他人のことを自分のものだと思うのは不自然なことだろうか。
当然、自分は自分のものである。自分の身体は当然自分自身にしか持てないものだし、これをどうにかしようと思ってできるのは自分の意思があるからに他ならない。心はどうかと言われれば、それだって当たり前のように自分は自分だから他人の所有物になることはない。自分は自分で、他人は他人。自分に自分があるように、他人にだって「自分」がいる。それは当然で自明のことだし、考えなくたってわかるようなことなのだ。
しかしそれでも、時々「こいつは自分のものだ」なんてことを福富は思ってしまう。
どうしてかはわからない。その言葉は彼の意図しないところでふっと沸いてくるものだから自分ではどうしようもないものだということぐらいはわかる。だがそれ以上、福富はそれについて何もわからないでいるのだ。
こいつ、とは今、彼の隣にいる男のことである。
ゆっくりとした足取りでだらだらと二人で帰り道を歩いている。隣にいる男はひどく猫背で、福富よりもずっと痩せていて、少し背は低く、それでいて彼よりも歩幅は大きい。「聞いたかよあの先輩、藤原、あいつオレのタイム見て鼻で笑いやがった」と苛立たしげに言いながら男はこちらを見て、福富がそれに反応を示したのを見ると「こっちはアイツなんか眼中にねーっつうの、ナァ」と同意を求めるように顎をしゃくった。その目が一瞬差した夕日にぎらりと光る。福富がそれに思わずぐっと息を飲むと、黙っているのを肯定とみなしたらしく、荒北は一人頷いていた。
「明日の練習は」と荒北は福富が言葉を挟むのを待たずに続けた。福富が口数の多い方でないことは出会って数ヶ月のうちにもうこの男の中で常識になっている。会話と言うよりはどちらかといえば一方的なものになっていないだろうかと福富は時々思うが、しかしそうであってもこれが不快ではないものだからそのままにしている。自分が考えている言葉を荒北は言う。さっきもそうだった。荒北は先輩の言葉に対して苛立っていて、福富にもそれは伝わった。しかし荒北はそれをただムカつくの一言で終わらせないで、まるで福富の言わんとすることをそのまま読み取ったような「前だけを見た」台詞を言ったのだ。福富が何も言わなくても荒北はそうして彼の意図を読み取ることがよくあった。まだ出会って一年も経っていないのに、それでもとても近いところにいるように思う。それがどうしてか心地いい。荒北のことを「自分のものだ」と思ってしまう原因の一つはきっとこれのせいだ。
明日のメニューについて一言一言考えながら福富がぽつりぽつりと話すのを、荒北は黙って聞いている。福富が隣に視線を向けると、荒北は前を向いていた。福富が一言何か言うたびに緩く頷く。たまに相槌を入れながら、彼は目を細めてどこか遠くを眺めているようだった。少し眠そうでもある。まばたきもゆっくりである。時折福富の方に視線を向けたり、言葉に応じてちょっと笑ってみせたりするから興味が無いわけではないらしい。いつも文句を言うたびに大げさに歪められる口元は今は閉じられているからやけに静かな印象を受けるのかもしれない。学校の中でも、部活中でも滅多に見せないような姿である。
荒北のこういうところを知っている人間がどれだけいるだろうか、と考えてみてから、福富はまた一つあの自分勝手な考えの原因を見つける。きっとこの学校の中で、福富だけしか荒北のこういう表情を知らないのだ。入学してやけにとんがっていたから、福富と出会うまではずっと一人で過ごしてきたというのもあるし、それに基本的に人と接することを好まないタイプらしく荒北は必要以上に人に近付かない。それに加えて他人に対してやけに威圧的な態度で接するものだから、周りは荒北のそういう面ばかりを見ることになるのだ。荒北がリラックスしているときの表情を知るのはきっと福富だけだ。目を細める、ゆっくりとまばたきをする、口を噤んで黙って頷く。こういう油断しきったような表情を、荒北は福富だけには見せるのだ。
荒北はきっと知らない。彼がこうして誰にも見せないような表情を福富にだけ見せるとき、福富がどんな気持ちになっているのかを荒北は知らないのだ。かといって福富自身だってそれがどんな気持ちなのかなんてわかっていない。ただ、それが自分だけのものだとふと気付いたときにはどきどきするし、少しだけ目も泳ぐ。自分の身体なのに自分のものではないような気分にさえなる。そうしているとふと頭に浮かぶのが「こいつはオレのものだ」という台詞である。急に沸いてくるその言葉は無意識のうちに出てくるからこそ彼の本心なのだ。
自分の頭や身体は自分のもののはずなのに、自分の意思とは離れて勝手にそういうふうに反応してしまう。これはつまり、自分が自分のものではなくて他人のものになってしまっているということなんじゃないだろうか。そうして自分がそうなるのなら相手だってそうなるんじゃないか。これは自分勝手な理論だが、しかし福富にはどうにもこれが間違っているようには思えない。なぜなら荒北と自分は同じだけの距離からお互いを見ているからだ。荒北が「絶対に離れない」と言った限りはその距離は変わらないし、福富だって離れさせるつもりはない。感情の質の違いはあるだろう。しかしそれでも、相手が考えていることと同じだけの重さのことを自分も思うようなそんな関係なのだ。
福富が明日の予定について一通り話し終えると、荒北は頷いて、それから大あくびをした。眠そうである。今日も馬鹿みてえにペダル回したからなァ、と彼は目を擦りながらからから笑った。そうしながらも眠気は取れないのか、彼はまた小さくあくびを繰り返している。一旦荒北は手を下ろすが、しかしまた目を擦るために彼は腕を持ち上げた。
ふと、そこで思いついて福富は手を伸ばす。目を擦りかけている手を掴んでみる。荒北はあくびで緩んだ目元のまま驚いたように福富の方を見て、なに、とぼんやりした口調で言った。しかしそれは別段拒否するような色のものではない。それがまた、なんとなく嬉しくて、福富は目を逸らしながらしっかりと手を握り直した。そうしてゆっくり手を下ろして、そのまま手を繋いだ状態で福富は歩き始める。
戸惑ったように「福ちゃん」と呼ぶ声がした。福富が振り返ってみると、荒北がなんとも複雑な表情をして半歩後ろをついてきているのが見えた。どうしたらいいかわからないとでも言うような顔である。
「嫌か」
そう福富は尋ねてみる。思わず低い声が出た。恐々出しかけたのを慌てて取り繕ったのが良くなかったのかもしれない。それを聞いた荒北は一瞬きょとんとした顔をして、少し悩むように口を噤む。そうして少ししてから「嫌じゃねえけど」とぽつりと落とすように返答した。
福富が荒北のことを「自分のものだ」と思う原因の最後の一つはこれがあるからである。
荒北は福富に甘い。他人に許さないようなことを、福富には許すのだ。きっと荒北には許しているという自覚はないのだ。無意識のうちにやっている。それこそ福富が荒北と接するときにどきどきしたりそわそわしてしまうのを止められないのと同じである。福富が荒北に対してある部分を明け渡しているように、荒北だってそうやって自分をくれてやってしまっているのだ。
福富は荒北のことを自分のものだと思っている。繋いだ手を握りながらも福富はそう思っているし、きっとこの先もそう思っていくに違いない。そしてその一方で、福富は自分が荒北のものだともどこかで感じている。それはされるがままに見えている荒北が、密かに手を握り返していることが示しているのだった。
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