「福ちゃん、いんだろォ」
その声を聞いてぱっと顔を上げる。手元に集中していたせいで急にはそちらに意識を向けられず、ぐるりと一度辺りを見回して、それからようやく部室の外からその声が聞こえているのに気が付いた。片手でタオルを掴んで立ち上がる。開けっ放しの窓の向こうからまた声がする。返事をしようかとも思ったが、向こうはきっとこちらから返事があるとは思っていないようだからそのままにしておいた。
かちゃん、と控えめな金属音がする。窓の影で、黒髪の男がが空色の車体を慎重にスタンドに掛けているのが見える。それが聞こえなくなったと思ったら、すぐにまた「福ちゃん」と呼ぶ声が続く。
呼ぶ声はひっきりなしである。傍から見れば、もしかすると子供が駄々をこねて癇癪を起こしているように聞こえるかもしれないような呼び方だ。しかしオレがそれを悪く思わないのは、その声に不機嫌さが含まれているように聞こえるのがこの男が本当に苛立っているからではなくて、自分に甘えているからだと知っているからだ。それはきっとオレにしかわからない。なぜならこいつの人生の中で「福ちゃん」という呼び名を持つのはきっとオレだけだからだ。

「福ちゃァん、まだかよ」
今度は鼻に掛かって濁った。不意に窓から風が部室の中に吹き込んできたのにオレは肩を竦める。もう十二月に差し掛かる。もうすっかり寒くなって、部室の中にいてその上長袖のサーモジャージとウインドブレーカーを羽織っていても寒いとほどである。室内にいてもそう感じるのだから外で走っていたならより一層だろう。しかしそれでもきっと厚着の嫌いなあの男は薄着のままで飛び出していったのだから、自業自得と言えば自業自得である。「走ってるうちに暖かくなっから」というのはよく聞く台詞だが、しかしそれとともに走っていった男が帰って来る時に文句を聞かなかったこともない。もう一枚着ろと言っても聞かないし、寒いから外じゃなくて中で練習しろと言うのはもっと聞かないのだ。どうしてだか聞いたことはない。ないが、しかし理由はわかっている。あの男はオレの言うことや忠告なんかはめったに聞かないくせに、言ったことやオレのしたことはよく覚えているのだ。

オレが窓から顔を出すと、すでにそこに立っていた荒北はニッと口元を持ち上げて笑った。ずず、と鼻を啜る。オレが手に持っているタオルで自分の手を拭いている間中、荒北はその手元を見詰めていた。
「外すっげ寒ィの。耳千切れるかと思った」
「耳当てを貸してやっただろう」
「やだよあんなん。ヘルメットん中あっちいしさァ」
「ちゃんと着けろ。耳が千切れるぞ」
「ヘイヘイわかったよ」
「ヘイは一回」
「ヘーイ」
けらけら笑いながら荒北がこちらに手を差し出してくる。オレが一瞬荒北の顔を見ると、荒北はひょうひょうとした様子でオレの目を見た。わかってるだろ、とでも言いたげな態度にちょっと呆れたような、でも抗いがたいような気持ちになってオレは思わず軽く頷いてしまう。
タオルを横に落として、それからもう一度オイルが付かないか試すためにレーパンでごしごし拭ってからグローブを着けたままのその両手を取る。手首のマジックテープを外して、それからゆっくり手袋を引き抜く。(片手が終わったらもう片方も。こんな甲斐甲斐しいことをオレがする相手は、きっと一生かかってもこいつぐらいしか見つからないだろうと思う。)外し終わった手を掴むと、指先が冷えているのが伝わってくる。もう一枚分厚い手袋を渡した方がよかっただろうか。身体の中心は漕いでいるうちに暖まるが、指先や足先や耳などの末端は自分ではどうにもならないのだ。
「他の奴らは」
「もう上がった。お前が最後だ」
「オレと、福ちゃんもなァ」
「お前がなかなか帰って来ないからだろう」
「それでも待っててくれんだねェ」
オレのせいでいいぜ、と荒北が悪びれもせずに言う。それに何も言い返せなくなったオレが黙り込むと荒北は機嫌良さそうに喉を鳴らして笑った。
荒北の手がオレの手の中からするりと抜けて、顔の方に伸びてくる。首の後ろに手が引っかかったのに抵抗もしないままで引き寄せられてやると、すぐに荒北の鼻先がオレの目の前に来た。首から上だけが窓の外に出ている状態でいる。頬に風が吹き付けて寒いのにオレが眉を寄せたのは目の前の男にも見えたはずだが、荒北はそれを見なかったことにして「もう日ィ暮れてら」と視線を逸らした。
「まだ五時だぜ。夏だったらまだ全然明るいのに。それに寒ィし」
「冬だからな。……逸らすな」
お前から仕掛けて来たんだろう。オレがそう言うと、荒北は「そうだけどさ」と気まずそうに言って、それから一度後ろを振り返った。落ちかけた日が、荒北の影を長く伸ばしているのが見える。一時間以上も前に解散して切り上げていった部員たちは行儀よくみんなきれいに用具も片付けていったから部室の前のベンチにも、ロッカーの付近にもどこにも人のいた気配すら残ってはいなかった。それを確認してからようやく荒北はまたこちらへと向き直って、真っ直ぐにオレを見る。
「誰かに見られたらどうしような」
「オレは構わない」
「オレだって構いやしねえよ。けど見た奴ァ腰抜かすぜ」
「知ったことか」
それならそうさせておけばいい。これはオレとお前のことで、他人には関係のないことだ。そうオレが返せば、荒北は一瞬呆気にとられたような表情をしていたが、しばらくそのまま見つめあっているうちにぽかんと開かれていた口は徐々に人の悪いような三日月形になり、目はにんまりと細められていった。
「悪い奴」
荒北が嬉しそうな顔をして言う。オレが荒北の腰を持って軽く自分の方へ引き寄せると、足元で砂利の鳴る音がした。それに続いて「福ちゃん」と荒北が呼ぶ声がまた一つ。
「主将になったのがこんな悪い奴だって知られねえ方がいいんじゃねえのォ」
「お前しか知らないんだから問題はないだろう」
「わっかんねえぜ?オレだって誰かに言うかもしれねえし」
「お前は言わない」
「……ずっりいなァ、お前は」
手を伸ばすと荒北は観念したようにわずかに目を伏せた。風に晒されて真っ赤になった荒北の頬は、触れてみると思いの外ひんやりしている。温めるために手全体で包み込んで軽く擦ると、力を籠めすぎたせいで痛かったのか不満げな視線が飛んでくる。力を緩めて頬から耳の方に手を滑らせると、その拍子に手のひらのどこかに残っていたらしいオイルが荒北の頬を汚した。親指で拭おうとしてみたがただ汚れが引き伸ばされるばかりで取れない。荒北本人も気づいていないし、どうせすぐにシャワーを浴びるか部屋へ直行するんだからもういいかと早々に諦めて、オレはまたすぐに荒北の髪とそれから耳を温める作業に移った。
薄っぺらくて、それでも柔らかくはない。荒北の耳を指先で揉みながら、また片手で荒北を少しこちらへ引き寄せる。くすぐったいのか、荒北はむずがるように顔を背けた。逃がさないように片手で腰を押さえて、それから首筋に鼻先を埋める。わずかに汗のニオイがした。冷えた髪に指を差し込んで梳きながら、ハイネックのインナーシャツから覗く首筋をべろりと舐めると「福ちゃん」と抗議するような声がする。ずず、とまた荒北は鼻を啜りながらオレを見下ろしている。
「ここじゃダメだからな」
「……わかってる」
「ホントかよ」
そう言いながらオレが引き寄せようとすると、荒北は今度は窘めるような調子でオレを呼んだ。思わずそれに手を止めてしまってから、自分が無意識のうちにこの男にしっかり手綱の握り方を理解されていることに気付く。別に不愉快でも、不快でもないし悪い気もしないのだが、なんだかとてもむず痒い。いつの間にこんなことになってしまったのだろう。しかも自分で今まで気付いてもいなかったのだから相当重症だろう。
「福ちゃん?」
呼ばれてはっと顔を上げる。どうした、と荒北は首を傾げてこちらを覗き込んで、じっとオレの目を見つめていた。それにどう返せばいいかわからなくて、オレは思わずしどろもどろになってしまう。そもそも言葉は上手い方じゃないし、それに何より、恋人になってもうしばらくも経つのに今さらになって「お前のことが好きだとわかった」だなんてことを言うのはあんまりにも気恥ずかしすぎる。

早く片付けて部屋へ戻るぞ、とオレが言うと、荒北は一瞬不思議そうな顔をしたが素直にそれに頷いた。しかしオレが荒北から手を離した次の瞬間、今度は向こうから手が伸びてきた。
シャツの肩口を掴んだ手が無理やりオレを窓の方に引っ張る。にやりと笑った口元が急に近くに現れて、気付けば唇をべろりと舐め上げられていた。「福ちゃん」と、今度は低く呼ばれる。目がぎらりと底光りしているのを見て、ふとそこでオレはこいつのこの目とあの呼び方が悪いんだと気付いた。

「オレも」と荒北が言った。それが何を指すのか理解できるのはきっとオレだけなのだ。





 


 〔原義:大声で叫ぶ〕