持ったワイヤーを俺にかける準備をして、いい大人の二人して睨みあっていた。その横に立つ男女がそれぞれピンク色のステッキとメジャーを構えているのは見なかったことにした。大きく息を吸う。油断してはいけない。門田のガタイ、そしてあとの3人の動きが予測不能であることも含め、生半可な覚悟では捕まるだろう。
短く息を吐いて前を見据える。そして、
「あ、」
身構えて前を見た瞬間、狩沢が声をあげた。思わず振り向いた先に見えたのは黒い影。俺の意識は一瞬でそちらへと持って行かれてしまった。目の端でわずかに門田が動くのが見えた。飛びかかってくるのを掴まえてぶん投げる。
笑い声が上がる。仲間が投げられようとこいつらの陽気さは変わらないらしい。門田が起きあがるのを背後で感じながらも俺の目はもうそれを映してはいなかった。
それゆえに俺は気付くことができなかったのだ。
門田の口元が笑っていたことに。そしてその手に携帯電話が握られていたことに。