玄関の扉を開けるとそこは異世界だった。
「…。」
たしか俺の部屋は古風な、といえば聞こえはいいが実際のところ壁は薄く窓枠は外れかけ、古い畳の匂いに満ちた俺には少し狭いなんの変哲もない茶ばんだ四畳半だったはずだ。
「あ、おかえり。」
色、色、色に溢れ返る部屋の中央に頓挫する黒髪が声を発した。
「どうよこれ。」
満足げに赤い目が細められる。ぐるりと室内を見回してようやくその色の正体に気づき俺は困惑した。床にも壁にも果てには天井にまで服が掛けられていたのだ。
「いやぁ、苦労したよ。」
嬉しそうにそう言う臨也の意図はわからないが確実に良からぬことを考えている。この光景の発生源である黒を睨むとそいつは突然立ち上がった。
「さぁ、どうぞ!」
手を大きく広げ真っ直ぐ俺を見る。脊椎反射も出来ずに俺が固まっていると、臨也は同じ言葉を繰り返した。
「さぁ!」
「何がさぁ、だ。」
「今週の俺はサービス精神の塊なんだよ。」
「はぁ?」
そう言うと臨也はおもむろに足下の服を何枚か取り上げた。
「セーラー服、スク水、ナース、ミニスカポリス、この部屋にあるのなら何でもいいよ。」
「待て、何の話しだ。」
「コスプレしてあげるって言ってんの。」
眉目秀麗を自負する俺としてはやっぱり一番は全裸なんだけど、毎回毎回同じじゃあマンネリ化がどんどん進んで世間一般でいう停滞期なんてことになるかもしれない。俺にとってそれは望むところではないしシズちゃんにとってもそうだろう?
「俺たちは恋人同士だからね。」
臨也は一息にそう言い放つと手に持っていた服を床に置き笑顔を崩さないまま俺の方に近付いてきた。腰辺りに回される手の感覚に俺は頭を抱える。たしかに俺たちは恋人同士だが、はたしてそれとコスプレに関連性はあるのだろうか。あーとかうーとか文字にすると間抜けな音を発しつつ俺は臨也を見る。
「さぁ!」
こいつのことを初めて怖いと思った。爛々と輝く赤い視線に耐えきれず上を向くとそこには俺のシャツが掛かっていた。
「お、それに目を付けるとは流石だね。」
「それって、ただの俺のシャツじゃ、」
「ただの?なんだ全然わかってないじゃないか。」
わかりたくもない。臨也は俺のシャツを手に取り俺に突きつけながら話し始める。
「彼氏のシャツ、略して彼シャツは萌え要素的には初歩の初歩じゃないか。」
「知らん。」
「わかりやすくジョジョ的に言うと波紋を使った呼吸法を覚えるくらい、」
「知るかあああッ!」
襟首を掴んで服の海の中に臨也を放り込む。色彩の中に投じられた黒は大袈裟に身をよじった。
「痛い!」
「俺は頭が痛い。」
「そんなに悩むんなら全部着てもいいよ?」
「もうお前帰れ!」
なんて話の通じない奴なんだ。これが噂のKYってやつか。いやむしろこいつは空気の存在さえも知らないんじゃないか。叫んだ後、頭を押さえて大きく溜め息を吐くと、突然臨也の顔が曇った。俺のシャツと膝を抱きかかえ背中を丸める。
「シズちゃんは俺のこと嫌いなんだ。」
どうしてそうなる。飛躍した思考に付いていけず俺はただ臨也を見つめる。潤んだ瞳はこちらではなく床に無秩序に広がる色の海を見ていた。
「俺はシズちゃんとずっと一緒にいたいから、少しでも喜んで貰えるようにって。」
段段と声が掠れていく。どうも胸の奥がもやもやして居ても立ってもいられなくなり、海をかき分け臨也の側に屈む。無理矢理視線を合わせるように下から覗くと臨也は真っ白なシャツに顔を埋めた。
「もういい、いいから。」
要らないなら。その臨也の言葉が終わる前に俺の声で遮る。
「好きだ。」
距離を保ったまま俺は言った。目の前の単色の男の隣に座る。同じように膝を抱え周りを見渡してみてもこの黒ほど心地よい色は見つからない。膝に頭を載せ、無言のまま隣に顔を向ける。赤い瞳がこちらを伺った瞬間に視線でそれを捕らえる。
「そのままがいい。」
俺だけにしか変化のわからないその単一的な色がいい。ふとした時にどうしようもないくらい綺麗に見えるその色がいい。目を合わせたまま呟くと、臨也は口を閉じたまま頬に朱をさした。
黒髪に触れる。臨也が何か目で訴えてきたが俺は気付かないふりをして首を傾げた。口を何度も開いたり閉じたりしてから臨也はやっと声を出した。
「俺、も好きだ。」
少しだけ頷いて臨也の肩を引き寄せる。俺の目には黒しか映らない。
「でもさ、」
赤い目がこちらを向く。
「彼シャツは5割増し、」
「やっぱ帰れ、お前。」
言葉とは裏腹に臨也はシャツを放り出し、俺は臨也に顔を寄せる。未だ広がる服の海はもう俺たちに干渉しようとはしなかった。