「つまり言うところの、俺たちは恋人同士ってことだな。」

 大量の本と埃にまみれた部屋で古びたソファの端に腰掛けたまま男は呟いた。その言葉の前後に脈絡はない。もう一端に座った俺はただ本のページを捲る。音の響きが天井に届くよりも早く、また男が口を開く。

 「俺はお前のことが好きだし、もちろんお前は俺のことが好きだ。」
 淡白な文字列から男の顔に視線を移すとなんとも満足げな表情をしていた。
 「そうだろ、折原。」
 「どこからその自信が生まれたんだ。」
 「うむ、扁桃体かな。」
 「母胎から出直せ。」

 どうもこの男といると調子が狂う。もう随分昔のことだが、こいつの誘いに乗ったことを忘れたくなる時がある。チャットルームから伸びてきた手を掴んだが最後、ずるずると引きずり込まれ俺は戻れなくなってしまった。 古書の甘い匂いが思考を鈍らせる。本を閉じて俺は頭をソファの背に預けた。仰ぎ見た天井には見馴れたシミ。初めて見たときは顔か何かに見えると思ったが、今となってはつまらない例えだ。それこそ隣にいる男が人ではないというくらい。

 「九十九屋。」
 「あぁ、俺も好きだぞ折原。」
 「あんたが人じゃなければいいのに。」
 こいつが人である限り、俺は愛さなくちゃいけない。もしもそうでないならきっと俺は唯一俺に愛を囁いてくるこの男に他の感情を抱くことが出来るのに。
 金属の触れ合う音の後に、肺を濁らす嗅ぎなれた匂いがした。天井のシミを紫煙が覆う。

 「俺は人だけど人間じゃない。ヒトだけどそれを自覚する気はない。どこまでも俺には人として死ぬという自信があるし、人間としての関連性もヒトとしての義務も果たす気はないよ。」
 まるでパラドックスのような言葉が煙とともに頭上を巡る。年寄り臭い銘柄の煙草の空箱は俺と男の間に居心地悪そうに座っていた。
 「馬鹿馬鹿しい。」
 「そうか?まぁ俺が何であろうがお前は俺を好きだからいい。」
 「いつ俺がそんなことを言ったんだ。」
 「口に出さなくてもわかることはたくさんある。」

 たとえば?そう尋ねてみようかと俺が口を開いたとき、床に非常に軽い何かが落ちた。そして頭を持ち上げる暇もなく大変重い何かが俺の膝に乗り上げてきた。
 「お前の太ももは硬い。」
 「それこそ言わなくてもわかるだろ。」
 「もっと食え、ってのは言わなきゃわかんないけどな。」
 いらいら。今、俺に効果音を付けるならこうだ。対照的ににやにやと膝の上の男は俺を見上げる。

 「好きだって言ってくれても構わない。」
 「絶っ対言わない。」
 「可愛いなぁ、お前は。」

 床に落ちた煙草の箱は潰れてしまっている。部屋には男の笑う声が響くばかりでひどく空虚だ。

 「お前は俺を好きでいればいい。」
 今日になって一度も換気をしていない部屋は曇っている。俺は目を細めた。

 「俺はお前を愛してやる。」

 急に伸びてきた腕に首が引き寄せられ、意図せず男の上に覆い被さるような体勢になる。この男の笑った顔は嫌いではない。

 「お前なんか嫌いだ。」

 口にした言葉は笑ったままの男の目に飲み込まれていく。本当にこの男といると調子が狂う。さらに引き寄せられて呼吸が混ざる。
 光彩までもが黒い男の目には俺しか映っていない。

 「まぁ、愛されるよりはましかな。」

 もう俺は戻れはしないのだ。理性と相反するようにつり上がる口角に気付いて俺は悟る。この男の存在は矛盾している。俺にとってこいつは、

 「考えるな。」

 口腔内に煙草の苦味が広がる。苦しくて目を瞑れば四肢までも男に支配されてしまったような感覚に陥る。頬に指先が触れた。

 「九十九屋。」

 切れ切れになった呼吸の合間に名前を呼んでも男は返してはこない。ただ愛を囁くだけだ。もうなにもわからない。
 俺はいつからこいつの物になったのか、という疑問にたどり着いたのは脳までも支配されてからだった。