もう少し眠りたくて目を閉じた。
わずかに肌寒さを感じて耳元まで布団を掛けてしまうと、もうダメだ。起きる気力もおはようを言う気力も今の俺にはないのだと荒北は早々に諦めて、シーツの間で右足と左足をすり合わせる。さっきちらりと横目に見た目覚まし時計はすでに八時半を回っていて、ああなるほど自分は寝坊したのだとすっかり荒北は理解していたが、どうにも身体を起こすのが億劫で、そのままじっとしているのだった。
背中をぐっと丸めて枕に右頬と右目を押しつける。昔からの癖だ。膝を腹の方まで引きつけて、まるで胎児みたいな格好で荒北は眠る。他人から見ればとても窮屈そうに見えるのだが、当の本人にとってはそれが一番落ち着いていられるのである。
一昨日出してきたばかりの冬用の布団からはまだわずかにナフタリンの匂いがした。こりゃあ週末にはもう一回干さないとなぁ、とぼんやり思いながら、とろとろと眠りに誘われていく。浅い眠りと深い眠りの間を行ったり来たりしているこの時が気持ちよくて。
枕の端を掴んでいた手を離して、荒北は片手で自分の頭を抱え込む。そうして鼻に引っ付きそうになるぐらい膝を近付けて、より一層小さくなる。今、布団の外に出ている身体の部分といったら髪ぐらいで、もうすっかりこの細長い男は白いシーツの中に呑み込まれてしまっている。自分の息の暖かさと、それから心臓の音だけを感じていた。今だけは何も見たくないし何も聞きたくないとふと荒北は思って、一つあくびをした。アア、とわずかに漏れた自分の声があんまりにも間抜けに聞こえて、荒北は浅い眠りの中で密かに喉を鳴らす。

そうしているうちに真っ暗だった瞼の裏が段々と白く霞んでいく。あ、と思ったときにはもう何も考えられなくなっていた。

緩やかに落ちていった眠りの中で、荒北は夢を見た。
彼は水の中にいた。空の色を溶かしたみたいな色の水の中にいた。不思議と息は苦しくなくて(それが夢だからだとかそういったことも不思議とその時は考えつかなかった)ゆっくりと沈んでいきながらただ水面が揺れるのを眺めていた。日の光がきらきらと輝いている。綺麗だと荒北は単純にそう思う。頬に当たる水の冷たさが心地いい。沈んでいく感覚も、そう悪くはなかった。背中に柔らかに水が触れている。水の中では何も聞こえない。
力を抜いて目を閉じる。下から引かれる感触に身を任せているのは楽だった。何も考えなくていい、何も考えなくていい、何も聞かなくていい。息継ぎも無しに沈んでいきながら、誰かがそう囁くのを聞いていた。

ーーずっとこのままこうしていられたら。

頭にそんな言葉が過って、はっとして荒北は目を開ける。
(行かないと。)
だらりと弛緩させていた腕を持ち上げて水を掻く。今まで軽かったはずの水が急に質量を持って身体に絡みついてくる。いつの間にか随分深くまで潜ってしまった。荒北はふと後ろを振り返る。暗く、底は見えない。心地いいと感じたのはきっと少し前まで自分があの一番下にいたからだろう。何もかも失って、何も考えたくなくて、俺はあの場所にいたのだ。手で水を掴みながら水面の方へとどうにか向かおうと荒北はもがく。もうあそこに戻るわけにはいかない。自分を引き上げてくれたあの男がいる場所へ向かわなければ。あいつの隣へ並ぶために、俺はもう沈むわけにはいかないのだ。
水面がぎらりと光って目を刺した。
ごぼりと口から気泡が溢れる。手で口元を覆うが、壊れてしまったみたいにどんどん空気が体から漏れだしていく。

進まなければならない。けれども進めない。

(苦しい)
ごぼごぼと口から溢れていくものは本当に空気だけだろうか。手を伸ばす。水面はまだ遠く届きそうもない。それでも手を引っ込めることも、戻ることも出来ない。荒北に出来ることはもがくことだけだった。ただひたすらに水を掻いて、脚を動かして、手を伸ばすーー


「ーー。」
聞こえないはずの声が聞こえて、荒北は顔を上げる。眩しくて見ていられなくて目を閉じようとすると、ぐいと引き上げられるような感覚に襲われた。
「荒北。」
薄く開いた目に、見慣れた金髪が映る。

「ーーあ、福ちゃん、」
ほとんど無意識に荒北はそう口にして、荒北はぼんやりとそちらを見た。まだ目は開ききっていなくて、それが夢なのか現実なのかも区別はついていないようだ。ああ福ちゃんが俺を引っ張りあげてくれたのか。そう納得しながら、荒北はシーツにだらりと身体を投げ出していた。
そのうちに、自分が腕を捕まれていることに彼は気が付く。手首の少し下あたりに堅い手のひらが当たっている。徐々に感覚が現実の方へと戻り始める。自分の背中がじっとりと湿っていることに荒北は気付いた。ここが水の中なんかじゃなく、自分の部屋だということも。そして呼吸が随分と楽なことにも。

「うなされていたから起こしたが、大丈夫か」
福富がそう言って顔を覗きこんできてからようやく荒北はさっきの光景が夢の中のものだったのだと理解した。「今、何時」と尋ねた彼の声はひどく掠れている。福富が律儀に十二時半だと答えるのを聞きながら、荒北は重たい頭を起こして彼を眺めていた。日の光を通して、福富の髪はまるで光そのものみたいに見えた。綺麗だな、とぼうっと見惚れていると、不意に福富が荒北の方へ空いている方の手を伸ばしてくる。
「具合が悪いならちゃんとそう言え」
熱がある、と福富は荒北の額に手を当てて唸るように呟いた。大したことねえよと言った荒北の声は確かに彼の耳に届いているはずなのに、福富は眉を顰めたまま荒北をじっと見つめるばかりだ。その視線があんまりにも真っ直ぐで、荒北は思わず目線を下にやった。額にあった福富の手がするりと動いてその目の下をなぞる。そこで荒北は自分がさっきまで泣いていたらしいことに気付いたのだった。

「なんで福ちゃんここにいんの」
福富が一度手を自分から離してベッドに腰掛けるのを見ながら荒北はそう声を掛けた。いつもだったら食堂へ行くか購買へ走っている時間である。昼飯はどうしたんだとか、そもそもどうしてわざわざこんなところまで探しにきたのかだとか、疑問は尽きない。
「昼になってもお前が来なかったから」
「サボりかもしんねえんだからほっときゃ良かったのに」
「お前ロード始めてからはほとんどサボってないだろう」
知ってるんだぞ、と視線で言われてしまって、荒北は反論しようもなく黙り込むことになった。なんでこいつが知っているんだろうとなんだか恥ずかしくなって荒北は福富を思いきり睨んでみたが、そんなことで動じる男ではない。まさか理由まで気付かれてたりしねえよな、と荒北は内心疑りながら鉄仮面を見つめる。しかし福富自身が照れたりしていないところを見るとそこはまだ大丈夫らしいと知れて、ようやく荒北はほっと息を吐いた。
(『お前のために授業ちゃんと受けるようになった』とか言ったらこいつどんな顔するんだろう。)
ほんの少しそんな考えが頭を過ったが、今でさえ照れ臭くて目を逸らしがちになるこの男がそんなことを言えるはずもない。
次にどんな言葉を続けるべきか考えあぐねて荒北が口を閉ざしていると、福富はどうやら違うように取ったらしく「担任や監督には言っておくから、今日はゆっくり休め」と言って俯く荒北の顔を覗きこんだ。なんとなくずれているような、そういうところがこいつらしいなと荒北は頬を緩めた。
二人はしばらく、ぽつぽつと言葉をこぼすように話していたが、ふと時計を見た荒北がもうそろそろ昼休みが終わるんじゃないかと言ったことで会話を打ち切った。
「一人で平気か」
「福ちゃん、ちょっと心配しすぎじゃナァイ?」
どこが痛いわけでも、それに苦しいわけでもないのにそんなに具合悪そうに見えるかね、と荒北は苦笑する。単に夢見が悪かっただけだから。そう荒北が言おうかと口を開き掛けたところで福富が立ち上がった。
「早く治せ」
「へいへい」
「へいは一回だ」
福富はそう言って、もう一度確かめるように荒北を見る。

(眩しい)
その時荒北は不意にそう思った。真っ直ぐにこちらに向けられる視線。それがさっきの夢の中で見た風景を思い起こさせた。水を通して目に飛び込んできたあの光の色と、福富の髪はよく似ていて、荒北は思わず目をそらした。
時々こうして彼を見ていられなくなることがある。余りに眩しくて、手の届きそうもない距離に彼がいることを自覚してしまいそうになるからだ。いくら練習してもあの場所には届かないんじゃないだろうか。自分なんて彼にとって何の意味もない存在なんじゃないか。そんな不安さえ覚えることもある。そいつはいつもは荒北の身の内にひっそりと佇んでいるけれども、ふとした瞬間、たとえばさっきみたいな何でもない瞬間になってから突然彼の首を絞めるのだった。それは泳いでも泳いでも届かない水面によく似ていて、一瞬過ったさっきの夢の中の光景が急に恐ろしいものに荒北には思えた。

喉で詰まってすっかり掠れてしまった返事をどうにか絞り出して、それから荒北は早く行けと福富の背を押す。自分が考えていることを気取られたくはなかった。遅刻すんなよ福ちゃんと彼はわざとからかうように言って笑ってはみたが、なんだかひどく寒気がした。
夕方までには治して早く練習に戻らないと。早鐘を打つように心臓が鳴っている。この感覚はまずい。何かしなくちゃいけないのに何も出来ないということがそれを増長させていた。軽く視界がぼやけて、自分が少し泣きそうになっていることに荒北は気付いた。ぐんにゃりと視界が歪んで落ちていくようなイメージが浮かんだ。苦しい、と口に出すことはたやすいがそうしてしまった瞬間に何かが自分の中で終わってしまうだろうということが見えているから荒北は言えない。吐き出せない言葉は水と同じだった。

荒北は口を閉ざして奥歯を噛んだ。幸い福富はもう背中を向けている。ドアノブが回る音がしたのにほっとしてわずかに口を開くと急に視界が緩んで、荒北は慌てて唇を噛みしめる。じわりと咥内に鉄の味が広がっていく。何とも言えない、何と言うことも出来ない味だ。耳鳴りがする。まばたきをして目をもう一度しっかり開くと彼の後ろ姿が見えた。お願いだから振り返らないでくれ。荒北はそう思った。頭が痛くて目を細めながらも福富の背中からは目が離せない。ちかちかする。あの金色に手は届かないと不意にそんな想いが走って、途端にざっと血の引く感覚がした。
は、と息を吐く。それさえ震えているような気がしてまた動けなくなる。手を伸ばしてもどれだけ走っても俺は彼の隣に並ぶことは出来ないかもしれない。あの背中にさえ届かないかもしれない。
(怖い)
荒北はその時初めてそう思った。そうして愕然と福富の背中を見つめていた。思考が堂々巡りを繰り返す。居ても立ってもいられないのに身体が言うことを聞いてくれないのがもどかしくてたまらなかった。もっと回さないと、少しでも追いつかないと。そればかりだ。

「どうした」
荒北、と呼ばれてようやく福富がこちらを見ていることに気付いた。荒北は何も言えなくて、ただ唇を噛んで黙っていた。言いたいことはある。けれども今、それを言うわけにはいかない。隣に並ぶまでは俺は何も言えない。何でもない、と早口で荒北は返事して目を逸らす。

「荒北、」
もう一度呼ばれたのに荒北は応えなかった。俯いたまま遅刻するよ福ちゃん、と言ってそのまま身体を後ろに倒す。布団の中に潜り込んで身体を丸める。このまま早く眠ってしまいたい。眠って、すぐに目覚めてまた走り出したい。心臓が打つ音ばかりがうるさかった。見ないで欲しい。すぐに追いつくから。それまでは、

「荒北、聞け」
視界が急に明るくなる。あ、と思った瞬間には被っていた布団は剥がれごろりと身体を転がされていた。見上げた先にあるのは思った通り金髪で、眩しくてたまらないのに荒北は目を逸らすことができなかった。
福富は荒北の肩を軽く押さえ、じっと彼を見下ろしている。ぎし、とベッドが軋んだ。その音が直接背中に響いてわずかに身体を跳ねさせた荒北を宥めるように、福富は今度はゆっくりと名前を呼んだ。それがまるでひどく大事なものを扱うようなもので、荒北はまた動揺する。
一言でも口にしてしまえば何かが崩れてしまいそうで、荒北は何も言えずにじっと福富の言葉を待っていた。福富は黙って何か考え込んでいる様子だったが、しばらくしてからゆっくりと口を開いた。
「焦るな」
福富は言った。
「焦らなくていい。ただ、振り返るな」
自分がどこまで来たか、今どの辺りにいるかを確かめようとはするな。その考えは人を立ち止まらせる。振り返ったその一瞬で、あっという間に薄暗いところへと引き込まれてしまうのだ。福富はそう言って荒北を見た。

「前を見ろ。前だけを見ていろ」

ああ、と荒北は小さく声を上げて、それから手のひらで目を覆う。この男は何もかも知っている。自分が苦しいことも、そうしてひどく焦っていることも全部見抜かれてしまっている。こいつにだけはバレたくなかったのに。荒北はそう思うが、しかしその一方で胸の奥につかえていた何かが段々と消えつつあることにも気が付いていた。

(かなわねえなァ)
声にすることも出来ずに心の中で口にする。手を外すことも出来ないから荒北には福富の表情は見えないが、きっとそこにはいつも通りの鉄仮面があるのだろう。
福富は揺るがない。ただひたすらに前を目指している。それが一番正しいことだと信じきっているように、彼は進んでいくのだ。
その姿にはどこか傲慢な影もあるように思うが、それでも荒北は彼に付いていきたいとその時改めて思わされたのだった。

「練習が終わったらまた来る」
福富はそう言ってベッドから立ち上がる。スプリングが軋む音に荒北はそっと顔から手を外して、そちらを見た。
福富はもう背を向けている。荒北は何も言わずに彼を見送りながら、自分の前にはあの背中があるのだとじっとそれを見つめていた。


【Sink:(水面下などに)沈む、落ち込む、陥る[原義:人が倒れる]】