「あ、」
臨也が不意に立ち止まる。
視線の先には白い影。
萌え出ずる新緑溢れるキャンパス内で浮き立つような純白の布地が風にさらわれ激しくはためいている。
よっぽど踵を反して見なかったことにしようかと思った。真っ白なウェディングドレスを抱え、嬉しそうに駆け寄ってくるそいつが友人でなければ全力疾走で逃げているところだ。
昨日以来姿を消していた新羅は抑えることも無く満面の笑みを浮かべ、俺たちの名前を呼びながら近付いてくる。陽光に眼鏡が光るのに目を細めた俺たちは、一斉に舌打ちをした。
「こんな時ばかり一蓮托生だよね、君たちってさ。」
臨也の機嫌は下降の一途だ。黙れ、爆発しろと辛辣な言葉を投げつけられても新羅はニコニコ笑って意にも介しないようだった。
「それより見て、今回のデザイン。今度はフリルを中心にしてみたんだ。身体のラインを強調するのもいいけどそれよりも彼女の美しさを引き出すことが大切だと思って、あえてふわっと仕上げたんだよ。テーマは『都会に咲く一輪の花』。この汚れた街の中でも輝きを失わないセルティに合うように作ろうと思ったんだけど、やっぱり駄目だ。セルティの美しさはセルティにしか出せないし、それに釣り合おうなんておこがましいと僕は気付いたんだ!ああセルティ、君の春霞のように幽玄で、それでいて捕らえてしまいたいと思わせるほどの甘美な色香は僕を苦悩に導く。それでも僕は君を求めずにはいられな、ぐはっ」
「うるせえ。眼鏡割ってやろうかお前。」
ついにキれたのは(対臨也以外には)温厚な静雄だった。指が長く大きな手で新羅の頭を鷲掴み、下手なことを言えば今にも投げ飛ばしそうな雰囲気を醸している。
今回ばかりは俺にも止められない。なぜならすでに俺の心は苛立ちに満ち、握り締めた拳はほどきようがなかったからである。
「あ、ホント、眼鏡だけはまじ勘弁!っていうかなんで君たちそんなに機嫌悪いの、反抗期?」
「盗んだバイクでぶん殴ってやろうか。」
「うん君が言うと冗談に聞こえないからとりあえず謝っておくよ!」
全くそんな気の感じられない台詞だ。やはり小学校からの長年の付き合いだけあって、ドスを効かせた静雄の声に新羅がひるむことはない。足が地に着いていなかろうと新羅の声音は至って普段どおりだ。慣れとは人間の危機管理能力まで鈍くさせるらしい。
静雄の機嫌と臨也のそれは反比例する。静雄が手に渾身の力を込め新羅の頭を潰そうとした瞬間に臨也が発した笑い声は今日の最高を更新した。
次に来る見え透いた結果に俺は背を向ける。「昼飯は罪歌で」と短く近所の中華料理屋の名前を告げて歩き出した途端に背後からは毎度聞きなれた怒号と笑い声が聞こえてきた。
似つかわしくないほどに空は晴れ渡っていて空気はほどよく乾いている。
作品を作るのにちょうどいい日だと脳内で直結させて、俺は現実からも目を背けた。
***
ふうと息を吐く。
五感だけに集中させていた神経を全身に分散させると急に疲れが襲ってきた。指先はすっかり粘土に覆われている。手の甲で汗を拭っても全身を覆う倦怠感は取れなかった。
電動ろくろのスイッチを切ると徐々に回転率は下がっていく。
脳内では真円だった大杯はよく見れば歪んでいるのがわかった。手でろくろを回してどこがどう悪かったのか検討してみようとするが、僅かに中心のずれたその円は何も語らなかった。
ここしばらくこんな状態が続いている。
土を練り、整形している時には間違っているとは感じないのに出来上がってみれば期待とは違うものが出来上がっている。陶芸は土との対話であるはずなのに、通じ合うどころかこちらの意思さえ伝わらなくなってしまった。
――きっとこれがスランプなんだろう。波立つ心を抑えるためにそんなことを呟いてみる。それで収まるはずもないことはよくわかっている。
立ち上がると背後の影も呼応して伸びる。俺はゆっくりと出来損ないの土くれに手を伸ばし、そして触れる。力を込めれば簡単に指先は粘土に埋まっていった。何も考えたくないと思ったが胸の辺りがきりきりと傷んでどうしようもない。俺は力任せに手を握りこんだ。
粘土はもう形を崩してしまった。
泥だらけの手を着古した作業着の腿で拭き、俺は視線を二度とは戻らない杯から外す。窓の外にはほとんど散ってしまった桜が咲いている。窓ガラスの俺の目はなにも映してはいなかった。
***
「京平。」
片手を挙げる新羅。年季の入った中華料理屋には俺たち以外には誰も客はおらず、店内に響くのはブラウン管テレビの騒ぐ声ばかりだ。
「悪い、遅くなった。」
腰掛けながら俺がそう謝ると、新羅は気にするなとでも言う風に上げた片手をひらりと振った。
あとの二人は。そう俺が尋ねる間もなく新羅は口を開いた。
「いつもどおり。仲良く作業中だよ。」
馬鹿だよねえ。新羅のその声を聞きながら俺はようやく出てきた店員に目配せする。いつも通りにラーメンを二つ頼めば彼女は頷いて大きな胸を揺らしながらまた奥へと消えていった。後姿を見送って、再び焦点を新羅に戻す。
「京平ってムッツリだよね。」
「お前よりマシだろ。」
「僕の性欲はセルティにしか向いていないし、それに成る丈オープンにしているつもりだ。」
「新羅って変態だよな。」
「臨也よりマシさ。それにしても、アイツはいつまであんなことを続けるつもりなのかな。」
一瞬どちらのことを言っているのかわかりかね――いや、もしかするとわかりたくなかったのかもしれない、俺は何も言わずにコップを手にした。次第にコップと掌、二つの汗が混じっていくのが分かる。
飲み干したコップの底で新羅が笑っている。その顔は確かに面白がっていたのだった。
***
俺の視界の中に、必ずといっていいほど臨也が映り込むようになったのはいつのことだったか。
俺は覚えていない。ましてや臨也がそれを知っていることなんて限りなくゼロに近い確率でしか存在しないだろう。
ただ俺にわかることと言えば目測できる距離ばかりだ。明らかである。
俺があいつを見ていても、あいつの視界に俺は入りこめないのだ。
***
「お待たせしました。」
控えめな声とともに俺は空腹を思い出して思考を中断した。机に二つの器が音も無く並べられる。昔ながらという言葉の本当によく似合うラーメンが湯気を立て新羅の眼鏡を曇らせた。しかし見えなくなったところでその目に込められた笑みは変わらない。勢いを付けて割った箸はいびつな形となって俺の手に収まった。
「ねえ杏里ちゃん。このデザインどうかな、ウエディングドレスの新作なんだけど。」
嬉々として新羅は携帯電話の画面を店員の少女に見せ付ける。おかっぱの彼女はそれを眼鏡ごしにちらりと見てから、綺麗ですねと決まり文句だけを言った。おざなりのテンプレート。二年間もこれを繰り返していればそりゃあ慣れるよな。そう思っても言わないのは、口よりも腹が饒舌だったからだ。決して新羅の舌の矛先が俺に向かなかったことを安心しているわけではない。
「一度モデルとして着てみないかい。ああでもセルティのほうがスレンダーだから胸の部分が合わないかもしれないね。君、バストいくつ?」
「セクハラです、岸谷さん。」
「性的な意味で聞いてないから無問題。僕は紀田君じゃない。」
「紀田君を悪く言うなら怒りますよ。」
「褒めてるのさ。僕の周りにいる、まどろっこしいことこの上ない友人たちと比べて彼はわかりやすくていいなぁって。」
褒めているんだか貶しているんだか。しかしがこちらが貶されていることは間違えようが無いだろう。
腹に麺を収める作業だけに集中して聞かないふりを貫くことにする。
「好きなら好きって言えばいいんだ。」
新羅は軽い調子でそう言ってようやく目の前のラーメンに気が付いたようだった。綺麗な対称に割れた箸を眺めて満足げな表情を浮かべる新羅。猫舌らしく非常にゆっくりとしたスピードでラーメンを口に運んでいる。もうすぐ食べ終わりそうな俺と対照的だ。少し欠けた椀の縁を親指でなぞる。滑らかな表面の内側にあるざらついた質感に思わず違和感を覚えるが、世界から見ればこれは普通のことなのだ。
(俺にとってアイツは、)
隣でぼんやりと手に持ったトレイを眺めていた杏里が誰にとも無く呟く。
「届かないから言えないんじゃないんですよ。届くかもしれないと期待するのが怖いんです。」
まるで月に手を伸ばすように。届かないとわかりきったものを渇望するのはひどく苦しく、果てが無い。
新羅のように求め続けることが容易ではないことを俺は知っている。まっすぐ手を伸ばし、月だけを見つめている姿に迷いはない。
俺とこの男との違いはそこかもしれない。届く、届かないよりも先に俺は躊躇しているのだ。失うことが怖いと思っている。心地よい空間を崩すこと。さらにそれよりも強く頭を過ぎったのは臨也の持つあの独特の世界が俺の入ることで歪んでしまうのではないかということだった。
「それでも諦め切れないのは僕らが人間だからだろうね。」
珍しく詩的なことを口にする新羅をちらりと見れば、何食わぬ顔で少々伸びかかってきた麺を啜っていた。まぁたとえ僕が人間じゃなくっても僕はセルティを諦めないだろうけどね。わざわざそんな惚気を付け足すあたり新羅である。
眼鏡はいつの間にか透明度を元に戻していた。それを含んでも、屈折率如何にせよ、新羅の見ている世界は俺のものとは違う。
「全く、俺はきっといつまでも人間なんだろうな。」
自覚して諦めることにする。感情を捨て去ることは不可能だ。俺が俺であるかぎり、どうしても見る景色は歪められない。
新羅が器を空にして机に置く。手早く俺のものと一緒にそれを持ち去るついでに杏里は厨房の奥に再び姿を消した。この店のセキュリティはお客様にかかっていますとプレッシャーを掛けられているような気もする。ブラウン管はさっきよりも静かになっていた。
目の前の男の名前を呼ぶ。新羅はこちらに注意を向けることでそれに応じた。飲み干したコップを握り締めると熱は徐々に伝わっていく。息を飲んだ。
「俺はあいつのことが、」
***
次の日は雨だった。
面白くも無い講義をほとんど欠伸でやり過ごした後、俺と臨也は食堂へ向かっていた。
この国の梅雨らしい息さえ阻まれるような湿気の中でさえも臨也の足取りは軽い。キャンパス内にひしめく人々を爽やかな笑顔で眺めつつ隣の男は楽しげに人類愛について語っていた。この談義を聞くのも何度目か。両手を全て使いきってから俺は考えるのをやめた。もはや右から左へと話を聞き流すのも慣れたものである。
二人だけでこうして昼食を食べるのは久しぶりだ。
あの二人、新羅と静雄とつるみ出して以来四人で食べることが大半で一人で食べることさえも少なくなった。馬鹿馬鹿しいことしか喋らないわりに会話は続く。なんとも不思議なものだ。
しかし俺はこれを友情とは呼びたくない。これをそう呼ぶと愛や友情を本気で信じている青少年たちの夢さえも壊してしまいそうだからだ。
「俺の愛は本物だよ。」
「価値観の相違って奴だな。」
「音楽性の違い?」
「俺らはバンドなんて組んでねえから却下。」
愛が無いと嘆く臨也の台詞は聞こえなかったことにして食堂の敷居を跨いだ。
早く食券を買えと臨也の背中を押せば母親のようだと笑われた。俺よりいくらか低い頭を片手でぐりぐりと押さえつけることで俺の意思を伝えようとしてみる。失敗した。臨也はただただ愉快そうに笑うばかりで俺の思いになど気付いてはいない。吐いた息は見る間に喧騒のうちに消えていった。
***
人と人との合間を縫ってようやく見つけた席に落ち着くと、向かい合わせに座った臨也と目が合った。にやりという効果音付きで口角を上げる姿に無意識のうちに目を奪われ、焦点が揺らいだ。ドタチン、と呼ばれてはっとする。
「ドタチンってラーメン好きだよねぇ。いつも罪歌で食べてるのに。」
「今日は味噌だ。」
「味付けが違っても品名は変わらないよ?」
喉がカラカラに乾いていた。臨也はいつもどおりの表情を浮かべている。スプーンを右手に持ったままだが目はこちらを常に注意深く観察し、しかしそれでいて俺ではない遠くを見ているようでもあった。
「ねえドタチン。俺に何か言いたいことがあるんだろう。」
不意に放たれたその言葉に思わず逸らした視線を元に戻す。驚いたことに臨也は無表情だった。白い肌も相まってか人形のようだと思った。俺は乾いた口舌で言葉を返した。
「それはお前もじゃないのか。」
臨也は微笑んだ。なんでわかったのと口では言いながらも、全てを理解してこいつは俺の前に座っている。かつかつと金属製のスプーンが陶器を叩く。
先に口を開いたのは臨也だった。臨也は目の前のオムライスには目もくれず俺のほうをじっと見ている。
「描けないんだ。」
もう何もわからないと臨也はひどく苦しげに息を吐いた。今まで張り詰めていた視線の糸がたわむ。赤い虹彩の向こうに焦燥と疲労が見えたような気がした。
「俺は人間を愛している。老若男女、病める者も健やかなる者も笑う顔も醜く歪んだ顔も、全てを愛しているんだ。だから俺は人物画しか描かない。だって愛ってそういうものだろ。」
首を振ることは出来ない。俺は一つだけ瞬きして、それからまた臨也の方に視線をやった。窓の向こうでは未だ雨が続いている。
「でもなんでだろう。なぜか、シズちゃんだけは描けないんだ。」
いつのことだったか。あれは臨也と静雄が始めてあった直後だったと思う。そのときも臨也はそんなことを言っていた。静雄は人間じゃないという曲解的で無理やりな理論。
「あの、化け物。」
目の前の男はそう吐き出すように呟いた。
「どれだけ色を作っても重ねてもあの金髪にはならない。あの目も指先も背格好でさえ俺には近付けない。いくら描いたって、シズちゃんにはならないんだ。」
何度も臨也が静雄の姿を描いているのを見た。精密なデッサンをしたことも、何週間もかけて着色したこともあった。臨也が笑顔で俺に見せた下絵は色を塗る段になれば全てごみくずになった。
「近付いたと思ったら遠ざかっている。どうやったって届かない。」
喧騒に飲まれそうになるほどわずかな叫び声だった。臨也は天井を仰いで唇を噛んでいる。
徐々に人並みの消えだした食堂内に臨也の呼吸が響いた。
「俺は人間しか描けない。だってそれしか愛せない。」
臨也の唇が震えているような気がした。ずるりと食堂の椅子に姿勢悪く沈み込む臨也。俺が名前を呼ぶと、揺らいだ瞳がこちらを向いた。
――そうだ、こいつも人間だった。
場違いなほどに基本的なことを今更ながら俺は思い出した。
天才と呼ばれ生きてきたこいつとは世界が違うのだと線を引いていた。しかしこいつも人間なのだ。届かないものに手を伸ばす。この男らしくも無いほど渇望して、届かなくても手を伸ばし続ける。
『それでも諦め切れないのは僕らが人間だからだろうね。』
昨日言われた言葉が頭を過ぎる。
俺は開きかけた口を噤んだ。望むなとは言えない。それは俺が人間だからか。それとも本気で目の前にいるこの男のことが、
「臨也。」
***
「シズちゃん。」
食堂の入り口の方から声がした。他のものを寄せ付けないような断固とした声。
閑散とした食堂内に反響する。臨也の肩がわずかに震えた。
臨也がその男の名前を呼び返す。俺は動くことも出来ずに、臨也の目の色が変化するのを見詰めていた。
「悪い、こいつ借りていくぞ。」
静雄は短くそう言った。臨也の手が引かれる。俺は引き止めることも出来ない。今俺がそれを口にしてしまえば、きっと臨也の世界は崩れてしまうだろうとぼんやりと滲みかけた頭のどこかで気付いていた。
「臨也、」
俺は一度だけ名前を呼ぶ。臨也は腕を引かれながらもこちらに目をやった。
そのとき俺が何を言おうとしていたのかはわからない。心音ばかりが鼓膜に響いていたような気がする。
結局何も言えずに早く行け、とだけ動作で示す。
臨也が頷く。俺は立ち上がりその後姿を見送る。早足で前を行く金髪はこちらを振り向きもせずに外へと消えていった。
***
作品が出来上がったのだという。
後に新羅が教えてくれた。
力というのはこういうものだと誰かが言うのが聞こえた。俺にはその例えはよくわからなかったが、静雄の声が聞こえたような気がした。同時に俺の同居人の声も聞こえた気がしたのは錯覚か。
結局何も言えなかったのだと俺が苦笑を漏らせば、新羅は何も言わずに俺の肩を叩いた。
慰めるわけでも励ますわけでもない。それでも俺はなんとなくそれに救われたような気分になった。不思議に思って首を捻ると、「コレが友情さ」と新羅はさわやかに言いはなつ。遠慮したいと言ってもこれはどこまでも付きまとうだろう。
『ごめんね、ドタチン。』
臨也はそう言って俺の目を見た。
静雄の作品が完成してしばらく。臨也はある一枚の絵を書き上げた。
その絵にはただの一人しか映りこんではいなかった。もちろん俺ではなく、静雄が。
『愛してる。』
幸せそうに笑う姿に俺は手を伸ばすことさえ出来なかった。
「ねえ京平。」
新羅は俺の前に座って未だに笑っている。友情というものは透視能力のおまけまでつけるのだろうか。俺は肩を竦める。
「悔しいだろ。」
「当たり前だ。」
「男前だね。」
「何も言えなかったのに?」
「挑む心を賞賛してるのさ。」
褒められている気がしない。それでも俺は笑った。
「届かないと思ったって諦めきれるもんじゃねえんだよ。」
俺の杯はまだ歪な形のままだ。そしてきっとこれから何度もこれを潰しては練り直して作り直す。
いつか届くまで俺は手を止めることなど出来ないのだ。
「若いねぇ。」
新羅の言葉は温かい声援として受け止めることにした。
三限の終わりを告げる鐘が鳴る。もうすぐ臨也たちが戻ってくるだろう。
すっかり葉桜になった木の下で俺は小さく息を吐いた。
もうすぐ夏が訪れようとしている。