鈍い傷みで目を覚ます。どうやら高いところから落ちたようだ。
 「ん?」
 高いところ?いや俺は畳の上に布団を敷いて寝たはずだ。身体を起こすと直に畳の上に寝ていることに気付いた。頭に疑問符が浮かぶ。ぐるりと目を回し部屋中を見てみたが布団は無い。
 寝起きの頭は動きが悪い。舌打ち一つして俺は考えることを止めた。煙草に手を伸ばす。

 「っくしゅ!」
 取り出した煙草を落としてしまった。慌てて拾おうとするがうまく取れない。
 「あぁ?」
 なぜか煙草がふわふわと浮き上がっているのだ。状況について行けず呆気にとられたままその行く先を見守ると、天井の辺りで何か白いものに当たって止まった。
 「…布団?」
 呼び掛けてみてもそれは天井に貼り付いたまま降りてこようとはしなかった。

 どうやら俺の触れたものは風船のように浮き上がってしまうらしいと気付いたのは床に置いてあったものがあらかた無くなってからだった。
 困った。油断すると舞い上がるシャツを無理矢理着込み俺は家を出る。ちなみにサングラスは掛けた瞬間に浮き足立って布団にダイブしていった。
 裸眼で見る景色がなんとなく鮮やか過ぎる気がして苛々する。吸っていた煙草を行儀悪く踵で踏み潰すと、その死骸は地面に打ち捨てられることなくよく晴れた空へと昇天していった。

 「いやぁ、また君は面白いことを運んでくるね。」
 平々凡々な僕には想像もつかないよ。新羅の目が輝いている。
 「心当たりは、」
 「ないよ。あぁでも僕はセルティに触れるだけで天にも昇る気分になるけどね!」
 うだうだと語りだした新羅を横目に、俺は携帯電話を取り出してトムさんに電話した。トムさんはすごく心配してくれて、やっぱりこの人に着いてきてよかったと改めて思う。
 「あああセルティ、君のその手で僕をゴーヘブ、んぐはぁっ!」
 「うるせぇよ。で、どうすりゃいいんだよ。」
 投げつけたクッションが浮かんでいくのを見て新羅が笑う。
 「わかんな、いたたたたた!」
 新羅の頭を掴んで軽く力を込める。知らない知らない、とぎゃんぎゃん叫び続けるので力を緩めると新羅はあ、と意味深な声を上げた。
 「君にちょっかいをかけるやつが一人いるじゃないか。」
 嫌みったらしい笑顔が頭に浮かんだ。手を離すと新羅もふわりと浮かんだ。
 「邪魔したな。」
 「え、ちょ、静雄待って!降りられないんだけど、静雄、静雄!」

 新羅の叫び声を扉を閉じて遮断してから俺は歩き出した。意識を集中して奴のにおいを辿る。近付くにつれ苛立ちが増幅し、次第に駆け足になる。見慣れた後ろ姿を見付けたとき、俺の苛立ちは極限にまで達していた。

 「いぃーざぁーやぁー!」
 殴りかかるもひらりとかわされる。
 「やぁ、シズちゃんごきげんよう!今日も軽そうな頭だね。」
 爽やかに悪口が吐き出されると、臨也は素早く俺に向き直った。距離を詰めながら俺は臨也に訊く。
 「てめえ、俺の身体になにしやがった。」
 「はぁ?」
 臨也は首を傾げていぶかしむようにこちらを見た。
 「寝ぼけてる?」
 「んなわけねーだろ。」
 見てろ、と言ってそこにあった自転車に触れる。空高く舞い上がっていく自転車を見る臨也の間抜けな顔によると、本当に無関係らしい。

 「それ以上力を得て何をする気なの。」
 呆気にとられたまま臨也が呟いた。こいつじゃないなら一体誰がこんなことをしたのかと俺は頭を抱える。
 「新羅は?」
 「違った。」
 「じゃあシズちゃんに恨みを抱いてるやつとか。」
 「お前だろ。」
 「いや、俺はただ嫌いなだけだよ?」
 むしろ恨んでるのはシズちゃんじゃん。言われて考えてみたが、なんか違う気がする。突然静止した俺を臨也は不審そうに見た。
 「シズちゃん?もしかして脳みそまで飛んでった?」
 馬鹿にしたような台詞にも反応しない俺に臨也が近付いてくる。

 「お前はなんで俺が嫌いなんだ。」
 ぼんやりしているうちに思いもしない言葉が口から飛び出した。ぴたりと足を止め、臨也は固まった。
 「え、えー、急になんだよ。」
 「俺が聞いてんだ、答えろ。」
 「なんて乱暴な。んー、そうだな。強いて言うなら、シズちゃんが人間じゃないから。」
 「目ぇ腐ってんじゃねぇの。」
 「随分だね。だってそうだろ。人間にそんな力あるわけないじゃないか。」
 「サイモンは、」
 「あれは例外。」
 「じゃあ俺も例外でいいだろ。」
 「違うんだ。だって俺は人間を愛してるけど嫌いにはなれない。」

 君だけなんだ。その言葉がなぜだか心地よくて、頭に血が上る。

 「シズちゃん?顔赤いよ?」
 熱でもあるんじゃないの、と言って臨也が俺に触れてくる。
 「あ、馬鹿!」
 え、と口を半開きにしたまま臨也の踵が地面から離れた。コートの裾がはためいて徐々に黒が青へと吸い込まれていく。
 咄嗟に俺は臨也を掴もうとするが避けるようにコートがはためいた。体は上へ上へと止まることはない。

 「臨也!」
 手が届くギリギリの高さにあった足首を無理矢理掴んで引き寄せた。
 「あー、危なかったねぇ。」
 俺の腕の中で臨也が笑った。まるで抱き締めてるみたいだ。そう思うと離れたくなるが、今離すと臨也は空の彼方に藻屑となってしまう。
 「空なのに藻屑かよ。」
 口に出てしまっていたらしい。臨也はまだ笑っている。目の奥まで笑っている臨也を見たのは久し振りかもしれない。もしかすると、
 「てめえ、わざとやったろ。」
 臨也は笑みを深め、俺の顔を覗き込んできた。
 「いやぁ、空から人間を観察するのって楽しそうだと思ってさ。」
 「馬鹿じゃねーの。」
 死ぬ気かと訊くと臨也は一度瞬きをした。
 「俺さ、シズちゃんになら殺されてもいいよ。」
 愛しているものに殺されるのは嫌だけど、大嫌いなシズちゃんになら。首に細い腕が回ってくる。
 「お前は俺が嫌いか。」
 「嫌いだよ。でもさ、」
 シズちゃんが他の奴に触れたり触れられたり見たり見られたり愛したり愛されたりするのはもっと嫌い。晴れた空に似合わない淀んだ感情の吐露。

 「こうやってれば俺だけだろ?」
 顔は見えなかった。それでも赤くなった耳の縁は物語る。
 「じゃあお前にも俺だけだな。」
 確認するように言うと、臨也はゆっくりと顔を上げた。口を開いたままこちらを見る顔は随分と幼い。
 「離さねぇからな。」
 言ってから二人とも堪えきれなくなって笑う。
 「ホント頼むよ。」
 シズちゃんから離れると俺、死んじゃうから。まるでどこかの闇医者のような台詞だ。
 「おう、俺だけ見てろ。」
 「そちらこそ。」

 軽口のように交わした言葉が頭上を舞うことはなく、それらはすとんと俺たちの心に着地したのだった。