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それが荒北と交わした最後の言葉だった。それ以来俺たちは会っていない。
床に転がったままの俺を置いて荒北はそれ以上何も言わず立ち去っていった。荒北が何を思ってそんなことをしたのかその時俺にはわからなかったが、なんとなく追いかけてはいけないような気がして、その足音がすっかり消えてしまうまで動くことすら出来なかった。
俺は何も荒北に言えなかったし、その後一度だけメールを送ってみたが向こうからは返事がなかった。荒北も何も言うつもりは無いらしい。夏以来の約束通り荒北がビアンキを持っていったことだけが唯一俺にわかることで、それ以外の、荒北の考えていることやあの言葉やキスの意図はわからない。
俺は何度か荒北に電話してみようかと考えてみたが、しかし荒北が自分に会いたくないのかもしれないと思うと躊躇われて結局一度のメール以来何もすることはできなかった。それにもし連絡がついて荒北に会ったとして、自分は何を言おうとしているのだろう。長く感じるとは言え、まだ卒業式から何ヶ月も経ったわけでもないし、久しぶりだななんて言葉はそぐわない。大学でも自転車をやるんだろう、なんて確かめるまでもないし、それに荒北の最後の言葉については尋ねられるはずもない。
どうするべきだろう。何もしない方がいいんだろうか。自分は何をしなければならないのか。何が必要で、何が不必要なのか。
そんなことをぐるぐると考えているうちに、春休み(というか卒業式と入学式の間の余った時間)は終わっていった。
四月になって、大学の入学式があった。その日のうちに俺は自転車競技部に入部して、そうして次の日の夜には歓迎会が行われその一週間後には新歓レースが、次の次の週には新人戦が、校内戦が、対外レースが。毎日が追いつけないほどめまぐるしい。
そうして荒北に連絡できないまま、ぼんやりしているうちにあの日はどんどん遠ざかっていく。
最後に荒北に送ったメールの送信歴はどんどん他のものに埋もれて下へ。高校の間中、見ない日はなかった「荒北靖友」という名前の着信履歴もいつの間にか姿を消していた。
変化しないのは相変わらず携帯電話の電話帳の一番上に荒北の名前があることと、それから荒北が最後に告げていった言葉だけだった。
それについて、どうするべきかと思い悩む気持ちはずっと頭の片隅にあったが、それは次第に日常の中では息を潜めるようになった。しかし決して風化していくわけではなく、ふとしたきっかけでそれはあの時の光景もそのままに蘇る。そのたび俺は荒北のことやあの空色の車体を思い出し、ぐっと息が詰まるようなよくわからない想いに駆られた。それが何なのか俺にはわからなかったし、それをどうすればいいのかもわからずに時折現れるそれにいつも苦しんでいたのだった。
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そんな五月のある日、俺は自分で髪を染めることにした。
随分久しぶりである。高校一年の秋ぶりだ。ある日、慣れない手つきでブリーチ剤を混ぜているのを見られて以来、俺の髪を染めるのは荒北の役割だったのだ。他人に髪を触られるのなんか随分無かったから、その時はひどく戸惑ったことを覚えている。不器用だなァ、と言いながら荒北は俺の手から液剤の入ったチューブを取り上げて笑っていた。一番初めは俺があんまり困っているのを面白がっていたのだろうが、何度かそれを繰り返すうちに自然と俺から頼むようになって、荒北もいつの間にか拒否しなくなっていたのだった。
脱色剤の裏面の説明書きを丁寧に読みながら、一つ一つ手順をたどっていく。荒北は一番最初の時以外にはその説明文を読んでいなかったように思う。何度も自分で染めたことのある俺よりもずっと慣れた手つきで荒北は俺の髪を梳いて、薬剤を馴染ませて、俺にキャップを被せてから「変なカッコ」と毎回笑っていた。
俺はその手つきを思い出しながら自分の髪に出来るだけ均等に液がつくように、彼と同じように撫でつけてみたが、やはりそれは荒北の手の感覚とは違うもので、自分の手の平なのにどこか落ち着かないような気持ちになった。
頭皮に滑り込んでくるあの指先は荒れていた。時々爪は割れていたし、根本はいつだってささくれ立っていた。髪を撫でつける手のひらは何度も肉刺を潰してきたせいでひどく硬くて、一年の頃なんかはグリップでひどく擦れたせいで水膨れを作っているのもしょっちゅうのことだった。
いくつも傷のある手だった。長い指に傷がないことは無い。親指の付け根には痕の消えないらしい傷もある。
それはきっと一般的には美しいとは言えないものなのだろう。でも俺にはその傷だらけの手がどこか好ましく思えていたのだ。
ブリーチ剤を洗い流して鏡で見てみると、耳の裏の辺りの髪の根本が黒いことに気が付いた。掻き上げてみれば、額の上のところにもムラがある。うまくいかないもんだな、と俺はちょっと複雑な気持ちになって眉を寄せた。
俺は自分の手を見る。これも、傷の絶えない男の手である。しかし荒北のものとは違う。俺の親指の付け根には傷はないし、爪は横に広い上にぎりぎりまで深爪してあるからひどく小さく見える。節くれ立った指はきっと荒北のものより短い。その代わりに手のひらは広い。俺とあいつの手の大きさは変わらないし、それが男の手であることやいくつも肉刺が出来ていることには変わりがないのだが、しかしそれでも荒北と自分では数え切れないほどの違いがある。
その時不意に、俺は荒北に会いたくなった。
荒北の手に触れてみたくなった。自分とあの男の手のひらの違いを比べてみたい。あの長い指を掴んでみたい。手のひらを確かめるみたいになぞってみたい。爪の先まで全部しっかり見てみたいと思ったのだ。
そうして考えているうちにどんどん様々なことが頭を過る。荒北の手から走っているときの姿。普段の表情、笑うときの口元、そして声。
「『今度会ったら』ーー」
俺は荒北が言った言葉を思い出す。その続きを口に出すことははばかられて、台詞は途中で切った。
荒北がどういうつもりでそう言ったのかはまだはっきりとわからない。
でももしかすると、と思い当たることはある。
荒北のその台詞を俺はずっと冗談なのか本心なのか判別できずにいたが、それがどうであれ、俺はそれを正直に受け止めてみようとその時思ったのだった。あの時の荒北の『忘れ物』について、何かわかった気がするのだ。
髪が濡れているのもそのままに、俺はリビングに駆け込む。テーブルの上に置きっぱなしになっている携帯電話を取ってすぐに電話帳を開くと、その一番上にある名前を押した。
『やっと掛けてきたなァ』
しばらくのコール音の後、向こう側で声がした。
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「良かったのォ」
二言目に、荒北はそう口にした。何が、と俺が尋ねるとわかってるくせにと荒北は笑う。
「最後に俺が言ったこと、覚えてんだろ」
電話してその日のうちに俺は電車に飛び乗って、荒北の元に向かっていた。
電話した後、これからどうしようかなんてこと俺は一つも考えていなかったが、荒北は俺が電話を掛けた時点で何もかも分かっていた様子だった。要領を得ない俺の代わりに、荒北は電話口で自分の住んでいる場所と最寄りの駅名、それから改札口で待っている旨をすらすらと告げて電話を切った。俺はその言葉に素直に従って(不思議と荒北が自分に会いたくないがために嘘をついたなんてこと全く思いつかなかった)電車に乗り、何時間も掛けて彼の住む街へとたどり着いた。着いた時にはもう真夜中で、そこそこ大きな駅なのに降車客はまばらだった。
本当に荒北が待っているかどうかへの不安よりも、荒北に早く会いたいという気持ちのせいで駆け足になった。
焦ったせいで切符を入れ損ねて一瞬改札に引っかかっていたところにちょうど荒北は現れて、逃げねえから大丈夫だと笑った。
無事に改札を抜けて俺が並ぶと、荒北はなんだか諦めたような、呆れたような、どこかほっとしたような顔をして俺を見た。久しぶりに会った彼は薄手のシャツ一枚とジーンズというラフで、それでいて少し寒そうな格好をしていた。
「最後に俺が言ったこと、覚えてんだろ」
歩き出しながら荒北が言う。いつも大股で風を切るようにして歩くこの男にしてはゆっくりとした速度だ。俺はその隣を歩きながら無言で頷いた。
「言っただろ。『今度会ったら』」
「『セックスしよう』」
俺がそう言うと、荒北はニィと唇の端を吊り上げてこちらに視線を向ける。人の悪い顔をする。俺の顔を覗き込むように、荒北は猫背の背中をさらに屈めて、それからぐいとこちらに顔を寄せた。
「やっぱり覚えてたァ?」
「忘れるわけないだろう」
「へぇ。じゃあそのつもりで来たの」
「…荒北」
俺はそこで一旦足を止める。振り返った荒北は一歩俺の前に立っている。街灯もほとんどない、薄暗い道である。晴れているせいで月がやたらと明るい。少し伸びた前髪が荒北の目をわずかに隠していた。
こちらから一歩近付くと、荒北は一瞬身構えたように身体を引いたが俺はそれに構わずその手を掴む。月のぼんやりした光の下で爪を見る。荒北の爪は綺麗に切りそろえられているが、しかし噛み癖のせいで人差し指の先だけがぎざぎざしている。触れてみると、ささくれがある。手の横には擦ったのか、傷があった。手の甲は筋張っている。裏返して触れてみるとやはり手のひらは硬い。試しに自分の手のひらと荒北のを重ねてみて、ああやっぱり違うものだ、と何となくほっとしたような気持ちになった。掴んだまま、ゆっくりとその手を少しだけ持ち上げる。荒北は抵抗しない。そのまま俺は顔までその手を持っていって手のひらに唇を当てた。
荒北、と再度呼びながら視線を向けると、目の前にいる男は驚いたように目を見張ったまま固まっていた。
「しよう」
「な、にを」
「セックスだ」
「セックス、」
「ああ。好きなんだ」
「…セックスが?」
「違う。お前のことがだ」
荒北の手が好きだ。俺よりも指が長くて、筋張っていて、そして傷だらけのこの手が。荒北自身をそのまま表しているような彼の手が好きなのだった。
お前のことが好きだともう一度繰り返して言う間、荒北はぽかんと間抜けな顔をしてこちらを見ていたが、俺が口を閉ざしてしばらくしてから急にくしゃりと泣きそうな表情をした。
「オレってずりいかなァ」
「俺にだけ言わせて逃げるつもりなら、それはずるい」
「大丈夫だって。逃げねえって言ったろォ」
福ちゃん、と呼ぶと荒北は俺の首に手を掛けて引き寄せる。卒業式の時、本当なら言いたかったんだろう言葉が耳元で囁かれるのが聞こえて、俺は息を詰める。
「行こうか」
しばらくそのままの体勢でじっとしていたが、不意に荒北がそう言って俺の手を引いた。節の高い指が俺の指に絡む。
どこへ、とは聞くまでもないし、今から何をするかも言わなくたってお互いにわかっている。あの時の『今度』は今である。逃げようもないし荒北はきっと逃すつもりもなかったのだ。それはオレだって同じだ。
(次に目が合ったら、)
オレは黙って考える。軽く手を握ってみると向こうからも同じぐらいの力が返ってくる。オレは目を伏せたまま、今度目が合ったときにはこいつが言ったことよりずっとずるいことを言ってやろうと決めた。
【Fall:落っこちる/転ぶ/陥落する[原義:(下に)引っ張られる]】