逃げる臨也を追いかけるのは俺のライフワークの一つと言っていい。
 それがたとえ害虫駆除であっても理不尽な苛つきの解消であっても、むしろ名目なんて無くてもこれは俺の日常の一部なのだ。

 だが例外というものはどこにでも存在する。

 今日も今日とて俺たちは入り組んだ街並みを駆け抜ける。
 しかし今回だけは様子が違う。
 きっと人々が目をそらす理由もいつもとは違うのだろう。
 俺の前には誰もいない。臨也の前には俺がいる。
 遁走するのは俺の方で、追う男の目は爛々と輝いている。
 「待てよシズちゃん!怖くないったら!」
 臨也はスカートを振り乱し走る。きらきらと光を放つようなピンク色のワンピース。大きなリボンとたくさんのフリルがあしらわれたそれを着ているのがこいつでなければどれだけ嬉しかったか。目の保養にもならないほどの細く白い脚を動かして俺に迫ってくる姿はまさに天使の格好をした悪魔。

 「ペアルックぐらい恥ずかしくないだろ!だって俺たちは恋人同士なんだから!」
 事実は事実として受け止めなければいけないが、それにしたってあんまりだ。
 「俺はお前が好きだけどな、お前のその格好は好きじゃねえ!」
 「やだな照れるじゃないか。俺も好きだよ、俺が。」
 「話ぐらい聞きやがれ!」
 「シズちゃんがメイドさんになってくれたら考えなくも、ないよ!」
 叫び声に混ざる呼吸音が時間の経過を物語る。臨也の家にある、腹が立つほど心地よいシーツに身を沈めていた今朝
 が恋しい。なぜこいつが突然こんな奇行に走ったのか、そして俺たちがなぜいつまでもこんな馬鹿馬鹿しいことを続けているのか。謎は謎のまま俺の頭を通過して風とともに去っていく。
 車の行き交う交差点もなんのその。車を避ける方が臨也を撒くよりも簡単だ。乗用車の向きを変えるぐらいなら片手で事足りる。トラックが来なかったことは幸いだ。今は無駄な体力を使うわけにはいかないのだ。俺はただ真っ直ぐに道路を横断していった。後ろの臨也は器用に車の背を蹴って走っている。速い。ふわりとスカートが翻るのに目を奪われていた俺ははっとしてまた駆け出す。笑顔が間近に迫ろうとしていた。

 舌打ちしたくなるほどにまずい状況だ。
 周りは人垣で、逃げるにしても体格から考えて俺の方が不利だ。それに今の臨也の格好を見て避けない人間などいないだろうということも含めれば俺の敗北は目に見えている。
 (どうしてこうなった。)
 背中がじとりと湿っているのを感じる。同時に今朝の光景が頭を過ぎって血の気を奪っていく。
 あれはなんともひどい景色だった。口舌に尽くしがたいとでも言おうか。爽やかな朝の空気と心地の良い倦怠感に包まれ微睡んでいた俺の前に火蓋は切って落とされた。
 「さぁ萌えろ。」
 そう言わんとばかりに自信満々にシーツの上に影を落とす男の姿に、俺は驚きを越えて呆気にとられていた。
 立ち上がり、慌てて服を着る。この際靴下なんてどうでもいい。裸足を靴に突っ込んだと同時にドアを開いて転がり出すと、余りに外は明るく眩しかった。後ろを向いても前を向いても俺の目に飛び込んでくるのは鮮やかすぎる景色だけだ。
 背後に迫るピンク色。その片手に全く同じデザインのワンピースが握られていることに気が付いたのはそれからしばらく。今から数えてほんの3時間前のことである。

 「何が嫌だって言うんだい。」
 不満げに眉を顰めて臨也は立ち止まった俺の前に降り立った。一定の距離を保ちつつ俺は交渉を試みる。
 「何がお前をそうさせてるのか教えろ。」
 「本能の赴くまま、シズちゃんの望むままさ。」
 「俺がいつそんなこと、」
 「言ったじゃないか!」
 思い当たる節はない。ないはずだ。臨也に聞き返してみるがむくれたままこちらに視線さえくれない。いい年をした大人が頬を膨らませている光景なんておぞましいものでしか無いというのに。一瞬でも可愛いと思ったのは脳がピンクに犯されたせいだと結論づけて、俺は再び自問する。
 「俺が、言った?」
 臨也がおかしくなったのは(こいつがおかしいのはいつものことだというツッコミは今は抜きにして)今朝からだ。
 (何かあったとすれば昨日の晩か。)
 昨日は仕事が終わってから臨也の家に行って、臨也が用意してたワインと俺の作ったちょっと豪華な、いかにも金曜日らしい食事なんかして。それからテレビ見て二人でぎゃあぎゃあ喧嘩しながら風呂入って、それから、
 「あ、」
 「やっとわかったかい。」
 臨也は不機嫌そうにこちらに目を向ける。剣呑そうな光を宿したその視線に居心地悪く俯いて、俺は自分のふがいなさを悔いた。わかってる。そう一度口の中で自身に言い聞かせるように呟いてからまっすぐに臨也を見つめる。
 「わかってんだよ、俺じゃお前を満足させられねえってのは。何を言ったって経験不足は、過去は変えられねえしな。かと言って他の奴で練習すんのも、」
 「いや、そういう話じゃないんだよ。というか夜には満足してるし。」
 「・・・。」
 「照れないで。趣旨がずれるから。」
 唯一思い浮かんだ道を封じられた俺はただただ黙って首を傾げる。何かしてはいけないことをしただろうか。長い付き合いだ。臨也の嫌がることも怒ることも把握していると思っていたはずなのに。
 「ヒント、俺。」
 「わかるか!ヒント、」
 「じゃあ、君の変態的性的嗜好といえばわかる?」
 「へんた、」
 「あれ、本当に何も覚えてないんだ。」
 困ったなぁと臨也はわざとらしく腕を広げ、それに従ってリボンが揺れた。
 ふわりふわりと俺を惑わせるような動きで黒とピンクのコントラストが踊る。バックの人混みは見えもしない。それがとある光景と重なって、まさかと俺は頭を抱える。
 「一つ聞いていいか。」
 「どうぞ?」
 「怒ってるだろ。」
 「さてね。君の目の前にある景色をよく見るといいよ。」
 すばらしい笑顔だ。額に浮いた汗を拭うこともできず俺は頬をひきつらせる。過去に戻れるならどれだけいいか。昨日の穏やかな甘さがひどく遠い。そう感じさせるのは心にわだかまる後悔と目の前の男のぞっとするほど美しい笑顔のせいに違いない。

 「俺は、君が、何を嫌おうが何を愛そうが一向に構いやしないよ。でもさ、君が、俺以外のものを、好きだと言うのにだけは我慢がならないんだ。ねえシズちゃん。俺は、何度、君に、この言葉を言えばいいんだい?」
 まるでこの世界には俺とお前の二人だけいればいいのだと脳裏に刻まれている気分だ。一言一言明確に区切りながら臨也は俺に言い聞かせる。軽やかな足音。許しを請うも白い肌は冷たく俺を跳ね退ける。湿った手のひらをズボンに押しつけながら地面に視線を向けた。しかしそれで逃れられるわけもなく現実は回り込み俺の視界を埋め尽くす。
 「ほらシズちゃん。何か俺に言うことがあるんじゃない。」
 街の喧噪など元より耳に入っていなかったのに、心臓の音とともに急に騒ぎだしたそいつにますます気持ちは焦っていく。
 「とんだ言いがかりじゃねえか!っていうか可愛いもんを可愛いって言って何が悪いんだよ!」
 「君のそういうところが俺は嫌いだよ!この浮気者!」

 事の起こりは昨日の夜。居心地のいい部屋と美味い肴とで二人でそっくり一瓶ワインを空けて、臨也も俺もほろ酔いで柄にもなくじゃれあったりして、まぁつまりはそういう雰囲気になったわけだ。
 一緒に風呂に入って出るまではよかった。馬鹿みたいに騒ぎながら背中の擦りあいしたり湯船で二人向かい合ってくすくす笑ったり、それはもうそこらのバカップルも真っ青なほど俺たちは阿呆のようにお互いばかり見ていたから、そこまでは本当に良かったのだ。
 しかし問題はそこからだ。
 何が悪いか。
 そんなもの決まっている。
 テレビだ。世にはばかるこの風潮だ。くだらない情報を流すだけならこの世からなくなってしまえ。

 点けっぱなしのテレビから流れていたのは音楽番組だった。俺は臨也の髪を拭いていた。俺と同じ匂いがすると、なんとなく高揚した気分になったのを覚えている。
 そのあと確か臨也が何か言って、俺はそれを見たのだ。
 たった一言。それが今日の平穏を壊した。
 「ああ、可愛いよな。」

 アイドルなんて嫌いだと、弟の手前口に出せやしないが今俺は心底そう思っている。よく考えれば俺は悪くない。でも怒りの矛先は俺だ。
 「というか、お前があれ誘導したんじゃねえのかよ。」
 「別に、俺は何も言ってないし。ただ、見て、って言っただけだし。」
 「それを誘導って言うんだよ。」
 「じゃあシズちゃんはアレ見てって俺が言ったら何にでも可愛いって言うんですかー!自販機にも発情できるんですかこの変態!」
 「自分で言ってて馬鹿みてえだと思わねえのか。」
 「うるっさい!自分でもわかってるから止められないんだよ!シズちゃんのばーか、色情魔!」
 ついにナイフを取り出し臨也が襲いかかってくる。なんだかいつもとキレが違う気がする。まさに可愛さ余って憎さ100倍ってやつだろうか。悠長なことを言っている場合ではない。俺は慌てて臨也の攻撃をかわし、程良い距離を保ちながらどうにか解決できないかと策を練る。俺があの格好をしたって根本的な解決にはならないだろう。しかし単に謝ったところであいつの気が済むとも思えない。
 「臨也、頼むから落ち着け。」
 「落ち着いてられるもんか。俺は馬鹿になるほど君のことが好きなのに君はちっともわかってくれない。俺だって、俺だって!」

 リボンが揺れる。赤い目が揺らぐ。
 (俺だって、)

 俺はもう限界だった。
 朝から何も食べていないせいもあって頭がくらくらする。臨也の言葉は空きっ腹には毒だ。目に溜まった涙さえも舐め取りたいと思えるくらいに俺の頭はいつの間にか毒されていた。

 俺は走る。
 とっさに臨也が俺の腹にナイフを突き立てたがそんなもの効くはずもない。突然の俺の行動に臨也が小さく悲鳴をあげた気がするが聞こえなかったことにする。
 俺よりも小さくて細い身体を壊さないように力一杯抱きしめながら俺は臨也だけに聞こえる声で言った。
 「お前が一番可愛い。もう他の奴なんて見ねえから、な?」
 「シズちゃんのばーか。」
 「お前が馬鹿なら俺も馬鹿でいい。」
 「俺は君のそういうとこが嫌いだよ。」
 「そうか。俺は好きだ。」
 うつむいた臨也の項の白さだとか、この体温だとか、俺だけが知るこいつが可愛くて仕方がない。
 「朝ご飯食ったら二度寝しようぜ。」
 「え、このワンピースは着てくれないの?」
 上目遣いに見られては首を横に振ることなんてできなかった。ぐっと息を呑んで、俺は絞り出すように呟いた。
 「・・・二人っきりの時ならな。」
 「じゃあ今日はずっと着ててよね。」
 どうやらまだ許してもらえはしていないらしい。がっくりと頷けば無邪気な歓声があがる。
 仕方ない。可愛いは正義だ。
 溜め息とともに笑いがこぼれて、やっぱり俺は馬鹿なのだと肩を竦めたのだった。