なんとはなしに窓の外に目をやると、眼下を行く背中が見えた。
あ、と口には出すもののわざわざ二階から声を掛けてまで話すようなこともないし、それにそのせいで授業に遅れさせてしまうのも気が引けたから、俺はそのまま黙って見送ることにした。
次は体育なのだろう、秋口に入って早々にジャージを着込んだ荒北は、少し猫背気味のいつもの格好で大股に昇降口へと続く渡り廊下を歩いていく。見下ろしてみると余計に薄っぺらく見える身体を眺めながら、ふと昨日の夜からずっと「もう寒い」と文句を垂れていたことを思い出した。一欠片も余分な肉の無い身体には寒さはひどくこたえるらしい。今はポケットの中に突っ込まれているあの手はきっと冷えきっているだろう。昨日触れた指先の感覚がまだ頬に残っている。あの時の、まるで凪いだ海みたいな静かな様子と今歩いている姿の余りの違いに思わず口元が緩むのを、俺は誰にもばれないように奥歯で噛み殺した。


***


荒北の歩くスピードは速い。
その長い脚を目一杯広げて、肩で風を切るように歩く。脚を動かす速さが、というよりかは一歩一歩の歩幅が非常に大きいからそれだけのスピードが出るのだろう。せっかちな性格そのままに人混みを裂くように歩く姿は、レース中に道を切り開く時のそれとよく似ている。背筋を丸めて、軽く前傾姿勢で。その歩き方は一見不機嫌なのかと周りに思わせてしまうこともあるが、本人はそれで至って自然体なのだ。長身と相まって、なかなかの威圧感を醸し出してしまっていることに荒北自身もきっと気付いているのだろうが、しかしそれを直そうとしないあたりこいつらしいと思う。

「お前は他人と並ぼうとしないからモテないんだぞ、荒北。」
かつてこんなことを東堂が言ったことがある。

それはいつかの放課後、テスト前の部活停止期間のことだった。教室に居残って、四人で雁首揃えて勉強を(と言ってもほとんど荒北は勉強に免疫の無い東堂と新開に教えてばかりだったが)していた。これがこうなってこうなるんだよ。えっ、ちょっと待ってわかんない靖友もう一回。こんな会話が延々と繰り返されている、いつものテスト前の光景がそこにあった。そしてまたこれもいつものように、こちらを伺うように教室の入り口に立つ影が現れた。
「あの、お勉強中すみません。」
新開先輩、とか細く震える声がしたのに目を向けると、そこには小柄な女子生徒が立っていた。ああまたかと呆れたように息を漏らす荒北、興味深げに新開を見やる東堂。新開はわずかに苦笑しながらゆっくりと立ち上がり悪いなと一言だけ残してその女子生徒と連れだって去っていった。
「どうせ彼女にする気が無いんなら行かなくてもいいんじゃねえの。」
そのとき荒北がトゲのある声でそう言ったのに対して、東堂はさっきの台詞を返したのだった。

東堂の言うにはこうである。
「人に好かれようと思うならばまず人と近くならねばならない。精神的にしろ、物理的にしろだ。お前には努力が足りんのだよ荒北。他人と並んで歩くことすら嫌がるお前がモテるなど道理に叶わないだろう。」

その言葉に対して荒北はなんでてめえにそんなこと言われなきゃなんねえんだよといつもの剣呑な口調で返して東堂を睨みつけていた。しかしそれでたじろぐような奴ではない。もう一言二言、お前には思いやりが無いのだとか優しくないだとか東堂は重ねて目の前の男に言い募ると、最後にびしりと指を突きつけて「努力が足りないのだ」と荒北に向かって言い放った。直後に鉄拳が飛ぶことなど予想できたことだろうに。ごつりと鈍い音が響くのと、東堂の鋭い悲鳴が聞こえるのは同時だった。


荒北は決して異性にモテないというわけではない。
確かに口を開けば悪態ばかりだし表情は豊かだがそれだって笑顔よりかは怒りだとか苛立ちだとか、そういった刺々しい感情ばかりを現すのにばかり使われてはいるが、それでも黙ってさえいればみてくれは悪くない。自転車競技部の他の面子に比べてみれば痩せて見えるが、注意して見ればその身体には満遍なくしなやかな筋肉がついていて非常に均整が取れていることがわかる。すらりと伸びた手足。姿勢は余り良くないが、スタイルはいいと言って差し支えないだろう。
顔だって(惚れた欲目かもしれないが)整っていると思う。切れ長の目は独特の色気を持っていて、長い下睫が落とす影に時々息を呑む。薄い唇は閉じられているときには静かに綺麗なラインを描いているし、鼻は低いがバランスはいい。触れてみれば流れるように指を滑っていく髪も、そこから覗く形のいい耳殻も、魅力的だと俺は思うのだ。

それでも荒北にそういった浮ついた噂が流れない理由の一つとして、『他人に関しての無関心』があるというのは東堂の言うとおりかもしれない。

同性だろうが異性だろうが、荒北は平等な態度で接する。悪態も皮肉も誰にだって平気で吐くし、自分の不機嫌さも隠そうとしない。荒北にとって見ればきっと他人が自分をどう思っているかだとかそう言ったものはどうだっていいのだろう。頭の回転の速い奴だから、それは気を遣えないからだとか他人を思いやれないからだという理由から来る態度ではなくて、ただ単にあいつ自身が「必要がない」と判断しただけのことなのだ。

あいつにとっては他人なんて全く以てどうでもいいもので、それこそ他人のために歩幅を合わせるだとか、ゆっくり歩くだとか、そういったことは無駄にしか思えないのだろう。


「別に俺ァ一人っきりにだけモテりゃあいいんだよ。」
そうこちらにだけ聞こえる声で呟いて、荒北は含み笑っていた。涙目の東堂がぎゃんぎゃんと叫ぶのを聞き流しながらちらりとこちらに向けられた視線の意味を知っているのは俺だけなのだ。


***


「福ちゃん。」
呼びかけられて振り向くと、駆け寄ってくる見慣れた姿があった。立ち止まって追いつくのを待ってやりながら俺はぼんやり考える。俺の他に、荒北の歩調を変えさせる人間はどれほどいるのだろうかと。

「さっき見てただろ。」
追いついた途端にそう言って荒北はにやりと笑った。体育後でまだその頬は上気したままだ。俺が首を傾げながらさっき、と聞き返すと、二階から見てたろ、と荒北は少しじれたような声で言う。
「なんだ、気付いてたのか。」
「そりゃあ、まぁね。福ちゃん目立つからさァ。」
隣に並べた肩が揺れる。くつくつと喉の奥で笑いつつ、荒北は俺を見つめていた。猫背のせいで、わずかに下からのぞき込むような格好だ。黒い光彩にちらりと金が映るのを俺は見た。

「なんとなくわかるんだよねえ、福ちゃんが見てると。」
吊り上がった唇に息を呑んで、俺の脚は歩幅を縮める。そうすると荒北もゆるりと歩く速度を落として俺に合わせてきた。それがさも当然というように、全く以てそれは自然な動作だった。
「俺さ、福ちゃんのその目好きだよ。」
俺だけ見てるときのその目。低く囁かれたその声がくすぐるように俺の鼓膜を揺らす。その音の余韻が驚くほど甘い。荒北のこんな声を聞いたことがあるのはきっと俺だけだ。
「だから俺だけ見ててよねェ。」
声だけではない。楽しげに細められた目も、ほのかに赤く染まった頬も、自然に緩んだ口元も、そしてこうしてゆっくりと他人に合わせて歩く姿も、きっと全部見たことがあるのなんて俺ぐらいだろう。

荒北は他人に対して平等だ。
ただ一つ、「俺以外」という例外を除いて。

「お前も、」
俺がすっと肩を寄せると、荒北の指先が俺の手に触れた。昨日とは違って、血の通った温かさがある。この温かさもあの冷たさも、きっと俺しか知らない。

「他の奴の隣なんて歩くなよ。」
目を合わせているのが気恥ずかしくなって俺は視線を前に戻す。荒北は驚いたようで少しの間言葉を失っていたが、しばらくしてから俺の手を掴んで、肩を震わせて笑った。



【Walk:歩く[原義:転がりまわる]】