鼓膜を打つ喧噪。祭り囃子は遠くに響き、連なる提灯の仄かな光が辺りを賑やかす。からんころんと下駄の鳴る音も紛れるほどに人々は声高々に笑い合っていた。

  静雄が見上げるとそこには大きな鳥居があった。足は彼の胴よりも遙かに太い。手を伸ばしたとて頭に届く気配すら感じられない。所々で丹塗りの剥げた随分と古いものである。どれくらいの時をこの鳥居はここで過ごしたのだろう。静雄は取り留めもなく考え、及びもつかぬ時間の長さに小さく息を吐いた。
  着物の袷を気にしながら静雄はまた空を見る。朱の窓越しに見る空には星一つ無い。祭りの灯りに照らされて、居心地悪そうに少し顔を赤らめているだけだった。

  ふと気がついて見た時にはもうすでに静雄の隣に男は立っていた。細身の身体に白っぽい絣の着物を纏った立ち姿。狐の面を被っているにも関わらず、静雄はそれが誰なのかすっかり理解していた。

 「待った」
  男は言った。静雄にはそれが疑問なのか単なる事実を示しているだけのかわからなかったが、構わずに男に話しかける。
 「待ってくれなんざ頼んでねえよ。」
 「冷たいねぇ。俺と君との仲だってのに。」
 「寝言も大概にしろよ、臨也。」
 「さて夢の中でその言葉は罷り通るのかね、シズちゃん。」

  くつくつと喉を鳴らして臨也は爪先を巡らせる。跳ねるように近付いて狐の目の奥から静雄の顔を覗き込む。静雄の目は提灯をいくつも映し不思議な色合いを浮かべていた。この目は嫌いでは無いのだと臨也は心中で呟く。舌打ち混じりに、いかにも憎々しげに睨む男に舌打ちを返して臨也はまた身体の向きを変えた。

 「行こう。祭りが終わる前に。」
  手を引いたのは臨也だ。踏み出した途端に今まで静まっていた音が再び波を作り始める。祭りの中入ることに一瞬ためらうも、手を引かれるがままに静雄は喧噪へと飛び込んでいった。
  どこへ向かうのか。
  それはきっと無意味な質問だ。静雄は顔を上げ、通りすがる人々を避ける作業に集中することにした。
  からんと響いた下駄の音は誰に聞かれることもなく声と声の間に消えていく。

 ○ ○ ○

  自覚していても覚めることのできない夢がある。

  俺は目を開いた。先にある風景は奥行きを失い平坦で、道行く人には顔さえない。遠くに見える入道雲も蜃気楼の中にいる。世界の中で俺だけが現実で、やたらとはっきりした意識を保っているのが苦痛だった。

  座り込みたくなるのをどうにか壁に寄りかかることで抑え、瞬きを繰り返す。汗のせいで重たくなった身体の感覚はリアルそのものだ。暑さで鈍った思考をどうにか取り戻せないかと日陰を求めるもこの街は俺には少々明るすぎるらしい。吐く息さえも熱くて目眩がした。

  断続的な耳鳴りの最中に見慣れた声が聞こえた気がして俺は身を起こす。歪んだ視界の中で金髪を求めた。光に溢れた世界。目を細め、頭痛を堪えながら首を回す。

 ――今聞こえたのは笑い声だろうか。
 ――いやそんなはずはない。
 ――だってあいつがこんな声を出すなんて俺は知らない。

  痛みは絶え間無く続く。汗で湿った髪が頬に張り付くのが煩わしくて仕方がなかった。

  一歩踏み出す。揺らぐ景色の中に見慣れた長身を見つけて少しだけほっとしながら、俺は吐き気を堪えつつそちらへと向かった。

 ――あの男だけは、あの化け物だけは俺の側を離れてくれない。
  それは確信だった。結局のところ生き物というやつは同じ匂いのする奴としか寄り添ってはいけないのだ。生きるも死ぬも、人間は人間の側で、そして化け物は化け物同士傷を舐め合っていればいい。

  足音も無く静かに男の背後に回り込み、腕を伸ばす。
  口から先に生まれてきた俺が声より先に手を出すなんて珍しい。しかし自らの不自然さに笑う余裕は俺にはなかった。

  俺のよりも広い背中には汗で濡れたシャツが張り付いていた。骨格だけならインテリアとして部屋に置いておいてもいいな。浮き上がった肩胛骨に目を奪われながら思う。

  触れようとした。その時だった。

  俺ははたと足を止める。折角縮めた距離が再び広がっていく。
  俺の目の先で男は笑っていた。俺ではない誰かに向けて、俺だけに向けられるはずの心の底から楽しそうな表情を浮かべていた。彼の視線の先には誰かがいる。俺ではない誰か。

 ――これは夢だ。夢なんだ。

  握りしめた指先の冷たい感覚。確かに俺は夢の中で生きていた。

 * * *

  屋台から立ち上る香しい香りに誘われるように二人は境内を歩きだした。
  臨也に手を引かれた静雄は初めのうち石畳のいびつさばかりを気にしていたが、臨也のいつもとは違う響きを持った笑い声に釣られ、次第に景色に夢中になっていった。

  まるで夢のような光景だった。
  空中を自在に泳ぐ金魚を子供たちは追う。あれは何かと静雄が尋ねると、こともなさげに臨也は金魚すくいだと説明した。
 「彼らは利口でね。見通しのいい水中なんかより人混みの中の方が楽しいと知っている。見てご覧よ。随分伸び伸びしているだろう。」
  自らの頭よりも大きい金魚の目玉を見つめて静雄はそんなものなのかと首を捻る。臨也は透き通った尾びれ越しにその様子を見て喉を鳴らした。二人の間を抜けて、赤い出目金は鳥居の方へと泳いでいった。

  いつもの半分ほどの早さで静雄は歩く。
  いつの間にか二人は肩を並べていた。
  くるくるとしきりに向きを変える狐の面の下にどんな表情が隠されているのか。入道雲のように際限無くふくらむ綿あめの屋台の横を通り過ぎる間静雄はじっと考え込んでいたが、いつも通りの調子で白い砂糖菓子を差し出してくる臨也の態度に、不意に馬鹿らしくなって思考を止めた。口に放り込んだ雲は甘く、瞬く間に溶けていく様はまさに夢そのものを表しているようで、

 ――これは一体誰の夢なのだろうか。
  思えども静雄にそれを知る術はない。
  臨也の差し出したビー玉ほどの小さなリンゴ飴を噛み砕いているうちにその疑問でさえもあやふやになっていくのに、静雄は気付きもしなかった。

 ○ ○ ○

  誘い出すのなんて簡単だ。
  軽く頬を歪ませて、笑い声をあげればいい。ナイフを日に煌めかせれば、光がそちらに届く前にあいつは俺を追いかけ始める。

  この時に俺が心がけていることは二つ。
  一つは決してスピードを落とさないこと。
  走る速さはもちろん呼吸も判断も舌と口も止めないよう細心の注意を払わなければならない。つまりこれは俺が生きるために必要なことで、これを忘れてしまえばあっと言う間にバッドエンド、即座にデッドエンドに繋がるわけだ。
  口舌に関しては重要に見られないことが多いのだが、ところがこれが意外にも俺にとっては死活問題であったりする。

  二つ目は目を離さないこと。
  俺が彼を見失わないためでもあるがこれはむしろ俺は受動の立場で、口を閉じないこともこのためだ。

 ――君は俺だけ見ていればいい。
  口に出せない言葉をナイフの先に込めて、傷口から毒を流し込む。こうして向き合っているとき、彼の目には俺だけが映っている。瞳の中の俺の顔は無様なほど幸せそうで、対して男の顔は殺意ばかりが溢れていた。互いにひどく満ち足りた表情をしている。学生時代からずっと保ってきたこの距離が俺には心地よくてたまらなかった。

 ――二度と俺以外を見るなと言えればどれだけ楽だろう。
  この男の周りに人が集まるようにし向けたのは、確かに俺だ。化け物が化け物らしい表情以外をするのを見てみたい、そんな好奇心。
  後悔しているわけではない。そうではなく俺は自分自身に戸惑っているのだ。
  男が孤独で無くなるにつれ心の中に興味よりも大きなものが現れだした。俺にとっての一番が変わっていく。
  これは一種の執着だ。そう自覚したのはつい先ほどのことだったか。
  決して手の届かないもの、たとえば俺にとっての人間だとか、そういうものならば諦めはつく。蚊帳の外でも構わないとさえ思える。
  しかしそれがほんの近くにあるものならば、俺はそれを諦めきれるだろうか。

 ――寂しいとでも言ってみようか。
  言えもしないのに喉の奥につっかえた感情を言葉にして頭の中に貯めていく。脳内が飽和していくのがわかる。淀んだ腹の底が熱い。不意に泣きたいような、そんな気持ちになったのなんて随分久しぶりのことだ。

 ――俺だけを愛してくれ。

  俺は立ち止まる。ナイフの柄にはまだ赤い血が付いている。
  俺はそれを、彼の中にいる俺自身に突き立てた。

 * * *

 「珍しい。今時お面なんて売ってるんだねえ。」
  手を離して駆けていく臨也の背を目で追いつつ、静雄は黙って同じ方向を目指して歩く。どうやらこいつの付けている面はここで買ったものではないらしいと、至極わかりきったことだけしか静雄には思いつかなかった。頭の片隅に引っかかった何かが思考を邪魔しているような感覚。それについて深く考えることも祭りの中では難しい。静雄は諦めて一面に飾られた面に目をやった。
 「はは、見てよ。新羅に首無しライダー、果ては田中トムにあのロシア人までいる。」
  一つ一つを手にとって見せながら臨也は静雄の前に面を並べる。宙に浮かんだ顔ぶれに一つとして静雄の知らないものはなかった。静雄を囲んで面たちは旋回する。臨也はその軌道上の外からそれを眺めていた。相変わらず表情は狐の奥でわかる由もない。

 「ねえシズちゃん。」
  一歩踏み出して臨也は静雄に声を掛ける。上司の面と向き合っていた静雄もそちらへ歩もうとしたが、円から出ることは叶わなかった。顔で出来た壁越しに二人は互いを見つめる。
 「君は幸せだろう。君の周りには多くの人がいる。笑い合える友、信頼できる上司、そしていつか君を愛してくれる人が現れるはずだ。だってそう俺が仕組んだからね。化け物、平和島静雄が人間になるように俺が君を変えたんだ。幸せだろう、ねえ、シズちゃん。」
  祭囃子が消えた。人々はいつの間にかいなくなり、先ほどまで眩しいほどだった光も今は蛍のぼんやりとしたものだけとなっている。
  薄暗がりの中から臨也は腕を伸ばした。壁を破り、白く細い手が静雄の頬に触れる。
 「そのまま幸せに生きるといい。でも、ただ君は、化け物の君だけは俺をずっと見つめていて。化け物として消えていく俺と一緒に化け物として生きた君も一緒に消えて。それが俺の、折原臨也の幸せだから。」
  臨也はゆっくりと狐の面を外した。そしてそれを静雄に被せると、一言だけ別れの言葉を告げて踵を返す。

  臨也が見上げると、そこには大きな鳥居があった。大きくて古びた、入り口と対を成すそれは静かに臨也を待ちかまえていた。被せられた面越しに静雄は背中を向けた男の名前を呼ぶ。

 「それじゃあね、シズちゃん。これで君は俺のものだ。」

  振り返った臨也は笑顔ではなかった。それどころか男には顔など無く――

 × × ×

 「ああ、やっと目が覚めたみたいだね。」
  声が聞こえて目を開いてもそこに広がるのは暗闇だった。ひどい耳鳴りがする。
 「喧嘩も大概にしなよ。いや、君たちの場合戦争と言った方が最適かな。」
  ともかく街が壊れるのはよろしくないと新羅は軽い調子で笑った。
 「怪我をしたときのこと、何か思い出せるかい。」
  尋ねられても何も答えられなかった。ぼんやりした頭の中。朧気な景色が交錯する。夢か現か。まだ俺の脳は判断を下しかねているようだった。
  黙ったままの俺に、ゆっくりでいいと告げてから新羅は話を始めた。俺が二週間もの間眠っていたことや、その間に起こった出来事。非常にたわいもないありふれた世間話だ。相槌を加えつつ俺はそれに耳を傾ける。そうしながらも頭の整理は続ける。ああ、そうだ。新羅のその言葉に俺は注意を向けた。
 「この間臨也から電話があってね。それが奇妙で。達者でやれだとか、お幸せにだとか、あいつらしくもないことだけ一方的に言って切れちゃったんだよ。ハハッ、驚いたよ。まさかあいつが俺のことを親友なんて言う日が来るなんてさ。」
  その語尾が明らかに震えていることを俺の耳が聞き逃すはずもなかった。頭に引っかかったものがとれそうな気がする。俺は必死になって声を出そうとしたが引きつれた音しか喉は出してくれない。

 「君が生きていてよかった。親友を二人も失ったら僕は、」
  新羅が俺の手を握った。温かい手だ。真っ白で冷たい、臨也のものとは違う。夢の中で握ったあの手の感覚。

 ――そうだ。臨也は、

  俺は目を開く。見えない目が映すのは過去の光景。臨也が俺を見る。俺は臨也に手を伸ばす。臨也は俺にナイフを突き立てる。俺の目に臨也がナイフを突き立てた。そして俺は暗闇の中で腕を振るい、持っていた標識で臨也をーー

  感覚はまだ手の中に残っている。吐き気がするほど鮮明な景色が瞼の裏に広がる。
  震える声で俺はその名前をもう一度だけ呼んだ。

 「臨也は、俺が殺した。」

  最期に見た臨也の顔は、俺が二度と見ることもないほどの幸せに満ちていたことが唯一の救いかもしれない。
  見えない目が流した涙は何色だったのだろうか。