※「次は」の設定
暗くて時計は見えなかったが、しかし今がもうすっかり真夜中だということはわかった。眠りに落ちてからそんなに時間が経っていないようにも思うし、随分寝たような気もする。
(腹が減った)
福富は半分目を閉じたままぼんやり腹をさする。長く寝たような気がするのはこのせいだろう。深く息をすると唸るように腹の虫が鳴いた。一度考えてしまうともうそれを意識の外にやってしまうのは難しくて、空っぽの胃ばかりが気になってしまう。別に今日は夕食を抜いたわけでも少なくしたわけでもないのになんでこんなに腹が減っているんだろう、と福富はごろりと寝返りを打ちながら考える。油断すればぐうと鳴く虫を抑えてどうにか眠ろうと、居心地のいい格好を探して布団の中で膝を曲げてみたり頭を枕の下に落としてみたりしてみたがなかなか上手くいかない。動いているうちに出来た隙間から冬の冷たさが入ってきて、彼は肩を少し震わせる。掛け布団を首もとまで埋まるように引っ張り上げているとき、隣でも小さく呻く声がした。布団を持ち上げる一瞬に見えた剥き出しの肩がひどく寒そうだった。福富が耳まで見えなくなるように布団を掛けてやったが、荒北はそれでも満足しなかったらしくもぞりと動いて福富の方へさらに身体を寄せてくる。素肌同士が触れ合っていた。せめて下着だけじゃなくて寝間着まで着ていれば寒くはなかっただろう。そう福富は思うものの、しかしそんな余裕なんてなかったことも同時に思い出してその考えごとはすぐにやめてしまった。
荒北の息が鎖骨あたりに掛かっている。一緒に住むようになるまで、他人とこんなに近くで眠ったことがなかったから初めはそれがくすぐったくてたまらなかったが近頃はなんだかこれが無いと少し落ち着かない気持ちにすらなるのだった。起きていると喧しい男だが、寝ているときの荒北は非常に静かだ。息さえも潜めているみたいに眠る。だから近くに置いておきたいと思うのかもしれない。起きているときのこいつだけじゃなくて、意識の無いときまで全部欲しいのか。薄暗い中、荒北の輪郭を眺めながらそんな取り留めのないことばかり彼は考えていた。
しばらくして福富が一つ溜息を吐く。もう腹の虫は鳴く気を無くしたらしいが、福富の身体は限界だった。一口だけでも何か食べればどうにかなるはずだ。確信はなかったがそうするほか朝までゆっくりと眠れる方法はない。
出来るだけ布団を持ち上げないように身体を起こして、彼はベッドを抜け出す。低く唸る声がして一瞬どきりとしたが荒北が目覚める様子はまだなかった。隙間が出来ないようにぽんぽんと軽く荒北の首周りの掛け布団を叩いてそれから福富は立ち上がり、ベッドの周りに散らばった服を適当に拾っていく。
高校の頃からずっと履いているせいで大分くたびれてしまった厚地のジャージは、長いこと放置されていたせいで肌に触れるとひやりとした。次に拾い上げたシャツは福富のものではなく荒北のものだったが、彼は構わずに頭からそれを被る。身体の厚さやウェイトなんかのせいで随分違うように見られがちだが、荒北と福富の服のサイズは変わらないのだ。シンプルな服を好む福富と、少し変わったデザインの服を好む荒北とでは趣味が違うから普段着は共用したりはしないが、寝間着やインナーシャツなんかは同じサイズなんだからどちらがどちらのものを着ても構わないというのが暗黙のうちに決まった二人のルールの一つだった。
上着を着てから靴下を探してみたがどうしても片方だけ見つからなかった。仕方ないと彼は片手に持っていた靴下を放り投げて、裸足のままリビングへと向かうことにした。
フローリングはひどく冷たい。じわじわと足下から上がってくる寒さに歯がなりそうなのをぐっと堪えつつ、彼はキッチンへと向かう。
中途半端に開いたカーテンの隙間からわずかに光が漏れ込んでいる。
歩いている途中、リビングのローテーブルの上にペットボトルが置き去りにしてあるのが見えた。荒北の好きな炭酸飲料のボトルである。そういえば風呂上がりに飲んでいたな、と福富はそれを横目に見ながら思い出す。(ついでにどうしてそれが置きっぱなしになっているのかも。)
寝起きの覚めきっていない頭の中でいくつかの光景を反芻しつつ、暢気に彼が思うのは荒北のあの顔を見られる人間は自分以外にはいないだろうなんていう、誰か他の人間が聞けば呆れられてしまいそうな台詞だった。
キッチンに着いて電気を点けると、まず福富は冷蔵庫を開いた。棚に買い置きのカップラーメンがあることはわかっていたが、この時間に食べるにしてはいいものではない。自転車競技をやっている上で自分の体重を管理することはプロとして非常に重要なことだし、明日も(というかもう今日だが)朝からチームでの練習があるのだ。夜中に余り重いものを食べると脚が鈍る気がするから出来れば軽いものがいい。
冷蔵庫を開けてみて真っ先に目に付いたのは、二段目辺りにそのまま突っ込まれている手鍋だった。中身は今日の晩御飯だった肉じゃがである。「どうせ明日また食うんだから」と言って他の容器に移し替えもせずにそのまま入れるのは珍しいことではないが、やはりこうして見るとちょっと乱暴だ。たとえば道具の置き場所なんかのことには細かいくせにそれ以外のことに関しては荒北はひどく大雑把なのだ。
冷蔵庫の下の段を開けるとビニール袋のまま入っているものがあった。その白い袋の中に林檎がいくつも入っている。ちょっと買いすぎじゃないだろうかと袋の中を覗き込みながら彼は思って、自然と自分の頬が緩んでいることに気が付いた。言いはしないが、福富は荒北のこういうところが好きだと思うのだった。
袋から林檎を一つ取り出してみて、彼は林檎に混じるようにして小さいパッケージが一つ入っているのを見つけた。押し潰されてちょっと形の変わってしまっているその箱を引っ張り出して見てみると、それは見覚えのあるカップスープの素だった。二つとも同じ銘柄である。そういえば寮にいるときもいつも荒北は同じものを飲んでいたな、とふと彼は思い出した。荒北が飲んでいると妙に美味しそうに見えて何度かもらったこともある。一人でいる時に作って飲んでみたりもしたのだが何だかそれと荒北の作ったものでは違うような気がして不思議だった。今作ってみたらどうだろう。懐かしいような気持ちになりながら彼はパッケージを開けて、袋を一つ取り出した。
やかんに水を入れてコンロに載せてから、福富はのろのろと歩いて薄暗いリビングの方へと歩いていく。そこでようやく彼は時計を見て今がまだ午前二時にもなっていないことを知った。もっと遅い時間だと思っていた。これからスープを飲んでもう一度寝なおすとなると中途半端な時間になってしまうが仕方ない。
お湯が沸くにはもうしばらく時間が掛かるだろうと思って彼はソファにどさりと腰を下ろしてみる。足に何かが当たったのを拾い上げてみると、それは寝る前まで(あれを「寝る」と表現していいものか悩むが)荒北が読んでいた雑誌だった。初め暇つぶしにでもと思って福富はその雑誌を持ち上げてみるが、表紙を見てすぐに彼はそれをやめてしまう。「注目の国内選手」という見出しに心当たりがあったのだ。きっとつい先頃に受けたインタビューの記事なのだろう。プロになってからまだそんなに経っていないから目立った功績を挙げてきたわけではないが、しかし兄と父の影響もあって今まで何度かこういう取材を受けることがあったのだ。こういうのは自分の実力や実績が伴ってからと福富は思っていたからあまり自分の載った記事を読むことは無いのだが、一方荒北は福富が載っている雑誌を読むのが好きらしい。
『見ろよ福ちゃん、期待の若き獅子だってヨ』
荒北は福富の側で雑誌を読みながらそんなことを言ってけらけらと笑うのだ。荒北はからかっているような口調でそう言ってみせるが、その笑い方があんまりにも嬉しそうなものだからたちが悪い。プロに入っても浅いのに注目してもらえるなんて得なことじゃねえかというのが荒北の意見だ。
『それにさ、名前だけじゃここには載らねえと思うぜ』
荒北がそう言って雑誌を指すと、福富は何にも言い返せなくなる。注目されるのは悪いことじゃない。彼のその言葉はどこまでも正論なのだった。
荒北は大学生である。一緒に住む前に、自転車を返すだのどうのこうのと騒いだ割に大学に入ってしばらくしてから彼はあっさり自転車競技部に入って、今もあの空色の車体に乗り続けているのだった。
本来、荒北は大学で自転車に乗るつもりはなかった。けれども荒北はまた高校の頃のように毎日毎日目の眩むような練習に明け暮れている。『四年待ってろ』というのは時々荒北が口にする台詞で、いつかまた福富の側で走ってやると荒北は彼に言うのである。
その全てが自分に原因があることを福富は知っている。荒北が再び自転車に乗り始めたことも、どれだけ苦しくても脚を止めないことも、それから彼の目指すものも。荒北の何もかもには福富が中心にいるのだった。あいつは俺のことばっかりだと福富は時々思うが、それは呆れているのではなくてただ荒北のそういうところが好ましいと思っているのだった。
荒北はまだ一年だがもう彼の通う大学の自転車競技部ではエース候補だと囁かれているらしい。天下の箱根学園のエースアシストを務めた男だから、それは当然だろうと福富は思う。荒北には実力がある。そして「元ハコガクのエースアシスト」という称号もある。それは彼が三年間一人で走り続けてきたことの証明に他ならない。荒北が福富が周りから期待されていることを嬉しいと思うのと同じように、福富も荒北が注目されることが嬉しいのである。
「福ちゃん」
お湯沸いてるよ。その声ではっとして福富は身体を起こす。いつの間にか寝ていたらしい。荒北は福富が座っているソファの前に立って眠そうに目を擦っている。
「火ィ止めといた」
「すまない」
「そんなとこで寝ると風邪引くぜ」
「起きてるつもりだったんだ」
福富がそう返すと荒北は声を立てて笑った。居心地悪そうに目を逸らした福富の顔をわざわざ覗きこんでにやりと人の悪い顔をしながら「俺がいるからって油断しすぎじゃナァイ」と言った彼は上機嫌そうだった。その顔が憎らしくて鼻を摘んでやれば、荒北はぎゃっと色気のない声を出す。寝起きであまり開いていない目を瞬かせるその顔がどことなくいとけないように見えてどきりとした。
「福ちゃん腹減ったんだったら起こしてくれりゃいいのに」
「疲れてるのにわざわざ起こすのもどうかと思ったんだ」
「アア、疲れさせたって自覚はあるんだ」
「…今日はちょっと」
「ハッ、殊勝だなァ」
荒北がそう笑いながらコンロの前に立って、再び火を点けた。俯いたその首もとにちらりと見えたものがあって、福富がしまったと気まずい思いをしているのも知らないで、荒北はそのままの姿勢でコンロの火に手をかざして暖めている。
「コップ取って」
そう言いながら荒北が振り向く。福富は頷きつつ彼から目を逸らして戸棚の方に視線をやった。マグカップの色は福富が黄色で荒北が水色である。決まっているわけではないのだが、なんとなく二人とも自然とそちらを手にとってしまうのだ。荒北の持ち物には青や水色が多いからきっと彼はその色が好きなのだろうと福富は思っている。
二つのカップを手渡すと荒北はすぐに袋の封を切ってそこにカップスープの粉末を入れた。
「福ちゃんこれ好きだよねェ」
「お前が好きなんじゃないのか」
「だって俺が飲んでたらいっつも一口くれって言ってきたじゃん」
スプーンを取り出している福富に荒北は笑い掛けながらそう言うと、すぐにやかんを手にして戻ってくる。慎重な動作でコップにお湯を注ぎ、混ぜろと福富に目で促した。
「お湯少なくないか」
「こういうのは濃い方が美味えんだヨ」
福富はかき混ぜながら、カップの中身を覗き込む。荒北と自分の作るもので少し味が違うと思ったのはお湯の量だけのせいだったのだろうか。しかし荒北がスープの素以外に何かを加えた素振りもなかったし、きっとそのほかにあるとしたら自分の気持ちなのだろう。福富はそんなことをぼんやり考えつつ、隣にいる荒北の方にそっと視線を向けた。すると案外荒北の顔は近いところにあって、予期せずばっちりと目が合うことになってしまう。荒北はそれをわかっていたらしく、驚いて目を丸くする福富の横でニィと口元を吊り上げて笑っていた。目を細めたまま荒北はさらに顔を近付けて鼻先をすり寄せてくる。
「疲れてるんじゃないのか」
「これとそれとじゃ別腹だろ」
荒北が一歩踏み込んだ拍子に彼の爪先が福富の足に触れた。寒さに熱を奪われたらしく、さっき布団の中では温かかった指先はすっかり冷え切っている。手に持っていたスプーンを置いたのを合図に荒北の腕が福富の首の後ろに回った。
「寒ィ」
「靴下は」
「福ちゃんこそ。靴下は?」
「昨日お前が脱がせたんだろ」
鼻先同士が触れ合ったままの会話である。福富の台詞に笑った荒北の吐息が肌に触れて、彼は少しくすぐったい思いをしていた。福富も真似して荒北の項に手を掛けると、指先が冷たかったのか荒北はほんの少し肩を竦めて目を伏せた。
荒北が瞼を持ち上げたのをきっかけに福富が彼に噛み付くと、荒北は一瞬笑うような吐息を漏らしたがすぐにまた目を瞑って舌を差し出す。福富は伏目がちに彼の表情を見詰めている。何度も味わうように舌を甘噛みする。ゆっくりと確かめるようなキスである。
荒北の犬歯が舌の端を掠めたのに急に熱が上がりそうになるが、それを抑えたのは福富の首筋にあるものだった。ひやりとした感覚がそこにある。荒北の左手はいつの間にか温もりを取り戻していたが、しかしその薬指に嵌まった指輪だけは熱を移しもせずに冷たいままだった。荒北の指が動くたび、その指輪がそこにあるということを感じる。
唇が離れてすぐに福富は荒北の身体に腕を回して抱き込んだ。あったけえ、と荒北が笑いを含んだ声で言う。まだ冷たいままの爪先が福富の足に当たってじゃれついてくる。
もう一度、と福富が荒北の方に顔を寄せると、荒北は一言「スープ」と言ってから視線でマグカップの方を示してみせる。しかしそれでも福富が腕を緩めない気配を察して、彼は呆れたように一つわざとらしく息を吐いた。
「福ちゃん、せめて飲んでからにしようぜ」
駄々っ子をあやすような言い方だった。ナァ、と荒北が顔を覗きこんで来るのに福富が渋々腕を離すと、彼はまるで犬にでもするみたいに両手で福富の髪を撫でくった。
「俺はお前のペットじゃないんだぞ」
「何言ってんだよ。福ちゃんだって首輪着けてんだろ」
俺もだけどさ。言いつつ荒北は青いカップを手にとっている。銀の指輪が蛍光灯の光を反射したのが見えた。荒北も福富と同じように相手の左手の薬指をじっと見ている。福富は自分の手元にちらりと目を落としてから、言い返しようも無いと諦めて彼もようやくカップに手を伸ばしたのだった。
【Fill:溢れる、満たす[原義:いっぱいにする]】