合図はノック二つ。
几帳面なその音に、どォぞ、と荒北が返事すると見慣れた金髪がドアを開けて顔を出す。その手の中に収められた派手なパッケージと彼の着ている色褪せた青いシャツを見て、荒北はああ、と声を上げて頷いた。
「頼めるか。」
「いいよ。天気いいし外でやっかァ。」
「いつも悪いな。」
「いいって。俺福ちゃんの髪染めんの好きだし?」
ついでにカットもするよな。そう言って荒北は立ち上がり、一つ伸びをする。腕を伸ばすとすらりとした体つきの細さがやたらと目に付いた。身長はほとんど変わらないのに随分印象が違うものだな、と福富はその姿を見つめる。
「はは、福ちゃん根本真っ黒だよ。」
欠伸したそのままのぼんやりした口調で荒北はそう言って、福富の髪をくしゃりと掴んだ。強くも弱くもない、適度な力加減で骨ばった手が痛んだ髪を梳く代わりに、福富は指先で目尻にうっすら浮かんだ滴を拭ってやる。このまま部屋で一緒に寝てしまいたいな、とふと福富は思ったが、荒北があっさりと手を離したのでそれは断念した。
「俺も前髪切らないとナァ。」
そう言いながら荒北は一旦福富から離れ、机の中から鋏を二つと櫛を取り出す。それから棚にまとめて置かれているヘアスプレーの缶を押し退けて霧吹きを取り出すと、足元に転がっていた袋(おそらくは風呂用具入れ)の中にそれを入れた。持ち物を確認し、よし、と小さく呟いてから荒北は再び福富の方へと視線を戻す。
「行こうぜ。」
荒北が片手で福富の背を押して、二人は部屋の外へ出た。ほとんど人の出払った寮の廊下は静かで、そこには二人の足音だけが響く。
日曜の昼過ぎ、こうして二人連れ立つ時の荒北はいつだって上機嫌だ。
***
途中寮監室に寄って大きめのゴミ袋を何枚か貰って、それから二人は玄関の方へと向かう。(この寮は外から回らないと屋上へは上がれないのだ。)ついさっきまで寝ていたのだろう。何度も欠伸を繰り返す荒北に釣られて福富も欠伸をしつつ、のろのろと靴を探した。
「福ちゃん、俺サンダルどこやったっけ。」
「昨日洗濯したときに履いてなかったか。」
「えー、あー・・・ダメだ全然思い出せねえ。福ちゃんの貸してヨ。」
「俺も一足しか無い。」
「片っぽだけでいいからァ。」
「意味あるのかそれ。」
まぁいいかと言って福富が右足に履いていたスリッパを差し出すと、荒北はうれしそうにそれを受け取って、代わりに自分の履いていたスニーカーの片方を福富に渡した。靴のサイズは同じだからその点は問題ないのだが、どうにも二人とも不格好なのは否め無い。足元を見て荒北がくつくつと喉を鳴らす。お前から言い出した癖にと福富もついついおかしくなってしまってうっかり口元を緩めると、それを見た荒北はさらに目を細めた。
「機嫌いーねェ。」
「お前が嬉しそうにしてるからだぞ。」
「そんなに顔に出てる?」
「ああ、相当。」
うっそォと大げさな動作で仰け反った荒北の、寝癖の付いたままの頭を福富が撫でくってやると、荒北はふへっと抜けた声を上げる。その笑顔越しに見える外の景色は非常に明るい。ああいい天気だ。福富はその光景に少し見惚れながら思った。飛行機雲が一筋過ぎっただけの晴れきった空がこの男によく似合っている。手を緩やかな動作で下ろして、行くか、と福富が口にすれば荒北も、名残惜しそうではあったがおうよと素直に応える。その目が自らの指先を追うのをちらりと見て、終わったらどうしてやろうかとこっそり福富は笑った。
***
「あ、今からブリーチすんの?」
福富が引き戸に手を掛けたところでちょうど向こうから入って来る者がある。ゆっくりと戸を引き開けた新開は、そこに立っていた二人を見るなりそう声を掛けたのだった。
てっきりどこかへ女の子たちと遊びに行ったものだと思っていたから二人とも彼の姿に少し驚いていた。新開曰く「尽八じゃあるまいし、オフにわざわざ誰かと出掛けるなんて疲れるだけだよ」とのこと。人付き合いがいいように見えて、案外人と時間を共有したがらない男である。部屋やロッカーの有様やらから考えて、生来のものぐさなのかもしれない。新開はふらりと飼っているウサギの様子を見に行っていただけらしく、短パンに襟ぐりの伸びきったTシャツというラフな格好だ。
「おめーまだそのシャツ着てんのかよ。」
荒北はすっかりロゴの薄れてしまったそのシャツを呆れたような目で見ている。一方の新開はと言えばそれをさして気にする様子もなく、「これが楽なんだよ」とのんびりした調子で言っていた。思えば中学の頃、福富が彼の家を訪ねて行ったときもこのシャツを見た覚えがある。
「というか寿一もそのシャツ大分長いこと着てるだろ。」
「これは髪を染めるとき用だから構わない。」
「靖友、これはいいの?」
「福ちゃんがいいっつってんだからいいんだよ。」
「贔屓だろ、それ!」
「っせ!おめえのきったねえシャツと福ちゃんのを並べんじゃねえ!」
ぎゃんと叫んで長い腕が伸びて、赤茶色の頭を軽く叩いた。新開は拗ねたように口を尖らせて「靖友はホント寿一ばっかりだ」と呟いたが、二撃目が来るのを恐れて福富の後ろへと素早く避難してしまう。ほんのわずかに頬に赤を滲ませた荒北はるっせえ、とさっきよりか幾分か小声で言って、もう一度福富の後ろに隠れた男を睨みつけた。レース中なんかだとハッタリをかましたり脅しを掛けたり、はたまた一旦競り負けたふりをしてみたりと非常に自分の感情を隠して駆け引きをするのが上手い男であるが、しかし日常のこういう場面ではどうも弱いらしい。照れているのかたびたび泳ぐ視線が彼らしからぬもので、こんな時にふと福富は彼のことを愛しいと思ったりするのだった。
「俺の髪もついでに切ってよ靖友。ベプシおごるからさぁ。」
「二本だったらのってやんヨ。」
「よしきた。」
一人増えた仲間にゴミ袋を持たせ、俺たちは明るい日差しの下へと足を踏み出す。あっちいなぁ、と荒北が呟いた。梅雨明けのからりとした空気を吸い込む。シャツの隙間に吹き込んだ風が裾を揺らして抜けていくのを感じながら青々とした葉を付けた木々を見上げた。
もうすぐ夏が来るのだ。
***
塗装の剥がれた手すりに触れながら階段を上がっていく。ボロボロのトタン屋根には何度も修理された跡が残っていて、この建物自体の古さを思わせた。金属製の階段は足を掛ける度に高い音を立てる。
「お前等なんで靴片方ずつ違うの履いてんの?」
一段下にいた新開が不思議そうに尋ねてきたのに福富はただ「いいんだ」とだけ答えた。その言葉に新開は納得いかなさそうに首を傾げていたが、先に階段を上りきった荒北がその言葉を聞いて笑ったのと、そしてその足下を見て、呆れたように口を開く。
「嬉しそうな顔しやがって。」
屋上には誰もいなかった。天気がいいから、やはり物干し竿は全部洗濯物のシャツやズボンやシーツで一杯になってはいたが、それらの多くはすでに乾ききっているところをみると、皆朝の早いうちにこれらを干してどこかへ出掛けてしまったようだ。シーツをくぐって三人は貯水糟の脇にある空き地へと向かう。それからいつも通り、福富と新開はそこに置き去りにされているパイプ椅子を二つ持ち出してきて、一方の荒北は福富の持ってきた箱を開封したりしながら準備を整えていく。
「先にカットすんぞー。」
「カッコ良くしてくれよ靖友!」
「無茶言うなってェ。福ちゃん、いつも通りでいい?」
「ああ、任せる。」
「靖友ー、俺いつもより後ろ短くして。」
「へいへい。前髪はいつも通りでいいだろ。」
「よろしく頼む。」
「はいよ。」
そう軽く諾ってから、荒北は二人に青いビニール袋を手渡した。いつの間に用意したのか底に頭がぎりぎり通るぐらいの穴が開けられている。慣れた様子で二人はそれを被って椅子に腰掛けた。
「あっ、やっべえ新聞紙忘れた。」
「俺取ってこようか?」
「その格好でか。やめとけ泉田が泣く。」
立ち上がりかけて中腰になった新開の格好を見た荒北が思わず笑う。上半身がすっかりゴミ袋に隠れていて、それに腕も出ていないような状態はいくら顔が良くったってあんまりだ。目線を下に遣って新開はちょっとだけ情けない顔をすると、それからすぐに後ろを振り返って「寿一も人のこと言えねえからな」と咎めた。
「むしろ俺の方が似合うし。」
「お前それ言われて嬉しいかァ?」
「俺が行くか。」
「何言ってんの、福ちゃんが行くなら俺が行くって。」
「ほらまた寿一ばっかり!」
「っせえな!いいから黙って待ってろ!」
そう言うと荒北は素早く踵を返してシーツの向こうへ消えていく。背の高い影が見えなくなるまで二人は黙ってそれを見つめていたが、不意に新開が福富の方をいたずらっぽく見やった。
「ホントいい奴だよな、アイツ。」
「口は悪いけどな。」
「あれは単なるツンデレじゃないか。いいなぁ俺も靖友みたいな彼女欲しい。」
「・・・やらんぞ。」
「いらねえよ!持て余すわあんなの!」
新開のその言葉に福富は安心したような、しかし一方で少しむっとしたような複雑な表情をしていた。新開の呆れたような顔は彼にも見えていただろうがそれでも自分ではどうにもならないらしい。愛や恋やなんていうことにてんで疎かった親友のそんな様子を見るのなんて彼にとってはひどく新鮮で、思わず頬が緩む。
もう二言三言からかってやろうかと新開が口を開いたところで、白いシーツが揺れた。
「早いな、靖友・・・ってあれ、尽八?」
今日は千葉じゃなかったのか、と新開が尋ねると、「巻ちゃんの都合がつかなかったんだ」と東堂は眉を下げる。ちょっと買い出しに出て今さっき戻ってきたところでちょうど荒北を見つけたらしい。
「襟足が少々伸びてきていたから俺も頼もうと思ってな。」
「靖友の奴よく了承したな。」
「ガリゴリ君三本だ。」
「なるほど、考えたな。」
「だろう?」
得意げな顔をしながら東堂もがたがたと椅子を取り出して、それから脇に置かれていたゴミ袋を手に取った。これはいくらなんでも似合わないんだがなぁと東堂は軽く眉を顰めるが、すでにあんまりな格好をしている二人に見つめられては被らざるを得ない。鋏で底を切って、それから三人並んで座ってみるとひどく間抜けである。福富は、今の自分達の格好は後輩達に見られないようにしないとな、と心に決めたのだった。
「おーし馬鹿ども用意はいいかァ。」
白いシーツの向こうから声が聞こえたのに顔を上げると、見慣れた影が見えた。
「俺は馬鹿ではないが準備はいいぞ。」
「俺もだぜ靖友。」
「馬鹿二人がほざいてんじゃねえよ。」
戻ってきた荒北は三人の格好がおかしかったのか、くっと笑ってからそちらへと歩み寄った。手に持っている新聞紙が風にあおられてがさがさ音を立てる。
「なんだかんだ言って荒北も楽しそうじゃないか。」
「んなわけねえだろ。ナァニ言ってんだこのでこっぱちはよォ。」
「はは、照れるな照れるな。」
「っぜ!」
そう乱暴に言った荒北が怒ってなどいないことは明らかだった。
***
「新開さぁ、お前髪伸びんの早くねェ?」
「あー、よく食うからかなぁ。」
「女をか。」
「やだー靖友くんのえっちー!すけべー!」
「隼人はモテるからな。まぁ俺ほどではないがね!」
「でも尽八童貞じゃん。」
「お、お前それはならん、言ってはならんよ!」
「あーもう動くなっての!じっとしてねえと丸刈りにすっぞ!」
新開へ掴みかかる東堂の腕を片手で払いのけながら、荒北は梳き鋏を軽く振るって挟まった髪を落としていく。ウェーブのかかった赤毛は濡らされていつものボリュームをすっかり失って、荒北の長い指に引っ張ったり持ち上げられたりと好きにされていた。しゃきしゃきと小気味良い音を立てて鋏が動く。見る間に髪がすっきりと整えられていく様子は、自転車以外のことに関してまるっきり不器用な福富から見ればいつだって魔法のように見えるのだった。
荒北がこうして彼らの髪を切るようになったのは、二年前の、ある日曜日のことがきっかけである。
入部して早々にあの特徴的な髪型をやめ、ざっぱりと髪を切ってしまった荒北は、しばらくの間坊主頭で過ごしていた。小中学校の間は野球少年として過ごした男であるから坊主頭に抵抗は無かったし、それに何より「三倍回せ」という言葉を消化するためにはそういったものに構いたくは無かったのだ。
そうして数ヶ月、ひたすら脇目もふらずペダルを回して、初めはレベルが違うからと参加できなかった全体練習にも少しずつ参加出来るようになった。次第と変わってきた周りの目には慣れなかったが、荒北はその頃になってようやく自分がメンバーだと認められたと感じることが出来るようになってきていたのだった。
そんなある日のことだ。
もうそろそろ伸ばしっぱなしだった前髪が鬱陶しくなってきたと、荒北は鋏を持ち出し洗面所へ向かっていた。彼の家では男は皆自分で自分の髪を切るというのが当然だったし、それはもちろんここでもそうなのだろうと荒北は思っていたのだった。しかしながらそれが間違った認識だったと気がついたのはそのすぐ後だ。
洗面所には、例の青色のシャツを着た福富と、オフだからと十分すぎるほど寝坊してその時起き出してきた新開がいた。最近になって使い始めた「靖友」という呼び名で彼を呼んだ新開は、口に歯ブラシを突っ込みながら親しげに片手を挙げ荒北を出迎える。その後ろにいた福富とは朝に一度会っていたから、よぉと軽く挨拶しただけだった。荒北は派手なパッケージを握ってじいっとその説明書きを読む横顔を眺めながらその隣の空いた洗面台に向かう。
さてやるか、と荒北が持ってきた鋏を持ち上げたところで慌てたような声が聞こえた。
「靖友、自分で切るの?」
「そうだけど、ナニ?」
「やめとけって、失敗したらどうすんだ!」
ちゃんとしたとこなら峠下ったとこにあるから、と自分の手を掴む新開を見て荒北は呆気に取られる。ふと振り向くと福富も少し困ったような顔をして、「自分でやるなんて」とでも言いたげな目だった。彼らの認識の中では髪は他人に切ってもらうもので、自分でいじるなんて以ての外らしい。福富も新開もいわゆる「いいとこの子」だからかもしれないが、荒北は考え方の違いに非常に驚いたのだった。
どうにかして自分を止めようとしてくる二人をまぁまぁ、と宥めて、荒北は髪に鋏を入れてみせる。物心ついたときから自分の髪は自分でどうにかしてきたし、それにここへ来るまでは妹たちの髪だって切ってやっていたのだ。慣れた手つきで髪を切りそろえていく荒北の手先を見つめながら、初めは恐々としていた福富と新開も、次第にその器用さに感心していった。
「いいなぁ靖友、散髪代要らずじゃん。」
「おめえらもやってみればァ?」
「あー無理無理。俺も寿一も不器用なの、知ってるだろ。」
ああ、と荒北は納得したように答える。アーレンキーは小気味よく動かす癖に、それ以外のこととなるとペン回しだって出来ないぐらいこの二人はぶきっちょなのだ。そこまで至って、ようやく隣にいる福富が固まっている理由に気付いた荒北はすっかり呆れてしまって、もう笑うしか無かった。
「福富、俺がそれやってやろうかァ。」
その一言があって以来、彼の髪を染めるのは荒北の役割になった。そうしてそのついでとして、荒北はこうして時折散髪屋みたいな真似をすることになったのだった。
***
「次、福ちゃんなァ。」
ブリーチ剤が二人につくといけないから自分は最後に、と頼んだのは福富の方なのに、荒北は遅くなってゴメンなと一言謝ってから髪に触れる(その態度が俺たちの時と違うと新開と東堂がまた吠えていたが、荒北はうるせえと言っただけで後は無視していた)。霧吹きで軽く髪を濡らしながら荒北の指が髪と髪の間を通っていく。
福富は荒北の手が好きだ。
手のひらよりも指の方が長くて、ぐっと拳を作るとひどく骨張っているように見える。それはやはり女のそれとは違っていて柔らかくなく滑らかでもないが、節くれ立った指や何度も肉刺を潰して堅くなった掌、そして手の甲に散るいくつもの傷痕さえ福富にはとても美しく尊いものに見えるのであった。
その手がざっと頭を撫でて、それから毛先に鋏が入れられていく。福富からでは見えないが、きっと今、荒北の手はひどく忙しく動いているだろう。手際よく髪を整えていくその手がどうにか見えないものかと福富は視線を少し持ち上げてみたがすぐに動くなよ、と制止されてしまった。仕方がないので福富はじっと神経を集中させて、指先の動きを追うことにする。普通、散髪屋なんかだと前に鏡があるものだがここにそんなものがあるはずもないから自分の髪が一体どういう状態なのか全くわからない。しかしそれでも不安を感じたりしないのは相手が荒北だからだろうか。
(出会ってまだ三年も経っていないのか。)
そう思いついて福富は内心驚く。それだけしか経っていないのに自分の何もかもを預けたっていいと思えるなんて。
「福ちゃん寝んなヨ。」
「寝てない。」
「これ終わったら昼寝しようぜェ。」
俺もまだ眠い。隣で自分たちの髪をほうきでかき集めている二人に聞こえないぐらいの声で荒北は低く言った。見えはしなかったが、おそらく自分と似たような表情をしているのだろう。福富はそう思う。また同時にここに鏡が無くって本当によかったとも思うのだ。二人してこんな顔をしているのが見えたらきっとどうしようもない気持ちになっていただろうから。
「靖友、こっち片付いたから俺らコンビニ行ってくるわ。」
「ベプシとアイス買いにな!」
「へーへー、そりゃあどうも。ちゃっちゃと行って来いよ。」
新開と東堂がそう言ったのに荒北は笑いをかみ殺したような声で答えて軽く手を振る。やはり機嫌はいいらしい。あいつらぜってえなかなか帰ってこねえぜ、と彼らの背中が見えなくなってから荒北は言った。
しばらくして、出来た、と小さく呟いてから、荒北の手が首筋に落ちた髪を払っていく。細かい毛を自分でも払い落としながら振り返ると、荒北がビニールの手袋を着けているのが見えた。
「ちょっとピリピリすっと思うけど我慢な。」
そんなお決まりの台詞を言いながら箱から取り出した薬剤のチューブを捻る。
その指先を福富は見つめていた。福ちゃん、と荒北がやんわりと前を向くように促してもそのままじっとそのまま視線を動かさずにいた。そして少しして、福富は顎を持ち上げて荒北を見る。
「駄目だって福ちゃん。」
「・・・少しだけ。」
「終わったらいくらでも出来るんだから我慢。」
「荒北、」
「ダァメ。」
ガッカリしたように眉をわずかに下げる福富を、荒北は呆れたような、それでも可愛くってたまらないみたいな顔をして見ていた。仕方ないなと彼の目尻の端に唇を寄せて、福富が手を伸ばしてくる前に身体を翻す。そうして荒北はさっきと同じように福富の後ろに回ると、彼の頭の天辺をぐいと掴んで前を向かせる。
「ちゃあんと我慢できたらご褒美やるよ。」
見えない表情の代わりに声が彼の気分を伝えてくる。眩しい日差しに目を細める福富の頭を撫でる手つきは優しい。
「荒北喜べ!ベプシのスイカ味なるものを買ってきてやったぞ!」
「見た目は悪くないぜ。ほら靖友、見てくれ涼しげだ。」
「おめえらはまともにおつかいも出来ねえのか、このボケナス!」
それからもうしばらく、福富の頭がすっかりブリーチ剤で固められてしまった頃、騒がしく二人が戻ってくる。自慢げに掲げられた、身体に悪いことこの上なさそうな色合いのそれを見て荒北は「普通の買ってこいや」と不機嫌そうに唸った。
「不味かったらおめえらが責任持って飲み切れよ。」
「何を言う。そういうのは飼い主の役割だろう。」
そういって東堂は福富の方を見る。あまり炭酸が得意ではない福富は少し困った顔をして「それはそうだが」と言葉を濁した。否定しないあたりこいつらしいと内心福富以外の三人は思ったが(加えて荒北は少し赤面して)、真面目な顔をする彼に誰も何も言えなかった。
「別に俺福ちゃんの飼い犬じゃねえし。」
「そりゃあそうだろう。お前は狼だ。」
「っげえよ、そういうことじゃなくってさ福ちゃん、」
「ああもうここでいちゃつくなよ!」
新開が止めても福富も荒北も聞いちゃいない。呆れて笑い始めた東堂は、ああなんて気の抜けた会話だろうと思いながらぐっと一つ伸びをした。見上げると痛いほどの光が目に入ってくる。もうしばらくすれば福富の髪はこんな色になるのだと少し楽しみになった。
もうすぐ夏が来る。金色の光が注ぐ日々が始まるのだ。
【Dye:染める[原義:色を変える]】