勝手に足が動く。違和感と疑問は脳内で絶えないが、どうしても俺は止まることができなかった。前に走る俺よりも細くて小さい影が路地へと入り込んだ。続いて俺もそちらへ飛び込む。
 そこには何人かの男たちがいた。赤い目をしている。さきほどと同じようにそいつらはただこちらを見つめているだけだ。近付くにつれそいつらの口の動きが鮮明に見えてくる。呟く言葉も同じく俺の耳に届き始める。

 「母さん。」「母さん、ここです。」「母さん、平和島静雄です。」「下にいます、母さん。」「母さん。」

 「はい、わかりました。」

 女の声だった。上を向いても逆光のせいか背格好しか見えないが、小柄であることはわかる。そしてその手にはすらりとした日本刀が鈍く光っていた。
 俺が息を呑む間もなく、一振り。刃が反射した光が俺の目を襲った。

 突如として目の前に瓦礫の山が積み上がる。上から降ってきたのは鉄筋だった。下手したら死ぬんじゃないかと一瞬思ったが、昔下敷きになったことがあったと俺は思いだして背を向けた。
 見上げるともう少女の姿はなかった。退路を塞いだつもりなのだろうか。俺にはさして意味はないが、ともかく臨也にとっては効果的だろう。
 (やっと終わりが見えてきた。)
 気合いを入れ直し、足で地面を蹴る。朝よりか重くなった身体が休息を訴えていた。
 たどり着いた先は行き止まりだった。そそり立つ壁の前で黒装束が立ち止まる。一定の距離を保って俺も足を止めた。その時、

 「とったあああああああっ!!!」

 背後から何かが飛びかかってくる。ちらりと見て俺は拳を解いた。そして指先に力を入れる。人差し指と親指だけに意識を集中させる、そう、つまり言うところのデコピンだ。
 ばつん、と鈍い音が辺りに響く。例えるなら、樹齢400年の大木を棍棒で殴りつけたような音だった。聞いたこともないような悲鳴を挙げて金髪が地面に崩れ落ちていく。たしか和田とかいう奴だったと思う。いまいち覚えてはいないし、それに今はどうでもいい。俺は再び目の前の黒い影に目を戻した。
 「臨也はどうした。」
 後ずさりながらその臨也「もどき」はこちらに怯えた目を向ける。服装や髪型は確かに臨也に似ているとも言えるが、目つきもそれに匂いも違う。俺は苛立っていた。
 (臨也に会いてえ。)
 何に対して苛立っているのかもはや俺にさえよくわからなくなっていた。ともかく早く本物のあの姿を目にしたかったのだ。殴るだとかそういうこともそこにはなかった。
 俺はまた指先に力を込めた。今度は親指と中指で、本気のものをお見舞いしてやる。じわじわと近付いていく。
 「さっさと吐きやがれ。臨也はどこだ。」
 「し、知りません。僕はただこれを臨也さんに借りただけで、」
 「じゃあどこにいるか知ってんだろ。言え。」
 「知りませんよ!」
 「いい度胸してんじゃねえかお前。」
 俺は手をそいつの額に向けて構えた。そいつは手を合わせて俺の方を見つめてくる。神にでも祈っているのだろうか。俺には関係のないことだ。そう思って、しっかりと俺は狙いを定めた。

 「いけないんだ、シズちゃん。弱いものイジメなんてさ!」

 姿は見えずとも声はする。目を動かして辺りを探せば、驚いたことにそいつは俺のすぐ側にいた。
 「お前、その格好、」
 「懐かしいだろ。君と会ったときのままだ。」
 赤のインナーに短ラン。くるりと回って見せて、臨也は実に楽しそうである。凝り性なところも相変わらずだと俺は内心呆れた。臨也もどきから離れて、俺は臨也の立っている方へと近付いた。フェンスにもたれ掛かり、臨也は俺を見ている。
 「どういうつもりだ。」
 「どう?どう、か。」
 臨也は考え込むような素振りをして目を伏せた。真正面に立つとその顔の端正さがよくわかる。いつかこいつの妹たちが言っていた。「臨兄の長所なんて見た目以外にあるの?」と。臨也の黙り込んだ一瞬に俺はじっとそれについて考えてみたが、どうにも浮かばなかった。
 少しして臨也が顔を上げる。
 「どうってことはないさ。ただ君に出会えたことに感謝しようかと思っただけのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。」
 ふざけているのか。はたまた本気なのか。影の中で臨也の目は俺を映しているだけだった。臨也が頭を上に向けると耳障りなほどにフェンスは軋んだ。
 「そうか。じゃあそろそろ別れにも挨拶してえな。」
 俺はそう言って手を伸ばす。しかし簡単には捕まってはくれないようだ。軽い調子でフェンスを越えて、臨也は俺に視線を遣った。その表情にいつものいたずらっぽいものを見つけて安心したような気持ちになったのはきっと気のせいだと思う。
 「じゃあ捕まえてごらん。」
 言って、間髪も入れずに臨也は走り出した。翻る学ランの裾も、髪の色も変わらない。変わったことと言えばこんなに馬鹿馬鹿しいことを馬鹿馬鹿しいと思いながらも続けられるようになったことだろうか。

 「殺されても文句は言えねえよなぁ、臨也ァ!!」

 一生、いや俺があいつを殺すまで、これは続くのだろう。俺には言いようのない確信があった。

 空はいつの間にか紫付き始めていた。

 ***

 右手に握りしめた標識はもう役には立たないだろう。地面に叩きつけた時にひどく曲がってしまったそれを俺は投げ捨てた。代わりに何かを手に取ろうとしたが辺りに武器になりそうなものはない。仕方ないので拳を握りしめ、片足で地を蹴る。
 器用に身体を捻ってそいつは俺に笑いかけた。ナイフの一撃付きのとっておきの笑顔。実に楽しそうなその目に俺自身の顔が写り込む。同じように歪められた口元。俺は一体なにを思っているのだろう。
 意識をそちらへ持って行かれた一瞬にそいつが動いた。視界で躍る黒。しまった。そう思った時にはもう遅い。追いきれずに笑顔が消えた。俺は視線をぐるりと周回させる。しかし一周しきる前に腹に強烈な衝撃が走った。息が詰まり、視界が滲む。気付けば地に着いていたはずの足は空を踏んでいた。
 背中に強い衝撃。そして腹の上に圧迫感。見上げた先にはネオンライトと黒い影。
 「何がしてえんだよ、おい。臨也ァ・・・。」
 にんまりと弧状に口の端ををつり上げて、天敵、折原臨也は俺を見下ろしている。いつもならばナイフの一本や二本俺に突き刺して逃げているはずなのに、今日はなぜだか首筋に添えられた金属は動かない。意図が読みとれず眉をしかめるばかりの俺が何を言っても臨也は何も言わない。それどころか天敵の前だというのに余所見さえしている。
 隙を見て掴みかかろうとしてみたが希望は一瞬にして消え去った。額に冷たい感覚。
 「今度のは本物だからね。」
 俺は力を抜いた。この体勢になった時点でもう俺の勝ちはなくなったものと考えるべきなのかもしれない。
 臨也は辺りを見回し、そしてある一点で視線を止めた。目だけを動かして俺もそちらを見る。やあ、とこの状況に似つかわしくないほど暢気な挨拶。
 「新羅?」
 「いい格好だね、静雄。それに臨也も。似合ってるよ。」
 「君もどうだい。」
 「はは、遠慮しておくよ。あえて記憶を汚す必要はないしね。」
 話しているうちに徐々に周りに人が増えてきたような気がする。その中から一人の男がこちらへと近付いてきたのを俺は目の端に捉えた。
 「ドタチン大丈夫?」
 「まぁな。まさか容赦なく投げられるとは思ってなかったが。」
 門田は俺を見下ろしてにやりと笑った。
 状況が飲み込めない。
 (臨也はこいつら全員とグルで、いやでもこいつらが協力するメリットなんて、)

 「そろそろ時間か。」

 門田が呟いた。ますます人は増えている。全員が俺たちに注目しているようだった。臨也がゆっくりと俺の額に当てていた銃を空へと向ける。

 「捕まえた。」

 銃声。おそらく臨也のその言葉は俺だけにしか聞こえていなかっただろう。
 臨也が俺の手を引いて立ち上がると、周りがにわかに騒がしくなった。
 「残念だったね、新羅。」
 「賭事は向いてないみたいだ。」
 新羅はそう言って肩を竦めた。聞けば、俺が捕まるか臨也が捕まるかで賭博が行われていたらしい。胴元はもちろん臨也だ。
 「懲りないよねえ、君って。」
 「今回は成功したんだからいいじゃないか。それより寿司でも食べに行こうよ。」
 「奢りかい。」
 「もちろん、賭けに参加してくれた人全員にね。」

 臨也のその声に一際大きな歓声があがった。皆が皆汗だくで疲れはてているというのに、それでも誰もが楽しそうだった。こいつが人を「愛している」という意味が少しだけわかった気がした。

 歩きだそうとする臨也を引き留めて、俺は訊く。
 「お前はどっちに賭けたんだ。」
 臨也の片手にはまだおもちゃの銃が握られている。かちかちと何度か意味もなくトリガーが引かれた。臨也はこちらに向きなおると、当然、と前置きして答えた。
 「俺が捕まる方に決まってるじゃないか。」
 視線は俺ではなくその向こうの景色に向けられている。捕まえちゃったけどね。と臨也はなぜだかひどく穏やかに言った。その言葉に俺自身も安心しただなんて、死ぬまで言ってやらない。
 臨也は俺に背を向け歩き始める。足取りは軽い。俺もそれに続き、そしてわずかに臨也よりも大股になって隣に並んだ。
 誰にも聞こえないように、むしろ臨也にだって聞こえなくていい。俺は声を殺して呟いた。
 「ありがとう、臨也。」
 どちらも目を合わせさえしない。しかし臨也が声にならない叫びをあげて、目の前の景色さえも疑うように目を見開いたのを俺はしっかりと見ていた。隣で俺は喉を鳴らした。この顔が見れただけで今日はいい日だったのかもしれない。
 俺は前に目を向けた。ネオンライトが俺たちの上で輝くのも、人々がせわしなく歩き回るのもいつもどおり。これは俺たちの日常だ。

 「ありがとう、静雄。」

 もしかしたら臨也は何も言わなかったのかもしれない。俺の耳にだけ聞こえたその言葉は明日になったら「非」日常と一緒に忘れてやろう。