時々ふらりとどこかへ行きたくなる。
 いつもの駅のホームで立ち尽くしぼんやりと人の流れを眺める。通勤ラッシュの中では、たとえ人間離れした俺であっても日常化されるのだ。向こうの電車の窓越しに見える空は青い。雲の行く先を目で追っているうちに気付けば俺は反対ホームの電車に乗り込んでいた。
 さっきとは逆向きに走る景色。見慣れた街が次第に遠くなっていく。街から離れるにつれ人も自然に減っていき、今この車両には俺しかいない。穏やかすぎる日差しは痛みを伴って俺の目の奥まで届いた。
 日常はこんなにも静かなものだっただろうか。昔はあんなにも欲しかったのに、今ではあの頃常に抱えていた火種が恋しくさえあるのだ。
 そういえばあの男が死んでからもう十年が経とうとしている。いや、殺されたと言ったほうがいいのか。どちらにせよあいつが自分で選んだことなのだろう。何も言わずに消えていったあの後ろ姿を追う癖は未だに直っていない。もう煙草を止めたというのにジッポーだけは後生大事に持っているのと言い、随分と諦めの悪いことだ。自嘲することもできない俺はそうして過去を肺一杯に飲み込んでなんとか生きている。真っ黒になった肺が元に戻ることはない。

 電車が大きく揺れた拍子に目蓋が開いた。向かい合う窓一杯に広がる緑。涙で滲む風景の中に一点の黒を見つける。諦めの悪い。目を閉じてその影を追い出そうとするがどうしても上手くいかない。
 再び目を開けばそこには確かに非日常がいた。

 「久しぶり、シズちゃん。」
 老けたね、と笑うその姿は昔のままだ。くすぐったそうに俺を見るその赤い目に俺の顔が映り込んでいる。

 「十年だぞ、老けるに決まってんだろ。」
 「はは、それもそうか。」
 「てめえは変わらねぇな。」
 「そりゃ死んでるからね。」
 「それもそうか。」
 「そうだよ、死んだんだ。」
 臨也はそう繰り返して目を細めた。相も変わらず黒い服を纏ったその姿を見ても俺のはらわたが煮えくり返ることはない。年をとったものだと笑うと臨也もつられて笑った。

 「ねぇ、みんなはどうしてる。」
 臨也は座ったまま足を揺らして俺に訊く。子供っぽい仕草も昔のままだ。
 「門田が少し前に結婚した。」
 「へぇドタチンが。あ、俺結婚式のスピーチするって言ってたのに。」
 門田が同じことを言っていたのを思い出した。臨也が死んで一番落胆したのはあいつだったかもしれない。
 「新羅はいつもどおりだ。」
 いつもどおりセルティ以外に目もくれず生きている。それでもきっとこいつが生きていれば嫌がりながらも楽しげに世間と繋がっていただろう。
 「マイルとクルリは、」
 「ねぇ、シズちゃんは?」
 臨也は俺の言葉を遮って立ち上がった。そうしてゆっくりと俺の隣に腰を下ろしてもう一度俺に尋ねる。
 「俺が死んで、シズちゃんは何か変わった?」

 雲に覆われ日差しが陰る。臨也の赤い目玉だけが色付いていて、飲み込まれそうになる。

 俺にとってこいつは一体何だったのだろう。家族でも友人でもない。かといってただの知り合いとしてしまうには俺達は近すぎる。敵、と言うべきなのだろうか。いやそれもまた違う。恐らく、どんな表現も俺達にはそぐわないし矛盾する。
 それでも俺にとってこいつは大切なものだった。かつて大切にしていた非日常の一部だったのだ。
 そういえば、こいつが死んでから俺は何を目標に生きてきたのだろう。

 「煙草止めたんだね。」
 臨也の顔が寄せられる。触れた肩から温もりが伝わることはなかったが、俺の喉は渇いていくばかりだった。

 「シズちゃん、俺さ。君に殺して欲しかった。」
 大きく車両が揺れて臨也が俺に倒れかかってくる。不意に見えた首筋の白さに息も出来ない。

 「死ぬなよ。」
 かさついた指先で髪に触れた。そのままゆっくりと頬に触れ、そして首に指を滑らせる。冷たい、まるで死人のようだと思ってから、目を閉じた。

 「俺は君のことが嫌いだ。」
 「俺もだ。」
 「でもありがとう。だから、」

 目を開くと途端に溢れるほどの光量に包まれる。山と山の合間に海が見える。どこまでも深く青いその奥に沈むあの男の姿を見た。

 「忘れるなよ。」

 一人になった俺はまた日常に沈んでいく。それでも非日常が俺の世界にいるうちは、俺は生きていける。
 暫く足りなかった俺の世界の色彩にようやく黒が落とされた。

 電車が揺れるのを感じながら俺は立ち上がった。俺の世界はまだそこにあるのだ。