○○○
今朝起きて初めに福富がしたことは、荒北の部屋に行くことだった。
前日の夜に約束したとおりである。
毎日誰よりも早く起きて練習に向かうことを習慣にしているものの、荒北は基本的に朝に弱い。元々血圧が低いのか体質なのか起きるときには非常に苦労している様子で、朝練があるときにはほとんど気力だけで身体を無理矢理ベッドから引き剥がしているような状態らしい。だからたまの休みの日になると荒北は昼過ぎまで起き出してこないということもざらだし、ことによっては夕食時までベッドにいることもあるのだった。
前日に荒北が「起こしてくれ」と福富に言ったのはそのせいだ。練習も補習も無いし、それに前々からずっと監督もコーチもこの日は自主練でも何でも全面的に練習を禁止するときっちり言っていたものだからさらに自分は起きられなくなるだろうと見越していたのだ。
起きるとすぐに福富は部屋を出た。八時を少し過ぎた頃である。寝間着から着替えもせずに彼はひんやりとする廊下をのろのろと歩いていく。彼の部屋から階段側に三つ行った部屋のドアを軽くノックして、返事も待たずに扉を開けるとベッドの上に一つの塊が見えた。ベッドの横に携帯電話と目覚まし時計が転がっているのを見て、こいつらが彼を起こし損ねたことを福富は瞬時に把握する。
荒北、と呼びながら芋虫みたいなその塊を揺すると低く抗議するような唸り声が聞こえる。
『荒北、八時だ』
お前が朝にその辺を走ろうと言ったんだろう。そう言いながら布団の裾を引っ張って彼の頭を出してやると、荒北は耳を塞ぐみたいな格好をしてベッドシーツに鼻先を埋めた。ベッドの脇に屈み込みながら福富がまた呼びかけると荒北はむずがるように首を振る。
ああ完全に休みモードだ。駄々をこねる子供みたいなその態度はいつもの彼らしくもない。
荒北は確かに我が強いし、こうと決めたら他人がどうこう言おうと曲げないから「わがままだ」と言われることも多いが、しかしそれは言葉にしないだけで頭の中に非常に合理的な考えを持ってのことである。一つこれを進めれば、次がどうなるか。最終的に何が完成するのかを見越そうとするのが荒北という男の考え方だ。
しかし今の彼は完全に感情だけで動いている。まだ眠い。起きたくない。何もしたくない。でもそこにはそれだけではなくて、側にいる人間への甘えが見えている。福富ただ一人にしか見せない甘ったれた姿である。仕方ない奴だな、と思う福富も福富である。決して口には出さないが、福富は荒北のその姿も堪らないほど好きなのだからどうしようもない。
福富が手を伸ばして、荒北の跳ねた後ろ髪を撫で付けると彼は具合良さそうに大人しくしている。寝るなよ、と福富が注意するとまた低く唸った。手を滑らせて耳の裏をなぞるとくすぐったそうにちょっとだけ身を捩る。髪と布団の隙間で晒された項を撫でたのがひやりとしたのか荒北が身を竦めるのがわかった。
『なァんだよ』
間延びしたような声で荒北が言いながら福富の方を見る。笑っている。完全にというわけではないが、目は覚めたらしい。機嫌良さそうに口元に笑みを浮かべたまま、荒北は福富のされるがままになっていた。首筋をなぞる指先を落とさないようにしながら荒北は起き上がって布団を退けると、真似するみたいに彼が福富の首の後ろに手を引っ掛ける。
『おはよォ』
『おはよう』
福富がそう返すのをきっちり聞いてから荒北はちょっと乱暴に彼を引き寄せる。礼儀正しいんだかどうなんだか、と思いつつも福富は彼の好きにさせている。舌が伸びてきて口の端を舐める。口を開いたところに滑り込んできた荒北の舌を唇で緩く挟むと、楽しげに彼が喉を鳴らすのが聞こえた。そこまで深くは探らない。穏やかな挨拶ぐらいのキスである。
『食堂開いてないんだっけェ』
唇を離した途端荒北はそう言った。補給食なら部屋にあるぞと福富が返すと味気ないと首を振る。
『コンビニでも寄ろうぜ、腹減った』
『それなら道の駅かどこかで食べないか』
『アア、いいなそれ』
そう言いながら荒北はベッドから脚を下ろす。彼が立ち上がるのと同時に福富も立ち上がって、じゃあ後で、と短く告げた。荒北はそれに軽く返事して軽く手を振る。
『すぐ行くヨ』
荒北のその言葉を聞いてから、福富は部屋を出た。
その後荒北は本当にすぐにやって来て(まだ福富は着替えを終えていなかった)、そうしてそれから少し経ってから二人は寮の玄関扉をくぐった。駐輪場の、隣あって並んでいる自転車をそれぞれに取って跨ると、昨日相談した通りのルートを進んでいく。
坂を登る。寮から箱根学園までの、通い慣れた道である。山の頂上付近にある学校まで続くこの一本道を毎朝登る度に、どうしていちいちこんなに面倒なところに学校なんて作ったんだと荒北は不満に思うが、その一方で朝の軽い運動には悪くないとどこかで思っているのも事実だった。毒されているのだろうか。いつの間にか、福富と同じように彼の生活の中心もすっかり自転車になってしまっていた。
学校の前を通り過ぎて今度は下りに入り、少しだけ走ってから脇道に逸れる。木立の影で薄暗い道をしばらくゆっくりと進んでいくと、急にぱっと視界が明るくなった。道の横に沿うようにして生い茂っていた林を抜けたのだ。なだらかな下り坂。緩やかなカーブを曲がっている最中ずっと、山の麓にある街が見えていた。見下ろす景色の中にいくつも花が咲いている。近く山の腹には寒さの残りのような梅が、遠くにはちらほらと薄い色の桜が咲き始めている。風が耳の横を流れていく。朝の白っぽい日の光が目に映るもの全部を照らしていて清々しいような気分になる。気持ちいいな、と思いながら荒北は深く息を吸った。
そこでふと、何とはなしに荒北は背後を振り返ってみる。視界の端に金髪が光る。福富は彼の後ろでペダルを回しながら、目を細めて遠くの景色を眺めている。
『晴れて良かった』
それが荒北に向けられたものなのか、それとも福富の独り言なのかはわからない。だがその言葉が聞こえたとき、荒北は無性に嬉しいような気持ちになったのだった。福富も彼と同じように機嫌がいいらしい。表情にも言葉にもあまりそういうことを意識的に出さない男である。そんな彼がこういうときに無防備に出す雰囲気が荒北は好きなのだった。
山肌をなぞるような長々とした道を進んで、山の中腹にある道の駅までたどり着く。観光シーズンだからか、まだ朝の早い時間でもそれなりに客がいた。ハイキングらしい格好の人たちの間を抜けて、二人は食堂の隅に座って食事をとった。
『なんかオレ達も旅行で来てるみてえ』
正面に座っている福富に向かっておかしそうに荒北はそう言った。中身の空になった丼鉢の載ったトレイを脇に退けて頬杖をついて、楽しげに笑っている。
『財布と自転車だけで』
『悪くないだろォ。青春っぽいし』
『…野宿でもするか?』
福富がそう言うと荒北は耐えきれなくなったように噴き出して声を上げて笑った。腹くちた荒北が満足げな目をしてこちらに視線を向けてくるのを見ていたが、福富はどうしてだか落ち着かない気分になって目を逸らした。一瞬やましいことを考えたのが伝わってしまっていないだろうか、とこっそりそちらを窺うように視線を向ける。荒北は別段それに気付いた様子もなく大欠伸を一つして『帰ったら昼寝しよう』とぼんやりした調子で福富に言った。
『寝てる間に変なことすんなよォ?』
福富は荒北のその言葉に思わず一瞬たじろいで、それからいつもの調子で当たり前だ、と返す。荒北はちょっと人の悪い顔をして笑っているが、しかし冗談めかしたその言葉がまさか図星だとは彼は気付いていなかっただろう。
○○○
その時の言葉通り、寮へ帰ってきて着替えてからすぐに福富の部屋へやってきた荒北は今ぐっすりと彼の隣で眠っている。初めはただ二人で並んで雑誌を捲ったり、時々二三言葉を交わしたりと休日らしいぼんやりとした休憩をしていたのだが、そのうちに荒北の口数は減り、気付けば彼はすっかり寝てしまっていたのだった。
福富の肩に寄りかかるようにして荒北は眠っている。もう三十分近くのことになるだろうか。肌寒そうだと思ってブランケットを被せてやったのが良かったのか(それとも悪かったのか)彼は少しも目覚める気配がない。
窓からは春の暖かい日差しが差し込んでいて、腹は満ちて、何の気兼ねもない休日のことだ。当然こんな日に昼寝をするのは気持ちいいに決まっている。だが福富が彼と一緒になって眠ることが出来ないのは、あるやましい感情のせいだった。
部屋は静かである。荒北の寝息と、それから思い出したようパチパチと炭酸の弾ける音がする以外は。
ふと思い立って、福富は手を伸ばしてそのボトルを取り上げてみる。いつも荒北が飲んでいるのは青いボトルのものだが、今日は間違えて買ったのだと言ってほんの少し不機嫌そうな顔をしていたことを思い出す。
キャップを回すと、しゅっと音が鳴った。直接ボトルに口をつけてそれを飲んでみる。甘ったるい。炭酸が舌先を掠めてわずかに痛むのが彼は少し苦手だ。喉を通る間も、ずっとしゅわしゅわと音を立てている。
福富には赤のボトルと青のボトルの中身の違いはわからないし、それに炭酸飲料の、この何もかもを溶かしてしまいそうな感じも好きにはなれないだろう。けれども何となく、時折こうして飲んでみたくなるのは荒北が美味しそうに飲むからだ。
ぴりぴりする感覚が苦手だと福富が言うと、彼はそれがいいんだと言う。甘ったるい飲み物は苦手だと言うと、そのうち癖になると返す。荒北がそれを好きでいる感覚は福富にはわからない。だがふと気が付けば時々ボトルを手にしてしまっていることがある。それはきっと炭酸飲料が飲みたいわけではなくて、それに荒北の姿を見るからなのだろう。
炭酸がじわじわと骨を溶かして気付けば後戻り出来なくなっているように、いつの間にか福富は荒北にはまっている。毒されてるなんて言い方をしたっていい。この男だけが自分を駄目にするのだ。
一口飲んで、ボトルを元のようにテーブルの上に戻しながら福富はそっと荒北の方を見る。彼はわずかに眉を寄せて、静かに眠っている。今からしようとしていることに気付いたらこいつは駄目な奴だと自分を怒るだろうか。福富はそんなことを思いながら腰を浮かせて、身体ごと荒北の方に向き直る。
起こさないようにブランケットを肩の下辺りまで落として荒北の首筋に鼻先を寄せる。朝走ったせいか、少しだけ汗の匂いがした。たまらないような気分になって短く吐いた息が熱い。今、ここには二人っきりなのだ。心臓が大きく脈打つのを感じながら、福富はそっと自分のズボンのポケットに手を差し入れてその中身を確かめる。着替えたときに隠すように入れた、小さなパッケージは確かにそこにある。荒北がこれを見つけたら何と言うだろうか。恥ずかしくて考えたくもない。
福富はそっと荒北の身体の上に載っている毛布を退けて、それから彼の正面に座り直す。荒北の脚を持ち上げて開かせて自分の太股に載せてみて、ひどく自分が興奮していることに気が付いた。荒北の眉間に皺が寄る。寝苦しいのか、もう目覚めそうだ。福富は荒北の身体をゆっくりと掌で辿って、よく鍛え上げられた筋肉に触れる。どうしても気が急いて、性急に顔を荒北の方に寄せたせいで、彼の身体がひどく折り曲げられる。荒北がわずかに呻く声が聞こえた。起きるか、と思うものの止められず福富は荒北の方にぐっと顔を寄せ――
と、その時小さな音がした。
かさりと何かが落ちるような音である。荒北の首もとに寄せ掛けた顔をぱっと上げ、福富がそちらに目をやってみると何だか見たことのあるようなものが落ちているのが見えて、彼は手を止める。
掌に収まるだけの小さなパッケージ。
どこから落ちたのか。慌てて自分のポケットを探ってみるがそこにはきちんと中身がある。ならどこからこれは現れたのか。福富は視線で辺りをたどって、眠っているはずの男が自分のポケットに手をやっているのを見た。
「あ」
どこか間抜けな声だった。福富が声のした方に目をやると荒北が彼の落とし物を見て固まっていた。見開いていた目をきゅっと細めて眉を寄せる。何だか不機嫌そうな顔である。じわじわとその頬や耳元が赤くなっていくのを見て、ああ何だ、緊張していたのかこいつと福富は内心思って、そうして釣られて赤くなる。
二人とも言葉を失う。どちらも何も言えず、息も詰めたままだから聞こえるのは炭酸の弾ける音だけである。
「福ちゃん、あのさァ」
「荒北、その、」
同時に二人は言って、ぱっと顔を見合わせた。馬鹿みたいに二人とも真っ赤な顔をしている。それがどうにもおかしくて、思わず荒北が笑い出すと福富も耐えきれずに顔を手で覆った。似たもの同士である。きっと昨日から二人ともずっと同じことを考えていたのだ。馬鹿馬鹿しい、と荒北が笑うと福富もそれに頷いた。
「寝てる間はやめろって言ったろ」
「起きてたくせに」
「バァカ、寝てたっての。そういうことにしとけヨ」
荒北は手を伸ばして自分の脇に落ちている銀のパッケージを取り上げる。
「そうじゃねえとオレがこういうことに興味ねえみたいだろォ」
人の悪い笑みである。しかし真っ赤な顔でそれを言うものだから、福富はどうしようもなく彼が可愛くて仕方ないような気分になる。オレも馬鹿だがこいつも馬鹿だ。オレ達は二人で揃って相手を駄目にしてるんだ。そんなことを思いながら彼は荒北を見つめていた。
荒北が身体を起こして、福富の首に腕を回す。その手にあるパッケージが日の光に当たってちらちらと輝くのを福富は見た。
「二人っきりだなァ、福ちゃん」
【Fizz:(炭酸飲料などが)泡だって音を立てる/興奮する/だめにする】