暖かな日差しが瞼の上を滑っていく。俺はゆっくりと目を開き、見慣れた天井を仰いだままアルコールと睡眠とで曖昧になった記憶の断片をどうにか繋ごうと試みた。ぼんやり靄のかかった脳内の見通しは悪い。そんな俺の様子を知ってか知らずか、窓から吹き込む風は穏やかで柔らかく、思わずそちらへ目を向けると外に広がる街全体が暖色に染まっていた。
 開いていないはずの窓から風が入り込むことに俺が嘆息するまであと数秒。
 隣の部屋から聞こえてくる凄絶な破壊音に絶望することに慣れる日は来るのだろうか。

 ***

 ドアを開くとそこは戦場だった。
 そう口に出してみようかと思うほどリビングは昨日とは随分違う様相を呈していた。
 飛び交う空き缶罵詈雑言はもちろんのこと、床には陶器の破片や木片、そして絵の具のチューブや鉛筆などあらゆる雑多なものが散らかり、知らない人が見れば一体ここで何が行われたのかと首をひねるだろう光景である。それこそ足の踏み場も無いと言った風情か。
 俺はすっかり荒れきってしまった自室を哀れむと同時にこの後に訪れる面倒な作業に思いを至らせては溜息を吐いた。背後で飄々と閉まるドアが憎い。出てきてしまえば当事者にならざるを得ないではないか。

 「あ、おはようドタチン!」
 中央にあるダイニングテーブル越しに睨み合う二人の内の一人が不意に叫んだ。なんとも春の朝に似合う爽やかで清清しい声だった。それを発している男のことを俺が十分に知りさえしなければ単純にそう思えたのに。

 (こいつと暮らしてもう二年だもんなぁ。)
 清濁、いやこいつに限っては濁の部分ばかりを随分見てきた。
 折原臨也という一風変わった名前を持つこの男。名は体を表すとはよく言ったもので確かにこの男自身随分と変わっている。
 『偏執狂』
 こう言ってしかるべき性癖だと俺の友人兼臨也の親友である男は評した。
 俺はそいつのようにばっさり切り捨てることは出来ないが、その見方に対して首を振ることも出来ない。現に事実として俺はそれを二年間もルームシェア相手として見続けているのだから。
 今となっては二年前のあの日を恨むこともない。ろくでもないあだ名を付けられたことに関しては今でも心残りだが、それでもこいつといる時に感じる独特の空気が俺は嫌いではないのだ。
 それがこいつの人柄から来るものなのか、絵についての天才的とも言える才能から来るものなのかは俺にはわからない。

 ***

 「お前らまさか徹夜で喧嘩してたとか言うなよ。」
 足元に転がっていた空き缶を拾いつつキッチンの方へ向かう。
 床に転がる画材はおそらく
 「それは無い。だってついさっきまでシズちゃん潰れて、起き上がれないぐらいだったからね。」
 臨也は皮肉っぽい笑みを口端に浮かべて向かい合う金髪を鼻で笑った。背の高いその男は表情を崩さない。むしろ俺がリビングに入ってから(もしくは昨日からずっと)怒りの顔しか見せていない。
 『こういうのを不倶戴天というんだね。』
 再び俺の友人兼臨也の親友の変態、新羅の言葉を思い出した。そういえば、にこにこという胡散臭い効果音の似合うあの男は一体どこへ行ったんだろう。昨日は確か四人で馬鹿騒ぎしていたはずだが。
 「おい、臨也。」
 「君って実に馬鹿だよね、シズちゃん。自分の不始末さえも覚えていられないなんてさ!」
 「だから、俺は潰れてねえっつってんだろうがクソノミ蟲。」
 「はは、口でどう言おうと事実は曲がりはしないよ。いい加減認めなって。君が下戸だってことなんて面白いけど不思議なことでも何でもないんだからさ。ねえドタチン?」
 「そんなことより新羅は、」
 「ほらドタチンもそう言ってる。だから君もそれを認めるべきだよねぇ。」
 「てめえ門田!」
 「話を聞けよ、お前ら。」

 そもそもデフォルトがこれだから仕方ないのかもしれないが、もう大人といえる年齢になっているのにこれではきっと社会には出られない。勝手にそんなことを心配し、ついつい説教臭くなるのもここ最近ついた癖だ。
 ところが一方の相手にも耐性がついてきたらしい。俺の言葉は左から右へ聞き流され、死ね殺すと午前の日差しに釣り合わないような言葉の応酬が再び始まる。さて第二回戦でも始めるか、といった体勢に入る二人を俺はわざとらしく咳払いをすることで制した。

 「で、俺の部屋の窓ガラスはどっちが弁償するんだ。」

 間髪いれずにお互いを指差す。再び始まった罵倒と皮肉の投げつけあいを俺は頭を抱えて見ることしか出来なかった。臨也と俺が出会ったのと同じように、今臨也と向かい合っている静雄だって二年前に出会ったのに、人によって随分人間関係の繋ぎ方は違うものなのだとこの世の不思議の一つを垣間見た。
 時計は午前八時を少し回ったところ。数分遅れたそれにあわせるようにして俺はようやく授業のことを思い出したのだった。

 ***

 「悪かった。」

 いつも謝るのはこいつが先だ。非常に申し訳なさそうに眉を下げて、静雄はキッチンに立つ俺にそう言った。金髪で長身のこの男は他人に敬遠されがちだが、実際のところは善良なただの一大学生に過ぎないのだ。

 「ああ、いいよ。どうせ臨也がふっかけたんだろ。」
 そう臨也さえ絡まなければ。
 臨也という一単語を耳にしただけでも静雄は眉を顰める。犬猿、水と油、ウィンドウズとマックのように反発しあう二人。いつからこいつらがこんな関係になったのか俺は知らないが、話を聞けば初対面でいきなり戦争じみた喧嘩を勃発させたというから、もしかすると生まれつき反りが合わないというのもあるのかもしれない。

 何かを思い出したらしく額に青筋を浮かべだした静雄から視線を外し、冷蔵庫に向ける。近所のスーパーの広告の下に貼られたカレンダーは今日の食事当番が俺であることを示していた。

 「お前も朝飯食うだろ。」
 と言っても冷蔵庫の中にはビールが二三本と調味料ぐらいしか入っていないのだが。米があるのだけが唯一の救いである。
 「ガラス代、」
 「臨也と割り勘で頼む。あ、そこの鍋取ってくれ。」
 味噌と萎びた葱を取り出しながら俺はそう言った。静雄はまだ何か言いたげにしていたが、聞こうとしない俺の態度に引き下がるを得ずにしぶしぶ床に落ちていた鍋を手に取る。手渡されたそれは少しへこんではいるが幸いにも穴は開いていないようだった。

 ***

 ちょうどおととしの今頃だ。
 念願かなってようやくこの大学に入学し、俺は田舎からこのひどく狭いくせにやたらと大きく感じるこの街にやってきた。知らない場所でもちろん知っている人もいない。左官職人の父とは俺が陶芸で食っていきたいと言った時点で通じ合うことはなくなった。それこそ身一つで俺は飛び出してきたようなものだ。

 俺がルームシェアを希望したのは必然とも言えるだろう。
 しかし臨也が俺と出会ったのは偶然だろうか。
 街外れの大学、しかも美術を専門とする狭い世界の大学だから、と納得することもできる。しかしそれにしたって出来すぎだ。

 入学式で隣に座った男を見たとき俺は驚いた。整った顔立ちのせいか、それとも飄々とした態度のせいかその男からは現実味と言うものが感じられなかったのだ。まるでその空間だけが単色で構成されているような気さえした。
 だからそいつがこちらに目を向けた際に目だけが赤いことがアンバランスだと感じたのだろう。俺のほうを見て浮かべた(今思えば胡散臭い)笑顔に俺は息を呑んだ。綺麗、だなんて男に対して言う台詞ではないが、実際思ったのだからどうしようもない。

 「始めまして。いきなりで悪いんだけど、君ルームシェア相手を探してるんだってね。俺でよければ立候補していいかな。」
 名前も知らないうちにまくしたてられたその言葉に頷いてしまったのは俺が呑まれてしまったからか。
 「よろしく、ドタチン!」
 名前を言った途端に付けられたあだ名に後悔しても、もはや手遅れだ。それを悟るのにそう時間はかからなかった。

 それが俺と臨也の出会いである。

 ***

 「ドタチーン、俺のパンツ取ってー。」

 今や生活の一部となった声に後ろを振り向くこともなく「自分で取れ」と応対する。時が人を変えるのではない。耐え切れなかった人が勝手に化けの皮を脱ぎ捨てるのだ。刻んだ葱を煮え立つ味噌汁に滑り込ませつつ俺はかつて人形のようだとあいつを思ったことを思い出していた。

 「こら、全裸で歩き回るな。」
 「あるがままの心で生きたほうがいいって歌あったよね。」
 ぺたりぺたりと床を踏む音をバックに戯言が聞こえる。首だけを回せば臨也は髪をしとどに濡らしたままダイニングテーブルに備え付けの椅子に座ろうとしていた。痩躯は不健康なほど白く朝日を反射する。いつもの光景ながら目の毒だと口にも出せずに思って自己嫌悪にさいなまれた。

 俺が咎めても臨也は椅子に深く腰掛けたまま動こうとはしない。それどころかだんだんと雲行き怪しくなる俺の様子を眺めてにやついている。「その表情いいね、しばらくじっとしててよ。」その言葉を聞いた俺は悪趣味だと罵ることも出来ず、一人溜息を吐いたのだった。

 水音が聞こえる。そして戻ってくる静雄の反応は最も正しかった。
 「何やってんだてめえ。」
 馬鹿じゃないのかと心底嫌そうな表情をして静雄は臨也を睨みつける。対する臨也は軽い調子で俺に言ったのと同じ台詞を繰り返し、逃げることもせずただ水を滴らせていた。
 「いい男だろ。」
 見た目だけはいいのに。言うまでもなくこいつを知る誰もが思うことだ。

 呆れることにも慣れてしまっている俺は、ひたすら味噌汁を掻き混ぜる作業に戻った。無意味なことにこそ意味がある。逃げ道はそこに見出すしかないからだ。俺は黙り込む。鍋の中では葱だけが踊っていた。味噌汁だからお前だけで十分なんだと正当化してやることも忘れない。俺と葱の静かな対話の背後ではまた戦争が始まろうとしている。一方は全裸、他方は半裸。
 「なんで静雄まで脱いでんだ。」
 その返答はなかった。けたたましい笑い声と怒声の中で見たのは楽しそうに喧嘩する二人の姿だった。
 (仲がいいんだか悪いんだか。)

 取り出した三つのお椀と二人を交互に見て、やれやれと首を振ってからようやく俺は口を開く気になったのだった。

 ***

 授業まであと三十分。そろそろ準備を始めてもいい頃だ。
 五度目の俺の制止でやっと喧騒は終息した。俺の前に座った静雄はまだ半裸だが大人しく味噌汁をすすっているし、服を着る気になったらしく臨也も部屋に戻っていった。
 さっきとは打って変わって室内は静かで、窓の外で鳥が鳴くのも聞こえるほどだ。まるでこの空気を壊さないようにしているかのように俺たちも静かに味噌汁をすする。時はゆっくりと動いていた。

 (臨也が出てくるまでだいたい後五分、学校までは歩いて十五分で着くからそれから準備して家を出ても十分に間に合う――いつも通りなら。)

 頭の中でおおよそまとめてみたものの、イレギュラーについては計算しようもないために予定は未定と言わざるをえない。気まぐれな同居人を持つことがこんなに面倒なことだとは、かつての俺も考えていなかったはずだ。
 俺はお椀の底にぽつんと残った葱の切れ端から、未だ沈黙を続ける扉へと視線を移した。その奥には確かに人がいるはずなのだが、呼吸も聞こえないほど静まり返っている。―もしかしてまた寝てるんじゃないだろうな。俺は一年ほど前の出来事を思い出す。あの男はわが身が大事だと公言する割に自分の単位には毛ほども興味がないのだ。
 溜息を吐くのも今日で何度目だろうか。ちらりと時計に目をやりつつ俺は立ち上がった。

 だが俺がノックをする間もなく扉は開かれる。
 持ち上げた手は行き場を失って空をさ迷う。驚いた表情をしたのは臨也だけで、俺は何も言わずに手を下ろした。
 やはりというかなんというか、俺の予想を見事に裏切った同居人の手には黒っぽい鞄と鉛筆、それに俺もよく見慣れたスケッチブックが握られている。まさか、と俺が危惧したことは素直に現実となっていく。全身を黒で構成した格好の男が俺の脇を抜けていった。
 床に直接座り込んだ臨也の目はもうすでに現実を見てはいない。

 「大丈夫、今日俺三限からだから。」
 「嘘をつくな。一限に連れて来いって教授に頼まれてんだよ。」
 「四木さんめ、余計なことを。」
 「今からスケッチなんかしてたら遅刻すんに決まってる。諦めるんだな。」
 「俺には才能がある。」
 「いくらあっても単位はとれねえぞ。」
 さっさと準備を始めろと腕を掴もうとしてみるが鉛筆を握った手は強情にスケッチブックに寄り添ったままだ。描き出される線に迷いは無い。
 「単位とかそういうのはどうでもいいんだけど、とりあえずドタチンもシズちゃんも動かないでくれよ。」

 旅は道連れ、というやつか。冗談じゃない。臨也はすっかり自分の世界に没頭してしまっている。気が気でない俺はどうにかして交信を試みるが上手くはいかない。自分の空間を持っているやつほど厄介なものはないのだ。

 手の施しようが無いと悟った俺が黙り込んだ後、室内に響くのは鉛筆と紙の間で起こるわずかばかりの摩擦音だけだった。普段こちらが何も言わなくてもぺらぺらとよく動く口は閉じられ、代わりに動くのは手と頭のみ。じっと見つめては描き、描いては止まり、そしてまた景色を目に映す。それを何度も繰り返しているうちに、時は刻々と流れていく。あれだけ穏やかに流れていたのに、時間と言うものは残酷でいつの間にか時計の針はもう出なければいけないという時刻を指している。
 それを告げようとふと顔を上げれば、静雄が見えた。

 ***

 室内は静かだ。
 誰も何も話さない。鼓動の音さえも聞こえないような気がした。

 静雄はじっと臨也を見ていた。見つめるというよりかは眺めるに近い。お互いにその存在を認識しているのではなくその空間を捉えているのだ。

 静雄の作品の特徴はその躍動感にある。まるで生きているかのような、呼吸し鼓動し瞬きそうなほどの迫力がそこにはある。
 今、静雄が見ているのはものが『生きている』姿なのだろう。木や石や、無機物に命を与える彫刻というのはそういうものだとあいつは言う。

 臨也にしてもそうだ。「人類愛」を叫ぶこの男の描く人間は温かい。頬に、目に、足に、指先にさえ熱が行き渡っているのが感じられる。人間しか描かないという信条は俺には理解しがたいが、なぜ臨也が人間を描くのを好むかはその絵を見ればよくわかる。

 お互いに視線を交わすことも無くこいつらが通じ合っているのはもしかすると似通っているからなのかもしれない。俗に言う才能というやつが二人を繋いでいるのだと言う人もいるが、そんなに浅いものではないと俺は思う。

 この美大に入ってからというものの、この二人―臨也、静雄それに新羅に振り回され続けているが、それは確かに俺が選んだことである。
 それでいて、俺の中でそいつらを羨む心はまだ衰えていない。やっていることも目指していることも違うのに。
 (考えてもしかたのないことだとはわかっている。)
 今までにこんな経験をしたことがあっただろうか。疎外されている、というのは言いすぎだろうが、それでも俺にはこの二人のいる場所に入るすべは無い。届かないとわかっていても手を伸ばすのは昔からの性分だ。
 (諦めることもできないのが厄介だよなぁ。)

 二人を眺める俺の手には自然と力が篭っていた。

 余りに密な空間が時間を忘れさせていたことに気付き、力の使いどころを誤ったと思うまであと数分。

 ***

 結局遅刻した俺たちは、教授に冷ややかな言葉で侮蔑されることとなった。
 「シズちゃんのせい、」
 「「全面的にお前が悪い。」」
 「ひどい、二人掛かりだなんて!」
 俺は肩を竦める。ただ事実を突きつけただけでとんだ言いがかりだ。真実はいつも一つと世間で言われるように、正統なことは何物にも勝るというのに。
 不満たらたらにこちらを睨む臨也の手に握られているのは鉛筆ではなく大量のレポート用紙。去年の二の舞になることを恐れた優しい教授が救済措置として出してくれたらしい。面倒だ、こんのものは労力の無駄遣いだと臨也は口を尖らせる。俺から言わせれば自業自得である。八つ当たりに何を言われても、自分には何の非も被害もないと知っている俺は知らぬ顔を貫くことにした。

 静雄も同じように沈黙している。こいつ自身も紙の束を抱えているから何も言えないのだろう。
 「薄情者」と臨也が小さく呟いた声は構内の喧騒に呑まれていった。