堰を切って流れ出す涙を止める術を俺は知らない。
ある夜ふと目覚めると、俺は泣いていた。
グレーゴリイ・ザムザ的に説明してみたものの、彼ほど状況は切迫しているわけじゃない。心が動いた訳でもないのに涙が溢れて止まらない。それが不可解で堪らない、とただそれだけなのだ。
拭っても拭っても意味は無かった。上を向いてみたり目頭を押さえてみたり。いくつもの手段を試した後、俺は諦めてシーツの上に手を投げた。
ベッドにシミが生まれる。座ったまま正面を見つめ、頬に流れる感覚と液体と布が出会い解け合うその音に耳を澄ませていた。
どうやら自分ではどうにもならないらしい。たどり着いた結論はシンプルで、それでいて正しいようだった。
手探りで携帯電話を引き寄せる。画面に触れると暗がりに青い光が広がった。飾り気のない待ち受け画面に着信を告げるマークを見つけた。しかしどうしても触れることはできない。この涙に対するせめてもの抵抗だ。誰かに止めてもらおうなんて冗談にしては質が悪い。再び色を無くしていく室内を焦点の合わない目で眺めながら頭の端を横切った金髪をかき消した。
不意に静寂が裂かれる。
涙越しにまた青い光が天井を照らすのが見えた。光が目に痛い。耳鳴りのように襲いかかってきたある感情から逃げ出すように俺は部屋を抜け出した。ドアを閉じても携帯電話が呼ぶ声は聞こえたが鼻を啜る音で誤魔化すことにした。
身体を引きずるように階段を下る。位置エネルギーと重力加速度がどうだとか下らないことに脳のキャパシティを使うことで不必要な思考を無理矢理追い出しているうちに、いつの間にかリビングのソファにたどり着いていた。月明かりで存外に明るい部屋の中央で俺は立ち止まる。
「来てたの。」
携帯電話を耳に当てたまま彼は俺を見上げる。サングラスを通さない視線は余りに優しい。窓に背を向けた俺の影の中でも金髪はその色を失うことはなかった。
下を向いているせいで余計に涙は止まらない。拭われることのない液体が俺の頬を流れ顎を伝い鎖骨へ溜まっていく。
一定量を過ぎ、それが溢れだした頃には俺はもう彼の腕の中にいた。ぼんやりと立ち尽くし白いシャツにシミが広がっていくのを見つめる。彼は俺よりも幾分か背が高いもんだから抱きしめられると息が苦しかった。
シズちゃん、と呼んだ声はくぐもっていた。黙りこくって何も応えないのに、自らの声が嗄れてしまったのではないかと不安になって額を彼の胸板に押しつけると回された腕の力が強くなる。先にシズちゃんが溜息を吐いたから俺は仕方なく黙って鼻を啜った。
「水分摂らねえとお前そろそろ死ぬんじゃねえの。」
「うわあそれ格好悪いなぁ。泣きすぎで死んだだなんて公表されたくない。」
「今死んだら全部俺のせいにしてもいいぜ。」
「君のそういうところが嫌いだよ。」
こんな時ばかり優しい。普段はどうだなんて思い出したくもないけれど。ぶら下げるたまま役立てる気もなかった腕を俺はようやく持ち上げて彼の腹に回す。それから全体重をそちらへシフト。びくともしないのが腹立たしいが後髪を梳かれているうちにどうでもよくなって考えるのを止めた。
「シャツはうちで洗濯していきなよ。」
「朝は味噌汁がいい。」
「ああ、毎朝でも作ってあげるから。」
だから涙の理由が見つかるまで、しばらくこうしていてほしい。それ以上俺は何も言えなくなって、嬉しそうな彼の顔を見てはまた涙を流したのだった。