テレビの音に紛れて聞こえるか聞こえないかくらいの音。控えめなノックは二度きりで、ドアはそれ以降静けさを保っていた。
 風の音か、それともいたずらか。六畳一間の古びた部屋で俺はただぼんやりとしていた。再度繰り返されることも無いその音がかえって気になって、俺は忙しないブラウン管から目を逸らし立ち上がった。

 「…、臨也?」

 ちかちかと点滅する蛍光灯の下、うずくまる見慣れた背中。冷たい風から身体を守るためにコートの中に縮こまるその情けない姿さえも可愛く思えるのは惚れた欲目か。
 俺が声をかけると、臨也はゆっくりと頭をもたげる。俺は思わず息を呑んだ。いつもは強気な恋人が想像していたより随分と情けないをしていたからだ。
何も言わずにじっとこちらを見つめるばかりの臨也の腕を掴んで部屋に引っ張り込む。そのままドアが閉まるのも待たずに抱きしめると、その身体の冷たさが俺にも伝わってくるのがわかった。

 背後でドアが閉まる。

 臨也は何か言いたげに俺を見たが声は出さなかった。
 「来るなら先に言っとけよ。」
 「うん。」
 「お前飯食ったか。」
 「うん。」
 「寒かっただろ。」
 「…うん。シズちゃん、あのさ、」
 「どした。」
 「ごめんね。」
 そう言いながら臨也は俺にしがみついてくる。二人の間の僅かな距離さえも無くしてしまおうとしているみたいだ。そう思った瞬間に胸の辺りがぐっと詰まった。

 「ごめん。」
 きっとこいつは下らないことでも考えているんだろう。自分が俺の側にいてもいいのかだとか、自分は愛されない存在のはずなんだとか。かつて自嘲するようにこいつの言っていた言葉を思い出した。そうだあの時俺はこいつのあの笑顔が吐き気がするほど嫌いだと思ったんだ。
 目線を少し下げると左巻きの旋毛が見えた。表情は隠れてしまっているがあの時のより確実に今の方がいいだろう。
 そう思った途端に俺の中に何かが湧き上がった。

 (どうしよう。)
 こいつが真剣に悩んでいるということはわかっているのに俺はなぜだか嬉しいとさえ思っていしまったのだ。

 この男は他人に頼らない。自分が他とは違うとわかっているから。自分の弱みは普通の人間には見えないし触れられないということを知っているのだ。それは自身を『化け物』だと認めていることでもある。非日常の中で呼吸しそれを受容して一人で立つ男の背中のの脆さに気付いた奴は本当に少ないのだろう。

 だからそんなこいつがここに来たことについて俺はちょっとぐらい自惚れてもいいんじゃないだろうか。
 うつむいたままの頭の上に顎を載せてみた。冷たい髪が頬に当たる。背中に這わせていた手をそのまま上にスライドさせて髪を梳いてやると臨也は小さく息を吐いた。こいつは嘘ならいくらでもでっち上げて並べ立てるくせに肝心なこととなると口を閉ざす。
 (それでもいい。)
 言えないほど辛いことがあった時でも、口を開きたくないほど疲れた時でもこうして体温を分け合えすればいい。そうすることで俺がこいつの依り代になれればそれでいいのだ。
 (それにこいつ抱き心地いいし)
 少し骨張っているが身長的にもちょうどいいサイズだ。それを臨也に言うとしばらく口を利いてもらえない位には怒られるが。

 ようやく温まってきた臨也の首筋に触れる。ふと耳の後ろについた赤い痕が目について俺の体温はまた上がった。少し前につけたそれがまだ残っていたことになにやら感動さえ覚えていたのだ。

 あー。無意味に声を上げてみる。しかし臨也は無反応だ。それをいいことに腰に手を回すと僅かに臨也の肩が揺れた。それさえ愛しくてにやけそうになる顔を押さえた。
 「俺、お前のこと好きだ。」
 本当に。にやけたままの顔を臨也の右肩に埋めると嗅ぎなれた匂いがする。あー、と声を出してから自分の変態臭さに笑った。

 「とりあえずお前は俺のことだけ考えてろよ。」
 それで俺と同じように苦しいぐらい頭の中を埋めてしまえ。
 臨也は何も言わずに俺を見た。緩んだ俺の顔を見て、ばかじゃないのと吐き出した口元はさっきよりも柔らかくなっていた。
 「今さらだよ。」

 その声は俺だけにしか聞こえない。