「お腹減ってるだろう、正臣君。」
 俺が部屋に入ってから約15分後、それまで指と眼球のみを動かすばかりだった男はそう言って突然画面から顔を上げた。

 「チャーハンでも食べるかい。この間波江が作るの見てたから作れるよ。」
 たぶん。不確定要素満載の言葉に俺は疑いの目を向ける。
 「ホントに作れるんですか。」
 「ホントだよ。なんなら中国人を呼んできたっていい。」
 「それが何の確証になるんだよ。」

 思わず敬語を忘れてつっこんでも男は笑顔を崩さない。それどころか椅子ごとくるくると体を回転させ、楽しげに笑い出した。

 「いいね!打てば響く。それでこそ正臣君だ!」
 遠心力を利用しそのままの勢いで立ち上がった。真っ直ぐにこちらへ向かってくる男を見てその三半規管の強靭さに少しだけ感動を覚えた。それでさ、と変わらないトーンで続けられる言葉に意識を引き戻され、俺は男の目を見る。
 「チャーハンって生米から作るの?」

 「…。」

 呆れて声も出なかった。当の本人は、そのまま固まる俺を見て首を傾げている。
 「え?なんか俺変なこと言った?」
 まさかあれって米使わない料理だっけと普段見ないくらい取り乱し始めた男をどうにか止めようとして俺自身も取り乱す。
 「いや、チャーハンは米ですけど、」
 「だよね!だってハンだもんね!」
 男は心得たとばかりに立ち上がる。しかし問題は何も解決してはいない。キッチンへ向かうひどく細い背中に手は届かず、為すすべのなくなった俺はソファに体を預けた。
 後々の惨事に目を瞑りさらにその上に手を載せる。ああこうやっていれば世界はなんて平和なんだろう!しかしいつだってあの男の声は俺の日常を壊していくのだ。

 「正臣くーん、卵ってどうやって割ればいいのー?」
 あああもうあの人は!

 「臨也さん、出来ないんなら座ってて下さい。」
 「いや、できる。出来るんだけど卵が割れないんだ。」
 「基礎も出来てないのに応用が出来るわけないでしょう。」
 溜め息を吐きながら手から卵を取り上げると、臨也さんは目を伏せた。そう、と言った口の端までも下がっていくのを見て俺は焦る。

 「あ、いや、俺、今お腹減ってないんで。」
 ぱっと上げられた目の光は強い。張り付けたような笑顔が至近距離に近付いてくる。

 「膝枕、しようか?」
 「へ、」
 「ちょっと仮眠でもとればいいじゃない。」
 肩を掴まれては逃げることも出来ない。膝枕なんて、くっそぉなんて魅力的なんだ!でもこの人の策に乗るとろくなことにならないに決まってる。

 「いや、いいです。」
 「なんでだよ!膝枕はロマンだろ。」
 「あんたにロマンス要素なんて一欠片もありませんよ。」
 エロさはあっても、という言葉は飲み込んだ。
 「ひどい!」
 「うわっ、ちょっと止めて下さいよ!卵が!」
 「卵なんかより俺を構って。」
 「別にあんたは割れないでしょ?」
 「ガラスのハートが、」
 「防弾ですか。中々屈強ですね。」
 「もういい!」

 リビングの方へ向かう男は完全に拗ねた顔をしていた。混沌としたキッチンを片付けてから戻れば、いかにも高級そうなソファの隅で膝を抱える23歳児がいた。

 「臨也さーん、いい歳して拗ねないでくださいよ。」
 「俺は拗ねてない。ちょっと反抗期なだけだから。」
 「なおさら悪い!」

 隣に腰を下ろした俺を一瞥すると、臨也さんは顔を背けたまま口を切った。

 「君は俺にやって欲しいこととかないの。」
 「へ?」
 「何でもいいんだよ?俺が君に出来ることなら、」
 何でも、何でも?頭の中を駆け巡る妄想と葛藤。この人は一体何を企んでいるんだろうか。俺を手込めにするのなんかもうすでに終わってるのに更に俺をどうする気なんだ。
 固まっている俺の顔を見て臨也さんはやっぱりいい、と俯いた。耳はもうすでにだが、白いうなじや頬までだんだんと赤くなっていく。企みや陰謀なんてどす黒さはそこには無かったのだ。
 俺は今まで恋しくて堪らなかった日常というものをいとも簡単に手放した。

 「俺は臨也さんのことが好きなんです。」
 上げられた顔は真っ赤だった。そりゃあもう俺にまで感染るぐらい。
 「好きです好きなんです大好き!」
 「な、なに急に。なんで?」
 「わかんないっす。とりあえず抱き締めていいですか。」
 「やだ。俺が抱き締めてあげるから、」
 「俺が抱き締めたいんです。」

 有無も言わさず引き寄せると臨也さんは俺の腕の中に収まった。いつもの憎まれ口も叩かず大人しいその様子にこの男の歳を忘れそうになる。うっかり可愛いなんて呟きかけ、慌ててその言葉を飲み込んだ。

 「料理は出来ない、洗濯機は使ったこともないし几帳面って言う割りにはデスク周りはぐちゃぐちゃ。」
 「わかってるよ、俺に生活能力が無いくらい。」
 「忘れ物も多いし、異様に細いし。」
 「それは関係ないだろ!」
 「そんな人に心配されるなんて、俺も落ちたなぁ…。」

 腰に手を回して抱き締め直そうとするとわずかに抵抗された。でもぎゅっと抱きつけばそんなもの関係ない。

 「疲れてるんなら無理にここに来なくたっていいんだよ。」
 君には居場所があるだろ。帰るところだって。俺といるよりずっと気安い場所が。
 たぶんこの人は自分自身をその言葉で傷付けているなんてわかっていない。

 「臨也さん。ありがた迷惑って言葉知ってますか。」
 他人の鼓動をこんなに近くで聞いたことがあるだろうか。俺のものと混ざり合い随分とうるさく感じた。

 「あんたの面倒をみるのは俺の仕事です。」
 この人に心配されるのも面倒みられるのも真っ平だ。
 「だからあんたは平然と面倒みられときゃいいんですよ。」

 人間を愛してるなんてトんだことを言うこの人の中で俺が『紀田正臣』として存在するためにはそうすることしか出来ないのだ。

 「正臣くん、愛してるよ。」
 「臨也さん、好きです。」

 目的も手段も違うけど、いつか死ぬまでの道ぐらいは一緒にいけたらいい。柄にもなくそんな悲観めいたことを考えた。すぐにその馬鹿馬鹿しい考えを打ち捨てて俺は笑う。

 「あとで炒飯作りましょうか?」
 「手伝おうか?」
 「食後の運動だけで十分です。」

 お互いに赤い顔をしてくだらないことを言うこの時間が俺は嫌いではない。