その男は、私が三度目の食事を終えた頃にやってくる。
 「やぁ。」
 細い、まるで骨のような片手を上げて彼は言う。挨拶代わりに私がくるりと身体を旋回させると、男は眉の端を少し下げていつものように微笑んだ。青い光が男を照らす。伸びた指に対して少し曲がった背筋。目の赤が青と混ざり不思議な色合いを示しているのに、それに対して髪の黒さだけが揺るぎ無く私の目に飛び込んでくる。
 水底から彼を眺めるたび私は思う。この男はほんとうに人間なのだろうかと。
 尾びれで軽く水を押し、彼の近くへと泳ぐ。分厚い透明な壁越しに鼻先でその手に触れても温もりは感じられない。夜とともに私の元を訪れる彼は、果たして人間と言えるだろうか。
 「君の方が人の感情に敏感なのかな。」
 シャチのくせに、とはもう彼は言わなかった。かつて何度かその言葉を聞いたことはあるが、いつ頃からだろうか、私に対して、まるで古い友人に対してのような優しい態度を見せるようになってからは、自分と私を隔てるような言葉は言わなくなった。私に聞こえていることを知ってのことだろうか。それにしてはいつもどこか諦めたような顔をして私に話しかけてくる。
 この男が何者で、実際にはもう入れないはずの時間にここへ来れるのか、どうして来るのか私は知らない。もしかしたら本当に人では無いのかもしれないと思うこともあるがそれにしては言うことが人間臭すぎる。
 鼻先で手を二度ほど小突くと彼はくすぐったそうに笑った。そして彼の方からも私に触れようと、水槽の透明な壁越しに手を伸ばしてくる。
 しばらくの間そうしてじゃれあっていたが、そのうちに私の水槽の中が暗くなった。人の作った光のせいで今まで忘れられていた夜の闇が、ゆっくりと迫ってくる。普段ならもう眠る時間だ。一部分を残してすっかり真っ暗になってしまった空間の中で、わずかに残っているのは男の足下を照らす光だけで、それも彼が私の前から去るとなくなってしまう。
 もうすぐ暗がりの中で私は一人きりになる。近頃、そうなるとひどく息苦しく感じることがあるのだ。私の身体は水の中で生きるためにあるのにそんなことが有りうるのだろうかと随分不思議に思ったものだが、彼がここへ来てぽつぽつと話す言葉の中にあった一つの感情がその原因にしっくりくることに最近になって気がついた。
 きっと私は「寂しい」のだ。
 彼がひどく言いにくそうに目を伏せながら呟くその言葉が具合良く私にはまる。そしてつまりは、彼も同じように「寂しい」。
 彼がここに来るようになってから私は眠ることを好まなくなった。目を閉じてしまうと暗闇だけしか見えなくなる。私の周りには何もいないのだと、誰にも触れられないのだということを自覚してしまう。それはひどく苦しく、辛い。逃れられるものではないと、目を背けられるものではないとわかっていても理解することを拒否したくなる。
 その代わりに彼が常々話すように、人間に対して少し興味を持つようになった。訪れる多くの人々の姿を眺めながら水槽内を泳ぎ回る。私を見て喜ぶ者の明るい笑顔。考えごとをしているのか、ぼんやりした視線を向けてくる者。紛らわせきれなかった悲しみを涙と滲ませている者。実に様々な人間が私のもとを訪れる。彼らを見ているとき、私は一人ではなくなる。人々のその感情が私の周りの水を通して伝わってくる。
 彼が人間観察を愛しているという気持ちがわかった気がする。どうやったって私たちは他者とは相入れることは出来ないのだから「寂しさ」はこうして紛らわすしかないのだ。

 「目が覚めて、窓の外を見るだろう。そうするといつも同じ風景がそこにはあるんだ。ビルの群、狭い空ーー君にとっては向かい側の水槽かな。それが俺は嫌いでね。だってぞっとしないかい。それはいつでも変わらないでそこにいるんだ。朝も昼も夜も夏も冬も、どんな条件が変わったって変化しないんだ。ーーでも人間は違う。何か一つでも条件が変われば、すぐにではないにしろ変わっていく。化け物みたいな力を持ってたって、周りの環境を変えてやれば人間になれるんだ。それが俺は好きなんだ、いやむしろ愛しているんだ。」
 男はいつもこうして私に色々なことを教えてくれる。それの主な内容は人間のこと。彼の愛してやまない人というものがどれだけ面白くて、滑稽で、美しい生き物なのかということ。
 そしてそれに続けていつも彼はある一人の男を例として引き合いに出す。(私にとってみれば、彼と同じようにその「池袋最強の男」というやつも人間とは思えないのだが。)その男について彼は実に楽しそうに話す。まるで私を見つめる子供みたいな目をして、その男が人間離れした異常な力を持っているだとか、あいつなら君を持ち上げられるだとかそんなことを話すのだ。にわかには信じがたい話が続くこともある。それでもきっと彼の言うことだから嘘は無いのだろう。私は想像する。彼の言うようにその金髪の男が私をここから出して、彼と実際に触れ合うところを。
 だがそれはおそらく実現することは無いだろう。
 その男の話をするとき、彼はひどく苦しそうな、「寂しい」顔をするのだ。男と彼は仲が悪いらしい。
 「一秒だって、あいつと一緒にいることはできないんだ。」
 彼はこう言って視線を伏せる。同じ陸にいるのに近づくことも触れることもない。そう話すときの彼の顔を見ると私もまた「寂しく」なる。私はどうやったって彼の髪を撫でることはできないのに。私がその男であったらよかったのにと。
 彼のように口にしてこの想いを伝えられたらいいのだが、私が口を開いても出てくるのは言葉ではなく泡ばかりだ。
 私は彼のことが、彼はあの男のことがこんなにも好きなのにどうして伝えることができないのだろうか。理不尽に存在し続ける壁に、私はいつも疑問を覚えるのだった。

 いつものように、彼がその男についての話を始め、そしてしばらくして途中で止めてしまうのを聞きながら私は考えていた。どうにかして彼の「寂しい」思いを無くしてしまうことは出来ないかと。私があの男になれればいいのだが、何を言ってもそれは不可能だろう。

 (ああ、せめてあの人がその男だったら。)

 暗い目をした彼を映しながら、ふと私の頭にある人が思い浮かんだ。週に一度、人が随分多くなる日の朝方にやってくる明るい黄色の髪をした背の高い男だ。私が身を寄せると彼と同じように短く挨拶してくれるからよく覚えている。
 その人は彼とは違って多くを話すわけではないが、時折彼と同じように「寂しい」目をする。彼にするのと同じように私がその手に鼻先を触れさせると困ったように眉を下げながら笑う。ほとんど人のいないなかで私はその人を見つめながら、黒髪の彼のことを思いだし、時折彼といるときに金髪のその人のことを思い出すのだ。同じ目をして私を見つめる彼らはよく似ている。
 彼の話す「あいつ」がせめてこの人であったならと何度思ったことか。それが私が彼に触れられることと同じぐらいの確率だということは私だって知っている。それでも望むだけならいくらでも出来るのだ。

 黙り込んだままの彼はまだ沈んだ目をしている。
 私は口を開いて水を吐き出した。まとまらない想いは言葉にも泡にもならずそのまま消えていく。私は彼の名前を知らない。せめて呼ぶことができたら何かが変わるかもしれない。そう思った。
 「じゃあ、また。」
 彼は不意にそう言って、踵を返して歩き始める。光がふっと消えて辺りは暗闇に包まれる。足音が遠ざかっていくのを惜しみながら、私はしばらくの間ずっと底を泳ぎ回っていた。
 長い夜が始まる。


 ***


 その日はなんだか水が冷たかった気がする。
 私は目を覚まし、水槽の上の方を泳ぎ回っていた。朝の食事時間までもう少しあると腹の具合を鑑みながら水を切り波を立てる。
 その日は金髪のあの人が来る日だったから私は少し早起きで、起きてからずっと水槽のガラスの方を終始伺っていた。あの人の黄色が見えたらすぐにでも寄ろう。あの人に私の声は届かないが、せめて私の代わりに寂しげな彼の肩を支えてやってはくれないか。そんな想いを抱えながら青い水の中を旋回し続けていた。まだほとんど人が見えないからだろうか。なんとなく「寂しい」。
 もし私に言葉があったなら、なんてことを考えながらあの人が車での時間を過ごしていた。私が彼らに伝えたいことは一体何だろう。黒髪の彼の「寂しさ」はどんな言葉で消すことができるのだろうか。金髪のあの人はどう言えば私のこの想いをわかってくれるだろうか。
 ヒトでもないくせに、と心のどこかで自嘲する声がする。こちらから想いを伝えられないという現実は確かにそこに存在している。
 しかしそれでも、私は彼が好きなのだ。出来なくたってその髪に触れたい。白い手に鼻先を擦りつけたい。彼の赤い目に私の姿だけを映したい。
 尾鰭を大きく動かして底まで一気に沈む。朝の光が上から差し込んでいてとても綺麗だった。私は夜より朝が好きだ。しかしそれでも彼がいるならずっと夜でもいいとも思う。「寂しい」に対を成す感情はこれなのだろう。

 視界の端に黄色が映る。
 私は身体を翻し、浮上する。思った通りそこには金髪のあの人が立っていた。いつものようにぼんやりと私の尾が描く軌跡を目で追いながら、何か考えごとをしているように私の水槽の前で立ち止まっている。私が彼の前で身体を回すと、男は「よぉ」とお決まりの短い挨拶をして手を挙げた。そのまま指先を私の腹の辺りに持ってきて、そこにある透明な壁をなぞる。撫でるような手つきが黒髪を思い出させた。頭を指に擦り寄せる。金髪が目を細めた。
 「お前みたいに、」
 そう言って男は言葉を切る。まだ先に続くことはわかっているのだが、私には促すことも聞き出すこともできない。彼は目を少し伏せ、黙り込んでいた。まだ人の少ない時間帯である。頬に薄い水色を反射させながら、彼は一人息を吐いた。目の奥にあるものがちらちらと垣間見える。息苦しくなるほど濃い青色。

 「やぁ。」
 聞き覚えのある声がした。私は頭を持ち上げる。同時に金髪も勢いよく振り向く。
 そこには彼がいた。いつもは夜とともに訪れるはずの黒髪を、私は驚いて見つめる。彼はいつもよりゆっくりした足取りで私の方へ近付きながら、しかし視線は金髪の男の方へだけ向けていた。
 「どうして君がここに?」
 「いちゃ悪いのかよ。」
 「いいや。ただ、珍しいと思ってさ。」
 言葉の端々に先ほど見た色を見つけた。私は即座に理解する。この金髪の男が、彼の言う「あいつ」なのだということを。
 私の水槽の前に二人が肩を並べる。ひとたび途切れた会話はなかなか元には戻らない。私はうろうろと二人の前を泳ぎ回っていた。無いように見えて確かに存在する分厚い壁の前で私に出来ることといったらそれぐらいだった。

 二人は黙っていた。もうどちらも私を見ていない。似通った目をして、ただ物思いに耽るように水底を見つめている。
 (隣にいるのに、どうしてこうもこの二人の間の壁は退いてはくれないのだろう。)
 戸惑いながら私は考えていた。黒髪は金髪が好きで、しかし近付けないのだと言う。手を伸ばせば届く距離にいるのに彼らはお互いにそちらを見ようともしない。
 (もし私が彼だったなら、)
 この想いは何だろう。私はこの感情の名前を知らない。あの黒髪に手を伸ばしたいといくら思っても出来ないことは知っているはずなのに、いくら無理だと言い聞かせても繰り返すほどに理解したくなくなる。私が人間であったなら、彼が私に向ける目は違ったものであったのだろうか。

 「もうさすがに君は覚えていないだろうけど、」
 彼が黒髪を揺らしながら話し始めた。それはいつも私に向ける口調よりずっと重いものだった。
 「昔、一度ここへ君と来たことがあるんだ。ーー高校を卒業する少し前のことだったかな。いつものように喧嘩して、俺は君から逃げるためにここへ入り込んだ。妙にここが静かで、決まり悪くなって俺たちは喧嘩をやめた。」
 彼が指で水槽に触れる。いつものように私は鼻先を寄せたが、彼が表情を変えることはなかった。
 「君が黙り込んでいたことを覚えている。青い光が綺麗だった。君の髪の色がそれを反射してーー」
 彼は目を伏せる。辛いのだろうか、苦しいのだろうか。唇が震えていた。
 「忘れられないんだ、君のその姿だけが。目に焼き付いて。」
 ひどく細い声だった。少し上擦っていたようにも思う。彼はそう言ってから小さく息を吐くと、瞼をゆっくりと下ろしてしまう。
 (忘れられないとは言っても忘れたいとは彼は言わないのだろう。)
 私は確信した。気が付いてしまったのだ。私に向けられていたと思っていた今までの言葉のすべては、本当は私ではないものに受け取られるべきだったものだったのである。
 二人ともしばらくの間何も言わず、何も見なかった。私も尾鰭を動かすことを止め、ただ二人の行く先を見守ることにした。静かだった。水の流れる音が聞こえるほど、私たちの周りには何も存在しなかった。
 「君が、」
 黒が言い淀む。言葉が不自然に途切れる。目は伏せられたままだ。どちらの目も。
 「君のことを、俺は、」
 「俺は、」
 金髪が不意に閉ざしたままだった口を開く。驚いたように顔を上げると、彼の赤い目の光も揺らいだ。
 「俺も忘れられないんだよ。この水槽の前で、お前が言ったことが。」
 「忘れてもいいはずなのに?」
 「忘れられるわけないってわかってるからかもしれねえ。」
 「忘れてよ。」
 「出来たらいいのにな。」
 私の知らない言葉で彼らは話す。私の知らない感情で彼らは話す。私は何も知らない。彼の名前も、彼らがかつてここに来たことがあることも。私の中の何かが蠢いている。これが何なのかさえ私にはわからないのだ。
 ようやく二人がお互いを見た。しばらくの間見つめあって、お互いに何か言い掛けてまた口を閉ざした。あれは私には決して手の届かないものだ。
 (もし私に言葉があったら、)
 そんなもしもを何度も心の中で繰り返していた。それでも私と彼らの間に分厚い壁があることは事実なのだ。否定することはできないから見ないわけにもいかない。私は懸命に彼の周りを泳ぎ回る。こちらを見てほしい。私だけを見ていて欲しかった。彼の目が好きだった。青と混ざりあったあの色が好きだった。私に代わりはいない。私がずっと側にいることができればよかったのに。
 金髪のあの人が口を開く。
 同時に私も口を開いた。しかし私の口からは何も生み出すことは出来ない。泡をいくつか吐き出して、せめて彼の目に触れたいだけ。
 「ーー。」
 男が彼に向かって何か言った。しかし私には聞こえなかった。私は水槽越しに彼らを見つめていただけだった。名前を知ることもなく、思いも届きはしなかった。

 (私がその名前を呼びたかったのに。)

 彼が私の方を見た。頬に流れるものがある。もうその目が青を映すことは無いのだろうと、私は知った。