子供の頃、月は一つではないと思っていた。
 今日には今日の月が、明日には明日の月が昇るのだと。三六六日、それぞれに一つ月が存在し俺が毎日見上げるたびに、その月は昨日のものとは違うものなのだと思っていた。

 ***

 「月が綺麗だね。」
 一日の仕事が終わりぼんやりとベンチで煙草をふかしていた俺は、不意に隣から聞こえた声に眉を顰めた。咥え煙草のままパキリと指を鳴らすと男は悪びれた様子も無く笑って正面に回り込んでくる。
 「お久しぶり。」
 ほぼ一月ぶりに見る臨也は、いつもどおり憎たらしい笑顔を浮かべ見慣れないスーツに身を包んでいた。視界が黒で埋め尽くされる。
 何の用かと目線だけで訊いても臨也は笑うばかりで何も答えない。溜息の代わりに煙を吐き出す。それが眼に沁みるのか臨也は目を細めていた。

 立ち上がり踵で吸殻を押し消した途端、腕を掴まれた。どうやらこの男は俺を待っていたらしい。そう気付いた時にはもう俺たちは喧騒の中に足を踏み出していた。

 「今日は月が一番地球に近付く日なんだよ。」
 早足に街を横切りながら臨也はそう言った。焦っているような、何かに急かされているような歩き方だ。昼間に比べて少ないとはいえまだ人並みは絶えない。その中で幾度も振り返り、俺の手を臨也は握りなおす。俺は何も言わずにただ引かれるがままに歩いた。冷えた指先が俺の腕に食い込むのを感じて、やっとこいつが帰ってきたのだと確認できたのだった。

 ***

 腕を引かれて着いた先は明かりの消えたデパート。
 こっち、と臨也は俺を裏口へと導く。どこから手に入れたのかわからない鍵でドアを開いて中へと入ると、外よりも暗い闇が広がっていた。
 物で溢れた売り場を横切る。立ち尽くすマネキン、光を無くした宝石類。表情の無い数々の物がただただそこに「在る」のはなぜだかひどく不自然に思えた。店内に入ってからこちらをちらりとも見ない臨也の背中の方がよっぽど雄弁だ。少し猫背気味の俺よりも随分細い背中。黙り込んだ臨也の言いたいことは一目瞭然である。
 (面倒くせえやつだなぁ。)
 今臨也が振り向かないのは幸いなことだ。きっと俺も口に出さずとも顔に出てしまっているだろう。

 長い階段を登り俺たちは屋上に出た。電灯の一つも点いていないメリーゴーランドは黙って朝を待っている。臨也はいつの間にか俺から手を放しメリーゴーランドの台座に腰掛けていた。ネクタイを片手で緩めつつ、もう片手で俺に手招きする。右隣に座った俺に喧嘩を売ることもなく、臨也は視線を空へと向けていた。

 ネクタイを地面に投げ、ボタンを一つ二つ外してから臨也は俺の肩に頭を預けてくる。いつもと少し違うとはいえ臨也の匂いに間違いはないと俺は再確認した。
 「ちょっと痩せたろ。」
 筋張った首から肩へ撫で下ろす。臨也はくすぐったそうに身をよじるものの嫌がってはいない。指先で髪を梳いてやれば大人しく力を抜くことは俺だけが知っていることだろう。
 「疲れてんならわざわざここまで来なくても良かったのに、馬鹿だろ。」
 すっかり緊張を緩めてしまった臨也はずるずると頭を俺の膝まで下降させ、しまりの無い表情で笑う。
 「だって君と月を見たかったんだ。」

 ***

 臨也と喧嘩をし始めた頃には月が一つだなんてことはとっくに知っていた。それでも俺には不思議で堪らなかった。
 毎日同じものを見ているはずなのに毎日違う表情を見せる。一度として同じだったことなんてなかったようにさえ思うのだ。

 『シズちゃんなんて嫌い。』『いなくなればいいんだ。』『なんで俺に関わるんだい。』『嫌いだ。』『放っておいてくれ。』『寂しい。』『愛してるのに、』『哀れむな。』『化け物のくせに。』『大っきらい。』『はは、人間って可愛いなぁ。』『愚かで、』『まるで君みたい。』『愛してる。』『なくなればいいのに。』『シズちゃん、』
 『好きだ。』

 ***

 見上げると空には満月が昇っていた。
 真ん丸で黄色いそれは確かにいつもより大きく見える。
 (それでもこれはいつもと同じ月なんだ。)

 「煙草でも吸いなよ。」
 下から声がした。臨也は月を見上げながら俺に言った。
 「いつもは嫌がるくせに、」
 「いいだろたまには。」
 ここなら直接煙の被害も受けないしね。けらけらと俺の腿の上で臨也は笑っている。意図の有無さえも考えるのを放棄して、俺は勧めと身体の求めに応じて煙草を探すことにした。
 しかしベストのポケットに手を入れた瞬間に俺は小さく呻きを上げた。
 (そういえば、臨也の前で吸ったのが最後の一本だった。)
 ないとわかると益々欲しくなるのが人間である。買いに行こうと膝に目を落とした瞬間、何かが目の前に突きつけられた。
 「はい、どうぞ?」
 見慣れた煙草のソフトケースが握り締められていた。開封はされているが中身は一本も欠けていない。誰かにもらったのかと尋ねても臨也はいや、とぶっきらぼうに答えるだけで明確なものをよこさない。
 しばらくの間煙草を受け取ることも無く目だけ見詰めていれば、観念したのか臨也は小さく息を吐いた。
 「君の匂いがないと落ち着かないんだよ。」
 仕方ないじゃないか。暗くてよく見えはしないが、触れてみると臨也の頬は非常に熱い。段々と移り始めたこの熱をどうしたものか。
 俺は煙草のケースを受け取った。それを握ったまま背中を丸めると臨也は月が見えないと不満げに俺の頬に触れた。長い睫が瞬かれる。
 (俺を殺そうとするときのあの顔も、今のこの顔も臨也には違いない。)
 声もなく笑うと釣られて臨也も笑った。鼻先に噛み付きたいのをぐっとこらえて、俺は小さな声で目の前の男に声を掛けた。

 「月が綺麗だな。」