『喋らない折原臨也』
「なんだよ、そりゃ。」
えらく違和感のある言葉である。新羅は肩を竦めて笑って見せた。
「ここ2、3日出回ってる都市伝説さ。」
まぁたしかに恐ろしいよね。臨也から声を奪ったらただの好青年だもの。恐い恐いと心にもない風に新羅は付け足してこちらを伺った。一方の俺はといえば、未だ『臨也』と『喋らない』という単語が結びつけられずに眉を寄せて黙り込むばかりである。そんな俺の様子にか、それとも根も葉もない都市伝説にかはわからないが、新羅は明るく笑った。
「あくまで噂なんだけどね。」
ゆっくり立ち上がろうとするも視線で制される。こいつがここまで人の良さそうな笑顔を浮かべる時にはろくなことがない。新羅とはもう長い付き合いである。その表情の裏にあるものを悟るには次の言葉が発されるまでの一瞬で十分だった。かつてここまで家が恋しくなったことはないだろう。
「ちょっと気になるから、臨也捕まえてきて。」
面倒事を押し付けるために呼ばれたのだという直感は当たっていた。奥歯をぎりりと噛み締めて睨むも新羅は涼しい顔のままである。こうなってしまうとたとえ俺が舌打ちをしてもソファを空の彼方へ投げ飛ばしても新羅の笑顔は崩れない。見た目に似合わずしたたかで頑固な男だと知ったのはもう何年も前のことだ。
にこにこといっそ頭が痛くなるほどの笑みを一身に受けた俺は今日一番の深い溜め息を吐いて立ち上がった。きっと罠にかかった動物はこんな気分なんだろうな、なんて詩的なことで現実を頭の隅へ追いやろうとしてみるが、それはあっさり新羅の言葉に阻止される。
「頼んだよー。」
なんとも無責任な送辞だ。振り向く気も失せてそのまま外に出た。
(なんで俺があんなやつのことを。)
苛立ちとともに沸き上がった感情がなんなのか俺はまだ知らない。
昼間の街は休むことなく騒ぎ続けている。
合間にあいつの声が聞こえやしないかと耳を澄ませてみるが喧騒の中ではなにもかもが曖昧だ。
あいつがどこにいるかなんて見当もつかない。情報屋なんていう不安定でわけのわからない仕事に決まった職場があるとも思えないし、そもそも情報屋が仕事として成り立っているのかさえも疑問だ。ていうかあいつ普段何してんだ。
随分長い間命の取り合いをしているのに、俺はあいつのことをあまり知らない。そう気付いたことに驚きと同時に吐き気に似た不快感を覚えた。動揺しているのだろうか俺は。
行く当てもないのでとりあえずあいつのマンションにでも行ってみるかと歩き出す。
くわえ煙草で歩く俺の周りにはぽっかりと穴が空いている。不機嫌な気配を察したのか周りの人々は俺の半径2メートル以内に寄って来ようとしないのだ。小さく舌打ちすれば更に穴は広がり、俺の道を塞ぐものはいなくなった。喜ぶべきか嘆くべきかわからない。そう言えば俺の今抱えている感情も悩みも全ては臨也に起因するものだ。自然と額に血管が浮く。そして自然と辺りからは人の気配が消えていた。
それと同時に嗅ぎなれた臭いが鼻をつく。目でその方向を辿ると自販機の前に置かれた大きなごみ袋が、
「臨也!」
呼んでみても返事がない。触れると温かいので屍ではないようだ。
規則的な寝息が聞こえる。深くフードを被って身体を丸めるその姿は今までに見たことがないほど疲れはてていた。
ちょうどいいからこのまま持っていこうと肩に手を掛けた時だった。
「…。」
首筋に当てられたナイフは臨也の視線と同じくらい冷たい。しかし焦燥しきったその目の色は俺を認識した瞬間に別のものへと変わった。
「え、おい、」
俺の腰に手を回してすがりつく臨也。それに戸惑い本人よりも動揺する俺。
「なんという地獄絵図」
新羅の笑い声が頭に響く。
ともかく事情を聞こうと臨也を引き剥がす。その目の焦燥加減に怯みながらも向き合えば臨也はようやく口を開いた。
「…。」
どうやら本当に声が出ないらしい。ジェスチャーで何かを伝えようとしているようだがよくわからない。
「ああもう、面倒くせえな。」
有無も言わさず、というか言えないのだが、俺は臨也を背中にかつぎ上げて歩き出す。俺には抵抗なんて通じないと悟ったのか次第に臨也は大人しくなっていった。
まばらだった人波が元に戻り始めていた。好奇の視線を感じながら道を行く。
臨也がフードを被り直した。首筋に押し付けられる鼻先までも冷えきっている。
「危ない橋渡んのも大概にしとけよ。」
首に回された細い手首に赤黒くなった痣を見つけて眉をひそめる。
『関係ないだろ。』
とでもいいたげに乱暴な手つきで髪を引かれた。こいつがこんな状態でさえなければ投げ飛ばしてやるのに。頭突きだけで許してやった俺の優しさにこいつは感謝するべきだ。
撃沈された臨也は俺の肩に頭を預けて沈黙している。
「脚、痛いだろ。」
少なくともひびぐらいは入っているだろう。驚いたように臨也が息を飲む音が聞こえた。
「肋も何本かイッてるし、それにお前なんか変な薬でもうたれたか。」
匂いが違う。ドン引きされそうだったのでそれは口には出さなかった。馬鹿じゃねえのと呟いてもいつもの憎まれ口は返ってこない。なんとなく新羅の部屋を出た時に感じた感覚の正体が掴めた気がした。
軽くて細いばかりの男を抱え直しなおも歩き続ける。
「新羅も心配してたぞ。」
臨也は動かない。それでも俺の肩を掴む指先が白く変色しているのは隠せていない。
これだけ傷付いても止めようとしないのはこの男の性か、それとも意地か。わかりっこない。俺にだって自分の生きる意味なんてわかりやしないのだから。
軽く臨也に頭を預けながら溜め息を吐いてみる。頭が痛い。
『俺のことなんてほっとけばいいのに。』
小難しいことを考えるのは苦手だ。こいつと違って俺は理屈を並べ立てるのが得意ではないのだ。
いつもと逆転したような立場には違和感がある。
「あーもう、鬱陶しい。お前は俺に殺されとけよ。」
こいつが他人にどうこうされるところなど想像したくもない。それが出来るのは俺だけだと開き直ったとたんにあの感覚が鮮明になっていく。
人はこれを『独占欲』と言うそうだ。
「止めろとは言わねぇけどよ、それでも俺から逃げられる位でいとけ。」
そうじゃないと殺しがいがない。言ってからこの言葉をいつもはこの男が言うのだと思い出した。
足取りは軽くない。それでも進まなくてはならないのだ。
ふと肩が濡れているのに気付いた。黙ったままの臨也の顔は見えないが、きっとさっきよりはましな顔をしているだろう。
騒がしい街の中で俺達だけが静かだった。