静かな部屋に紙をめくる音が響く。
英語の辞書を捲っては単語を紙に書き連ね、あと残りはどれぐらいだろうと確認するたびペンのスピードが落ちる。
顔を上げると、ちょうど寝返りを打った背中が見えた。少し前に風呂から戻ってきてすぐに寝入ってしまった同室の男は安らかに寝息を立てている。まだ消灯時間まではしばらくあるが、きっと今日も張り切って練習をしたのだろう。先週のレースで何度目かの負けを食らって以来、これでもかと練習量を増やしているクライマーの背中を荒北は黙って見つめていた。本来なら同じ課題を出されている者同士協力してやればいいと思うし、それに期限ギリギリになって向こうが泣きついてくることだって想定できるのだが、どうにも荒北が東堂を起こしかねているのは、彼が最近あんまりにも楽しそうに自転車に乗っているのを間近で見ているからだった。
開け放したままの窓からは心地よい風が吹き込んでくる。まだ九月の頭で暑いとはいえ、段々と秋が近付いてきているのだ。くしゅんと東堂がくしゃみを一つした。そろそろタオルケットでは寒いんじゃないかと思いながら、荒北は持っていたペンを置き静かに立ち上がって窓の方へ歩み寄る。
閉める前に少しだけ外を眺めてみる。二階のこの部屋からはあまり遠くは見渡せないが、箱根の山々の間で月が柔らかい光を投げているのが見えた。
荒北はふとある光景を思い出す。夏の強い日差し。今の景色とは対照なほど明るくて、目が痛むほど天気の良かったあの日のこと。
(あれからまだ一月も経ってねえのか。)
荒北はわずかに瞑目する。
瞼の裏に二つの景色が過った。夏の目に痛いほど澄み切った青空と、薄暗い部屋の中でわずかな明かりに光る金髪。どちらも美しい光景だ。けれどもそれは今の荒北にとってはひどく苦々しいものにしか思えない。あの日からずっと彼の瞼に青と黄色がこびりついて離れないのだ。窓の縁に引っかけていた指を持ち上げて、ぐしゃりと髪を掻き乱す。温い風が頬を撫でていった。無意識に沸いた舌打ちが思ったよりも響いたのにそっと後ろを振り返ってみるが、隣のベッドで眠る男はまだ当分目覚める様子はなかった。
荒北は音を立てないように窓を閉めると、テーブルの前へと戻る。やりかけの課題は幾分も消化されないままである。開かれたままの教科書やノートを押し退けて、その下敷きになっていた一枚の紙を引っ張り出す。何度も取り出してみては戻してを繰り返しているものだから、それはわずかに手の跡がついてよれてしまっていた。
『明日からの部内レースにはお前も参加しろ』
監督は今日、荒北にそう言ってこの紙を手渡した。入部してから一年と半年ほど、しかもそれまではロードレーサーという言葉すらも知らなかった初心者がたったそれだけの期間で天下の箱根学園自転車競技部のゼッケンを争うことが出来るなんて前代未聞のことだ。ライン取りはまだまだ安定しないし、それに自らの身を投げ出すようなライディングはあまり誉められたものではないが、しかしその鋭い走りは部内の並みいる実力者たちでさえおののかせる力を持っている。それは今まで彼がひたすら一人で走り続けてきた結果に他ならず、つまりもはや周りが荒北のことを認めざるを得なくなったということなのだから彼は喜ぶべきなのだ。
しかしながら荒北が浮かべる表情は複雑なものだった。血の沸き立つ感覚は確かに腹の底にあるのだが、それでも一点の懸念が彼の心を淀ませてしまっている。
手渡された紙にはそっけなく名前欄と、それから選択したレース組を書く欄だけが記されていた。
『荒北、明日までにどっちか選んでおけよ。』
『どっちって、』
戸惑いを隠しきれずに聞き返した荒北のその言葉を監督は視線だけで制すると、言いたいことはわかっている、といったふうに大きく頷いて、それから重々しく口を開く。
『場合によっては、あいつの代わりにお前が走ることもありうるってことだ。』
A組かB組か、明日の午後までに決めろ。そう言って監督は言葉を切った。それ以上何も言う気はないし、荒北に反論の余地すら与えないという調子だった。
一瞬足下がぐらつくような感覚を荒北は覚える。今まで『当然』だと思っていたことがそうでなくなったことに、そこで彼は気が付いたのだ。
監督のその台詞があるまで、荒北はずっと部内レースに参加することになったらB組にエントリーしようと思っていた。
B組で争われるゼッケンナンバーは2番、つまりエースアシストの座である。エースの行く手を遮るものをすべてなぎ払い、時には自分の身を挺して彼を守る役割。この番号は、エースに劣らないクライム能力やスプリント能力はもちろん、総合的なアベレージの高さやまた駆け引きのうまさも必要とされるため、主にオールラウンダーが背負うことが多い。
荒北はそれまで『当然』自分がそのゼッケンを穫るためにB組へ入るだろうと疑っていなかった。わずかにクライマー寄りであるとはいえ、彼は入部当初に適正をみた時点からオールラウンダーであることは明確だったし、それに駆け引きのやりかただって多少危なっかしくはあるが、天性のものがあるらしく、抜く、刺すのタイミングは時折福富にすら息を飲ませることがある。次の夏までに荒北がどれだけ伸びるかはまだわからない。しかし回し続ける限り、荒北は伸び続けるだろう。荒北自身もそれを確信していて、だからこそ彼はB組を選ぼうと思っていたのだ。時期エースとして走るであろうあの男を支えるために。荒北に走るきっかけを与えた男と共に走るために。
それは荒北にとって『当然』のことだった。彼にとっての走る目的と言ってもいい。けれどもあの日から、インターハイ二日目のあの事件がそれを揺るがせてしまった。
薄々と感じていた予感は監督の言葉ではっきりと形を持って荒北の目の前に突きつけられる。
『もしかしたら福富は来年のインハイには出ないつもりかもしれない』
部内で密やかに囁かれ始めたそんな噂をはっきりと否定できないことが、今の荒北にはひどく苦しかった。
***
「福富。」
ノックをしてそう声を掛けると、中で人の動く気配がした。思わず手に持っていたノートを握りしめる。平生から返事が無いときには入ってもいいというのが暗黙のルールとなっていたのだが、どうにも入りにくくて荒北が立ち尽くしていると、少ししてドアが開いた。
「入らないのか。」
「いや、あー・・・寝てたら悪ィなって思ったんだヨ。」
「いつもそんなこと気にしないだろう、お前。」
「っせ、俺だってたまには気ィ遣うっての。」
そう言ってもなお荒北はそこで立ち止まったままで、しばらくして痺れを切らした福富が入るなら入れと言ってからやっとのろのろと足を動かしたのだった。
部屋は明るくて、薄暗い廊下から入ってきた荒北にはやたらと眩しく見えた。机の電灯が点いているところをみるとどうやら福富は荒北と同じように課題をやっていたらしい。福富が脇を抜けて自分のベッドに腰を下ろすのを、荒北はぼんやりしながら眺めていた。
部屋には今二人しかいない。
反対側のベッドの主である新開は、夏前からずっと消灯間際にならないと寮にすら戻ってこないという生活を続けている。何があったのか、荒北は知らない。福富は知っているのだろうが、きっと聞いたところで教えてはくれないだろうし、新開に直接聞いたって答えはしないだろう。
けれども新開はきっと戻ってくるとわかりきっているから、荒北は彼に関してはさして不安に思ってはいない。
だってそう福富が言ったのだ。
「あいつは戻ってくる」と言ったその顔に迷いが一欠片も無かったから。新開が抜けて荒北はやはり少し不安に思ったが、その言葉があってからはもう疑うことは無かった。次のシングルゼッケンを担うメンバーの一人に新開がいるだろうということを。
しかし同時に、今、それに「ただ」という否定の言葉が付くことも荒北は知っているのである。
「辞書、借りようと思って。うっかり教室に忘れて来ちまったんだヨ。」
聞かれてもいないのに荒北はそう言い訳してから机の方へ近付く。そちらをちらりと見ると、福富はベッドに腰を下ろしてどこか遠くを見つめていた。目はひどく虚ろで、その下にはひどい隈が見える。こんな表情をする男だっただろうか、と荒北はぐっと息を詰めた。
福富のその顔が、ふとある日の光景と被った。それはインターハイが終わって間もない、まだ八月のある夕方のこと。練習を終えて戻ったロッカールームで荒北はその光景を目の当たりにしたのだ。
(あの時も俺は何も言えなかった。)
ずっしりとした辞書を手に取って、それからローテーブルの前に腰を下ろした。ノートをその上で広げると、福富がちらりとそちらを見て「ここでやるのか」とでも言いたげな視線を投げてきたが、荒北はあえてそれを見なかったことにして構わず辞書を開く。二人とも何も言わなかったから、部屋に響くのは紙をめくる音ばかりだった。
文字に視線を滑らせながら荒北は思い出す。
あの日練習を終えて荒北が戻って来た頃には、もう部活は終わっていてロッカールームは薄暗かった。日は落ちかけていて空の色はほとんどが紺に覆われている。ちょっとやりすぎたかな、と荒北は思いながらドアの前に立っていた。きっと口うるさいマネージャーにまたかとお小言をもらうことになるだろう。個人練習はいいけれどミーティングには、せめて部室が開いている間には帰ってこいと前日に言われたところだったからさらに荒北の気は重かった。しかし驚いたことにドアノブは案外あっさりと回った。おいおい不用心だなと眉を寄せながらも荒北は汗だくのまま寮に戻らなくていいことに少しほっとして、部屋の中に踏み込んでいく。
数歩進んでから荒北は立ち止まる。いや、それ以上動けなかったと言った方がいいかもしれない。息を飲んで彼が見つめていたのは、今と同じように、疲れきった顔で空を見る福富の姿だった。
「福富、」
そう呼んでみたものの荒北はまだ何を言えばいいか決めかねていた。左手で辞書のページをめくってはいるが言葉は何も頭には入ってこない。あの時本当なら彼に何を言うべきだったのだろう。自分がもし、それを口に出してもいい立場だったなら。もし自分がインターハイを応援するためでなく、選手として参加してあの空を見ることになっていたなら。それは荒北にとって苦い記憶だ。今年のインターハイの明るすぎるほど晴れた空を思い出すたび、頭を掻きむしりたくなるような思いに駆られる。そしてそれと同時に思い出される薄暗いロッカールームの光景は、現れるたびに荒北に後悔を覚えさせるのだ。
(もしも俺があのインターハイに出ていたなら、)
もし、という仮定に意味などない。あの時こうしていれば、という思いは脚を鈍らせるだけのものだ。しかしそれでも荒北がこの一月そう思わずにはいられなかったのは、なぜだろう。もう後悔なんて二度とするものかと決意したはずなのに、その思いが締め付けるような力を持って彼を支配していたのは。
(俺はこいつに何をしてやりたいんだろう。)
荒北はページを捲って、ある一つの単語に目を留める。それは一つの答えの形だった。その文字列を指先でなぞって、そっと胸の内で呟く。あの時言えなかったことを今なら言えるだろうか。言っても許されるだろうか。
荒北は顔を上げて、それからもう一度福富を呼んだ。男がこちらに焦点を合わせるまでじっと待っている間、喉がどんどん乾いていくのがわかった。
「俺、明日から部内レース参加すっから。」
そう言うと、福富ははっと弾かれたように荒北の方を見て、そうか、と少し上擦った声で言って頷いた。それ以上何を言えばいいか迷っているように、口を開きかけては閉ざす。荒北は右手に持っていたペンを机の上に投げ出して立ち上がり、ベッドの方へ歩み寄る。
「監督によ、AかBか選べって言われた。」
福富は何も言わなかった。無言で向けられた視線は、荒北に話の続きを促している。ベッドに腰掛ける福富を見下ろしながら、荒北は乾いて掠れた声のまま言う。
「俺ァエースなんかには興味ねえ。確かに目の前のもん全部突っ切って走ってくのは気持ちいいだろうけどよォ、けど俺は別にそんなことの為に走ってるわけじゃねえんだ。」
部屋の明かりのせいで荒北の顔には影が掛かっていて、福富にはその表情はよく見えない。だがその語尾に残った震えは耳に届いて、彼の息を殺した。荒北は泣いているわけではなかったし、それにその声は極端にはっきりとしているわけでも落とされているわけでもなく、ほんのわずかに掠れている他はいつもと変わらないものだった。
荒北が福富の肩を両手で掴む。強くもなく弱くもない、もし言うならば、縋るような、という表現が一番近いかもしれないような力加減だった。荒北は俯いて、一度強く目を瞑ってから口を開く。
「お前が走らねえなら、俺は降りる。」
お前と走るためにここまで俺はやってきた。何も持っていない、空っぽだった俺にお前がロードを与えてくれたから。その隣に並んでみたくて、お前の見ている景色が見てみたくて。
「俺の走る意味が無くなっちまうんだよ。」
そこまで言って荒北は息を一つ吐いた。
福富は動けずにただじっと彼を見つめる。身を投げ出すような、自分の全部をくれてやると言われているような気分だった。自分は決して取り返しのつかないことをして、許されてはいけないはずなのに、走らないととせき立てられるような思いに駆られる。
「前を向け、振り返んな。走んなきゃわかんねえことがあんだろ。」
どこかで聞いたような台詞だ。いつか自分の口にした言葉をこいつは大事にしていてくれたのだろうか。ぐらりと芯を揺るがされるような感覚に福富は思わず額を押さえる。
「俺は取り返しのつかないことをした。」
「知らねえよそんなもん。」
「お前の走る理由になれるほど立派な人間じゃない、」
「っせえ、俺がお前と一緒に走りてえんだよ。お前じゃなきゃ嫌だっつってんだ。」
それがどれだけ自己満足的なことかなんて荒北自身が一番よく知っている。けれどもあの時福富に救われたことが荒北にとってすべてなのだ。こいつの目の前にある邪魔なものは何もかも払ってやりたい。自分の全部を明け渡してしまいたい。手に籠める力が強くなるのを荒北は止められなかった。
「荒北、」
福富がそう呼んでも荒北はそちらを見つめるばかりで、何も言わない。荒北はただ待っていた。福富が言いさえすればそれでいいと思っていた。
「荒北、俺はまた、走れるだろうか。」
「走るんだよ。四の五言うな。」
「また、あんなことをしてしまわないだろうか。」
「今度は俺がいるだろ。だっからおめえは真っ直ぐ走ってろよ、福ちゃん。」
荒北はベッドの上に片膝を乗り上げると、ぐっと福富の方に体重を掛けた。獣がじゃれつくようにベッドに転がる。福富は荒北を見上げて、その目に自分だけしか映っていないことを見た。こいつは自分だけを見てここまで来た。自分がここまで連れてきたのだ。
「お前は強いよ、福ちゃん。」
だから走れ。お前の前を遮る奴がいたら俺がかっ喰らってやる。一切の包み隠しも含みもない言葉だった。まるで欠けていた部分が満ちていくように、すとんとそれは福富の中に収まっていく。こいつが俺を走らせてくれる。そして俺も、こいつを走らせるのだ。
不意に福富は荒北の腕を取った。驚いてぎゃっと声を上げ、荒北が福富の上に折り重なる。その背中に手を回して抱きしめると荒北が息を飲むのが間近に聞こえて、首筋が少しだけざわつくような感覚を覚えた。名前を呼ぶと、荒北はびくりと肩を震わせて、わずかに上擦った声でなに、と返した。
「これから、お前が俺を引いてくれるか。」
その声にはもう迷いは無かった。荒北はその言葉に、いつもの彼の姿を見て、深く息を吐く。瞼に浮かんだあの二つの景色が滲んで形を成さなくなっていくのを見つめていた。
「俺が側にいるよ、福ちゃん。」
それがうまく言葉になっていたかは荒北にはわからない。もしかすると声にさえなっていなかったかもしれない。それでも背中に回された手に籠められた力が強くなったから、荒北は小さく喉を鳴らした。
(こいつはいつか気付くだろうか。)
開かれたままの辞書の一ページ。たった一単語にうっすらと引かれたラインに。その言葉の中に荒北が見出したものに福富が気付いたとき、二人が何を見るかはまだ誰も知らない。
【Assist:(人が人を)助ける[原義:そばに立つ]】