※女体化注意





『猫が首輪を付けろとせがんでくる』

最近福富を悩ませている専らがそれである。
猫はーーいや、この時点では狼と言った方がいいのだろうか、ともかくそいつは夜な夜なふらりと福富の部屋へやってきては一声鳴いて、目で口で手で身体全体で彼を追いつめるのだった。


「ナァ福ちゃん、」
今日もそいつは彼の部屋へ来て、後ろ手で閉めた扉を背に口元をちょっとだけ持ち上げて笑っている。わずかに俯いているために少し伸びた前髪が目の上に掛かって影を作っていた。いつもは険のある視線は今この瞬間ばかりは凪いでいて、目立つのは色気ばかりだ。すらりとした、どちらかと言えば痩身と表現した方が近いであろう体つき。日焼けしていない白い鎖骨のラインが蛍光灯の光を反射している。唯一の持ち物であるペットボトルを緩く揺らしながら、けれども福富から視線を外すことはない。完全に肉食動物のそれである。福富はベッドに腰掛けたまま、口を一文字に引き絞りただただそれを見つめていた。
かしゅん、とボトルの蓋が開く音がするのをきっかけに福富は目を逸らす。ドアの鍵が閉められる小さな音が聞こえたが視線は前に向けたままだ。見てはいけない、見てしまえば一瞬で喉元に爪が突き立てられるだろう。そんなことを思って福富はわずかに瞑目した。

「ふくちゃん」
今度は甘えるような声だ。心地よい声に誘われて視線を向けてしまいそうになるのを堪えて、福富は開いた目で床を見つめる。
「ナァ、こっち見てよォ」
ベッドのスプリングが軋んで、手が肩に掛かって、それから首に腕が回される。耳元に吐息を感じて反射的に顔を上げそうになるのをぐっとこらえながらそれでもそのままじっとしていると、さらに後ろから体重を掛けられた。背中に温かく、そして柔らかいものが当たっている。

「荒北、やめろ」
そこでようやく福富は口を開いた。感情を押し込めたような声で福富がそう言ったのは聞こえているはずだが、腕の力は弱まらない。それどころか耳の後ろに唇を当てて「なァんで」と囁くものだからたまったものではない。
「こら、」
「嫌ァ?」
「嫌ではないが、しかし、」
「しかし?」
「その、困る」
福富のその台詞に弾かれるようにそいつは笑う。振動が直接身体に伝わってくるのに福富は身じろいだ。意識してはならないと思うのに、こうやって実際に触れている感覚があるせいで台無しだ。福富が眉間に深く皺を刻んだのには気付いているだろうに。それでも緩まらない腕の力と笑い声に福富は小さく溜息を吐いた。
「何だよ福ちゃん」
それを咎めるようにして後ろから声が聞こえる。まだ笑みを含んだ声音だ。俺とお前の関係だろ、と言った声がまた柔らかくてくすぐったい。やめないか、と言った自分の声が掠れているのに気付いて福富は頭を抱えたくなった。
鈴を転がすような声が鼓膜に響く。蜂蜜を溶かしたみたいな、そんな音だ。首筋のあたりに触れる他人の息にえもいわれぬ感覚に襲われそうになって、思わず福富は唇を噛んだ。
荒北、と窘めるように名前を呼んでみても後ろからのくすくすという笑い声が途切れることはなかった。それどころか福富の心中をわかっているくせに、より一層頬を擦り寄せて、荒北は言う。

「恋人がこうやって誘ってんのにつれないネェ」
悪びれもせず、けれども少しだけ焦れたような言葉尻で荒北はそう言い、福富の首筋に緩く歯を立てる。福富は口ではやめろとそれを制止するものの押し返せもせず、ただじっと床の方ばかり見ていた。
なぁ福ちゃん、とまた荒北が彼を呼ぶ。しかし福富は振り向かない。いや振り向けないのだ。

ハァ、と荒北がわざとらしく溜息を吐いた。それに身じろぎしたものの、そちらに視線さえ向けない福富を見ながら荒北は眉を少し寄せ困ったような顔をする。福ちゃん、ともう一度口にしてから、荒北は彼に再度抱きつきながらこう言った。

「折角女になっても福ちゃんは抱いてくれない」

福富の首筋に寄せられる黒髪の感覚は変わらない。けれども背中に当たる胸の柔らかさは完全に男のそれではないし、それに耳をくすぐる声の高さもそして頬に触れてくる手の大きさも、男のそれではなかったのだった。


『猫が首輪を付けろとせがんでくる』
これが最近夜になるたび福富を悩ませる専らの理由である。


***


荒北曰く、それはアレルギーと同じようなものなのだそうだ。
「そう、花粉で鼻がムズムズしたり東堂が猫触って蕁麻疹出したりしてんのと一緒なんだって」
要は体質だ。梅干しを食べたら唾液が出ることや欠伸をすれば涙が出るのと同じぐらい、「荒北靖友はゴガ・コーラを飲むと女になる」ということは普通で平々凡々でありふれた身体の仕組みの一つなのだと本人は言うのである。
しかしそうなんだって、と言われても、そうかと言って納得できるかと言われれば否である。
「いー加減納得してよォ福ちゃん」
「納得するとかしないとかの問題じゃないだろう」
「そういう問題にしときゃいいじゃん。どうやったって俺が女になんのは事実なんだからさァ」


***


その(荒北が言うには)体質について福富が知るところとなったのは、一年前のある日のことだった。
その日にはレースがあって、福富と荒北はそれに出場していた。二人が組んで五戦目。もうすっかりアシストも板に付いた荒北と、そして名高く確かな実力を持つ福富が「常勝コンビ」であると呼ばれるようになり始めた頃のことだ。
秋も深まった峠道で行われたワンデーレースはほとんど市民レースのようなものだったから、二人が優勝を奪い取るのは造作もないことだった。赤く染まった木々を眺めながら悠々とゴールした二人を監督も満足げな様子で出迎えて、普段あれだけ荒北のライディングスタイルに対して渋い顔をするコーチも大会のレコードを大幅に塗り変えた結果のせいか何も言わなかった。
悪くない。そう福富自身も思ったことを覚えている。荒北はと言えばカーブの入りが甘かっただとかもう少し早くにアタックをかけていればもっとぶっちぎれただとか少々満足していない風にぶつくさ言っていたが、いつもより口数の多いその様子に彼が内心嬉しがっているらしいことを福富はわかっていたから、ただそれを微笑ましく眺めていたのだった。
小規模なレースだったから表彰式も簡素なもので、レース後の汗もまだ引かないまま二人は帰り支度をしていた。輪行袋に自転車を入れながら行われる、レース後の倦怠に任せたようなだらだらとした会話。マネージャーはレース中に荒北が作ったいくつものかすり傷を手当てした後すぐに出て行ってしまったし、監督たちも一足先に駐車場の方へと向かったからそこには二人きりだった。福富はベンチに腰を下ろし、荒北が作業をするのを眺めている。荒北が人一倍丁寧にそのロードを手入れをする理由を福富は知っているから、彼は何も言わずにその背中を見つめているのだった。そういうところが好ましい、と福富は内心ふと思いはしたが口に出すことはしなかった。
しばらくして荒北がふっと息を吐いたのを聞いて、福富はパイプ椅子から立ち上がる。彼の頭に乾いたタオルを掛けて、マネージャーが用意しておいてくれた紙コップを手渡してやると、荒北は低く掠れた声で礼を言ってからゆっくりと身を起こした。立ち上がって向かい合った彼の髪をタオルで拭いてやりながら、福富はわずかに目を伏せ眠そうにしている荒北の表情を見た。濡れた前髪が額に貼り付いているのを払ってやるとようやく荒北は福富の目を見て、「今日のはまぁ悪くはなかったんじゃねえの」といたずらっぽく笑った。
「まだ満足するには早い」
「わかってらァ。福ちゃんも俺がここまでしか出せねえなんて思ってんなよ」
悪びれもしないその言葉に福富は、期待している、と彼には珍しく頬を緩めながら言った。荒北は照れくさそうに目を逸らして、それから誤魔化すように手に持った紙コップをあおった。

げっ、と荒北が盛大に顔を歪めたのはその次の瞬間のことだった。

「これベプシじゃねえじゃん」
荒北はひどく眉を顰め非常に嫌そうな表情をして手元の紙コップに目をやる。何だか焦ったようなその動作に福富は少し驚きながら、首だけ振り返って背後の机の上に置かれたペットボトルを見た。
赤いラベル。
確かにそれはいつも荒北が好んで飲んでいる銘柄の物とは違うもので、きっと誰かが間違えて買ってきたのだろう。

「そんなに違うものか」
福富は真っ直ぐに向き直って、荒北の手の中にあるコップを覗き込んだ。黒々とした液体は彼の目にはいつも荒北が飲んでいるそれと変わりないように見えて、福富は首を傾げる。愛好者ならではのこだわりがあるのだろうか。

無理に飲み干さなくてもいいんだぞ、と福富は言うが返答はない。不審に思い、福富は顔を上げる。
荒北は相変わらず渋い顔をしている。
しかしどうしてだろう、そこには違和感があった。
「荒北・・・?」
いつもより低い目線。俯いた顔にかかる髪はいつもと変わらないのに、頬のラインは普段より丸くて柔らかい。怒り肩は緩やかななで肩に。鋭く涼しげだった目元は睫に縁取られて、薄くてかさついた唇は赤みを得てそしてわずかに厚みを増している。
「いつか言わなきゃとは思ってたんだけどネェ」
ちょっと苦笑するみたいな声だった。
伏せられていた目が上を向いて、福富を見返した。
福富は何も言えずにいる。絶句という言葉は正にこういうことを示すのだろう。
上から見下ろすと日に焼けた首筋のラインがよく見える。そして白い鎖骨。窪み。前も閉じず羽織っただけのジャージ。布と布の間に見える肌と、それにーー

福富ははっとして目を逸らす。そんなはずは無い、とは思うのだがしかし実際に見たものを疑うことはなかなか難しい。レース中みたいに心臓が跳ねて苦しい。

「あのサァ福ちゃん、」
嘘みてえに思うかもしれねえけど、俺の言うこと信じてネ。荒北はそう切り出して、そっと福富の手を取り、そうして自分の胸に当てた。


***


信じろと言われたってそうそう信じられるようなことではないが、けれどもそれから現在に至るまでに何度も福富は荒北が「そう」なることを見て(また故意にではないが触れ)それが紛うことなき事実であると理解したのだった。

(「だから」俺はこいつと恋人になったわけじゃないのに)

二人が恋人になったのはそれからしばらく後の、ちょうど彼らが三年生になった春のことだったが、しかし荒北の「体質」がそれに関係したかと言われれば答えは否である。
確かに荒北と付き合うことになるまでに、福富は荒北のその姿を何度も見ている。けれどもだからと言って荒北のその姿に惹かれたというわけではないのだ。
荒北のどこが好きか、と考えたときに浮かぶのは普段の彼の姿だし、初めて好きだと言ったときも自分と同じ目線の高さだったことを福富は覚えている。初めて触れた唇だって、少しかさついたいつもの彼のものだった。
福富はそれまで自分が同性を好きになる質ではないと思っていたし、実際随分昔、幼い頃の初恋の相手は女性だったような覚えがあるから、荒北のことが好きだと気付いたとき、性別だとかそういったものがそこでは全く無関係なものなのだと知ったのだった。
荒北だってその自分の体質について受け入れはしているものの、良くは思っていないらしいことも福富は知っている。
だから荒北だって自分と同じように思っているのだと彼は考えていた。
いや、まだ考えているからこそ戸惑っているのだ。

『ナァ福ちゃん、』
いつもより随分高い声。語尾を伸ばす癖は変わらないのにそれがずっと甘く聞こえるのはなぜだろう。舌先で転がすみたいに自分の名前を呼ばれると痺れるみたいな感覚に襲われて、つい手を伸ばしたくなってしまう。
だがその誘いに本当に乗ってしまってもいいものだろうか。
髪も目も、何もかもそれは荒北靖友という男のものだということはわかっているが、しかしそれは本来の彼のものではない。触れてくる手はいつものそれよりも小さくて細い。身体全体も、普段の鋭利なラインではなくどこか丸みを帯びたような柔らかなものに見える。それは普段の彼とは全く違った、まるで別のものなのである。

女である時の荒北を抱く、ということは普段の彼を否定してしまうということにはなるのではないか。
福富はそう考えるのだ。
一方を選ぶことはもう一方を選ばないということで、それは見た目よりも簡単に決められるようなものではない。

(俺はどうすべきなんだろう)
福富を襲う悩みは夜毎に大きくなっている。手を伸ばせば荒北はそのまま受け入れるだろうが、しかしそれでは「彼」のことをないがしろにしてしまうのでないのか。そんな考えがずっと頭の中で回り続けているのだ。堂々巡りを繰り返している。そうして時々不意に思い浮かんでくる「卒業」という二文字も彼を追いつめる。インターハイが終わったこと、これからのこと、今までのこと。全てが回り回ってどうしようもなくなってしまっているような気がする。袋小路に陥ったような感覚がずっと続いているのだった。


「寿一、寝不足か?」
隈ひでえぞ、と少し眉を寄せながら新開が言う。昼の、騒がしい食堂の中では不釣り合いなぐらい厳しい顔をしていたらしく、正面に座っている東堂も心配そうに覗き込んでくる。福富は一瞬言葉に詰まって何も言わずに二人を見て、それから何でもないと低く口にした。
「何でもねえって顔じゃねえぞ」
「…そんなにか」
「後で鏡見てみろよ」
もう真っ黒だぜ、と新開は自分の目の下を人差し指でなぞってみせながら福富に言う。口振りは柔らかいものであるが、しかし本当に心配しているらしい。その後、渋い顔をしている福富の肩を叩きながら寿一、と名前を呼んで新開は彼の顔を覗きこんだ。
「インハイだって終わったんだ、ちょっとぐらいは気抜けよ」
そうしたいんだがな、とは福富は口に出さずにただ頷いただけだったが、長い付き合いのせいか新開には読みとられてしまって少しだけ苦笑された。何を、という具体的なことはわかっていないはずだが、どうにも弱っているということはバレてしまっているようだ。

「悩みがあるなら聞くぞ」
東堂がペットボトルを傾けながらそう言うのにありがとう、と福富は応える。しかしながらどう説明したものかもわからなくて、なかなか言葉を継ぐことができない。荒北の体質はもちろん、福富と荒北の関係については誰にも言っていないし、これから先だって言うつもりも無いのだった。
「進路のことか?」
「いや、そういうわけじゃないんだが」
話を切り出せずにいる福富の横顔を眺めながら、新開は二杯目のきつねうどんを啜っている。部活を引退してもう一月が経とうとしていて、練習量だってインハイ前に比べれば随分と減ったのにも関わらず彼の食事量は変わらない。いい加減にしねえとぶくぶくに太っちまうぞ、とここに荒北がいれば言っていたところだろう。東堂の隣の空いたままの席を二人に気付かれないようちらりと見ながら、福富は眉間の皺を深める。昼下がりの穏やかな日差しは、こんな話をするにはちょっと明るすぎるんじゃないだろうか。まさか「恋人が女になって毎晩迫ってくるんだ」なんてそのまま言えるはずもない。
しばらく黙り込んでいたが、たっぷりと間を置いてから福富は伏せていた目を上げた。

「猫を、飼っているんだが、」
福富はひどく言いにくそうにそう切り出す。

「その猫が首輪を付けろとせがんでくるんだ」

その言葉を聞いた二人は黙って顔を見合わせて、それから同時に首を傾げる。
「猫?」
「寿一、猫なんて飼ってたか?」
東堂と新開は二人して不思議そうな顔をして、言葉の意味を探るように福富の顔を見た。どういうことか読み切れないという表情だ。どう答えたものかと二人は迷って口を閉ざしてしまう。
「…すまない、気にしないでくれ」
そんな二人の様子を見て福富は眉を寄せてそう言いまた目を伏せる。つまらないことを言った、忘れてくれ。そう言って皿の載ったトレイを持って立ち上がろうとする彼を二人は慌てて押し止めてもう一度座らせる。

「えーっと、そうだな猫だろ。餌をやって大人しくさせてみたり」
「好物とか、あるんじゃないのか」
「あるにはあるが…」
しかしその好物を欲しがって迫ってくるんだ。とは福富は口にしなかったが、しかし首を振ってそれは駄目なんだと暗い顔をしたことで、そこにのっぴきならない事情があるらしいことは二人に伝わったらしい。福富が黙り込むのと同様に、二人も口を閉ざして眉間に皺を刻んだ。
「わけがわからないな。そもそも猫が喋るのか?疲れてるんじゃないのか、寿一」
「そういうことではないのではないか、隼人よ」
東堂はそう言うと、そうだな、と言ってから考え込むように頬杖をついた。察しのいい男だ。きっと福富が言わんとすることにもう気が付いているのだろう。福富がそちらへちらりと視線を向けると、東堂は少し苦笑して見せる。新開は未だよく分かっていない様子で、何度かこぼすように猫なぁ、と呟いていた。

「思うに、」
湯呑みを片手に持ったまま東堂が福富を指さす。
「そういった場合の解決策として一番手っとり早いのは、諦めて相手の好きにさせてやることだな」
二人が二人自分の主張を通していても埒が明かない。いつまで経っても話は平行線のままだし、それに人の気持ちというものはひどく厄介でそうぐだぐだしているうちに離れてしまわない可能性は無いわけではないんだから早急に終わらせてしまった方がいいだろう。東堂はそう言ってから「諦めるんだな」という一言で締めた。
「そうは言っても」
福富は困った顔をする。彼はそのまま口を閉ざして視線をさまよわせた後、小さく溜息を吐いた。そう簡単に言うな、とでも言うような目をした福富を見て首を傾げたのは新開である。そもそも、と言葉を置いて彼は口を開く。
「首輪を付けることに何の問題があるんだ?迷子になった時とか便利だし、それにそいつが嫌がらないんだったらつけてやればいいじゃないか」
東堂が新開の方を見て、ああまだやっぱりこいつは話を飲み込めていなかったんだと苦笑するのが見えた。ちょっとずれているような、しかしながらある一点では鋭い質問だ。

問題、と福富は口の中で一人繰り返す。

望むことをしてやることは悪いことではない。それは今まで荒北が自分にしてきてくれたことと同じだ。自分が何か欲しいと思えば荒北は差し出してくれたし、そのためなら何にも要らないとすら言うように献身的に尽くしてくれた。福富だってされっぱなしでは嫌だと思うから荒北に何かをしてやりたい気持ちはあるし、それが間違ったことだとは思わない。けれどもこれに関してはそう簡単に「間違っている」「正しい」で判断をつけてはいけないものなのだ。

福富がしばらく黙りこんでいる間、東堂は興味深げにその様子を眺めていたが、福富がぱっと顔を上げたと同時に「しっかり話し合ってみることにする」と言うと、瞬時に表情を明るくした。
「それがいい。まだ時間はあるんだ、焦るなよ」
「ああ。ありがとう」
「うむ、健闘を祈っているぞ」
それが何であれ、友人としては応援してやらねばならない。そう東堂は言って肩を竦めた。ちょっとシニカルな様子で笑っているところを見ると、どうも中身まで全部理解されているような気がして福富は少しだけ恥ずかしくなった。東堂が頭の回転のいい男であることに恐れをなすべきか、感謝するべきか。

「それじゃあ善は急げだ」
新開がそう言って福富の方を見た。うどんを啜り終えた彼は箸を置いて、ウインク付きで「健闘を祈る」と東堂と同じ台詞を繰り返す。ありがとう、と福富が言えば楽しげに彼が笑うのが見えた。

「ところで」
福富が椅子を引いて立ち上がりかけた時にふと新開が言う。
「猫って人の言葉は通じるものなのか?」


***


その日荒北は遅れてやってきた。

「担任に捕まっちゃってさァ」
うんざりした、といったような表情で荒北はそう言うと福富の隣に並んで自分のロッカーを開ける。練習時間が始まる寸前のことだったからロッカールームは人でごったがえしていてひどく騒がしい。
福富がちらりとそちらに視線を向けても、荒北と目は合わなかった。シャツのボタンを外しながら荒北は大きな欠伸をしている。眠いのか、と尋ねかけて、ふと福富の頭に昨日の夜のことが思い浮かぶ。煌々と点いた蛍光灯。伸びた前髪に隠されて見えない目元と、人の悪い笑みを浮かべた口元。それから背中に触れた柔らかいーー

「福ちゃん、ボトル補給したか」
その声にはっとして福富が顔を上げると、荒北が覗き込んでいるのが見えた。荒北はいつの間にか上に着ていたシャツを脱いでいて、上半身には何も纏っていない。思わずその身体を凝視してしまいそうになって、どうにか気取られないように目を逸らしながら福富は「まだだ」と答える。幸い荒北は福富のそんな様子には気付かなかったらしい。頷くと、すぐにジャージの上を引っかけて自分のボトルと一緒に福富のボトルを持って踵を返す。そこで福富は話しかけるタイミングを逃したことに気が付いたのだった。

「真波がまだ来ていないんだ」
「まァたかよ」
荒北は苛立った声で言って溜息を吐く。中身を詰めたボトルを福富に渡して、荒北は東堂を睨む。
「今日全体練だってお前伝えたんだろうなァ」
「当たり前だろう。俺を誰だと思っている」
「山神サマが当てになんねえから聞いてんだろバカ」
そのまま言い合いを始めそうな二人を止めたのはいつもと同じく福富だった。練習が始まる、と一言彼が言えばそれで終わりだ。荒北が東堂から目を逸らして着替えを始めると、その頃には東堂の方も頭を切り替えて出入り口の方へ向かっている。
「遅れるなよ」
「わかってるっての。東堂、お前あの不思議チャン探しとけよ」
「放っておいても来るさ」
「ケッ、適当なこと言いやがって」
さっさと行け、と荒北が追い払うような手つきをしてみせると、東堂はちょっと肩を竦めてすぐに戸を引いて外へ出ていった。それに続いて幾人かの部員たちも出ていくと、次第に部屋の中は静かになっていった。
「福ちゃん?」
行かねえの。ボトルを握ったままぼんやりと立っている福富に荒北がそう尋ねる。福富はどう言ったものか迷って、少し眉を顰めて考え込む。あれは今ここでするような話じゃないし、しかしここできっかけを掴んでおかないといつまでだって平行線のままになりそうだ。だけれども切り出し方がわからない。
渋い顔をする福富を荒北は不思議そうな目で見ている。片手でボトルを弄ぶ彼の手元に視線を落としながら、福富は口を閉ざして次の言葉を探していた。

「寿一、猫はどうした」
不意にがらりと戸が開いたと思ったら、その次の瞬間にそんな言葉が飛んでくる。二人が一斉に顔を上げるとそこにはまだ制服姿の新開が立っていた。お前遅刻だぞ、と荒北が声を上げたのに「俺も進路相談だったんだ」と新開は悪びれもせず言う。

「っていうか猫って何だヨ」
「靖友も知らねえんだ、珍しいな。何でも寿一が猫飼い始めたらしくってさ、」
「新開」
慌てて福富が彼を呼ぶと、新開は話しかけたのを止めてそちらを見た。先の言葉が継げなくなった福富を新開はわずかに首を傾げて見やって、それからああ、と何か納得したように頷いてから自分のロッカーの方へと歩き始めた。放り出されたみたいな格好になった荒北は、わけがわからないといった顔で福富の方へと視線を向ける。

遅れるなよ、と新開に一言言って福富が出入り口の方へと向かうと、荒北はまだ何か言いたげな目をしてはいたが黙ってその後ろに続いた。

「進路、決めたのか」
荒北が何か言いかける前に福富はそう口にする。ちょっと無理矢理すぎたか、と一瞬ちらりとそんなことが頭を過ったがそれ以上取り繕ったって不自然になるばかりだろうから続いて何か言うことはなかった。
荒北は不意のそんな言葉に少し面食らったようだったが、そこまで間を置くこともなく「まだだよ」と首を振った。
「ほんっと俺何にも決まんなくてさァ。さっきも色々大学の資料とか見せられたんだけど全然ぴんとこねえの」
面倒くせえ、と荒北は言って頭を掻く。これから先、というものがいくら大切だとわかっていたってわからないもののことを考えたって仕方がないのに、と荒北は唇を尖らせる。
「福ちゃんは?実業団入んの」
「俺もまだそこまでは決まっていない」
兄のように高校卒業と同時に実業団に入るというのももちろん選択肢にはあるが、しかし自分は兄とは違って「インターハイ王者」という肩書きはないからそうとんとん拍子に話が進むとは限らない。それなら大学でもう少し実績を積むことが必要になるだろうし、まだ全部決めてしまうわけにはいかない。福富がそう言うと、結構ちゃんと考えてんだなぁと荒北は少し感心したように(それと同時にどこか少しだけ寂しそうに)言って「俺も考えねえとなぁ」と溜息混じりに口にした。

「また福ちゃんと走りてえな」
「走ればいい」
「簡単に言うなってェ」
荒北はちょっと苦笑混じりに言った。福富がその隣で密かに荒北が自転車を止めるつもりでないことにほっとしていることに彼は気付いてはいない。
荒北がふっと小さく息を吐く。福富がそちらを見れば、荒北は目を地面の方に向けたまま「いっそ俺も猫みたいに福ちゃんが飼ってくれりゃいいのに」と笑う。
「そうすりゃ何も考えなくていいしさァ」
「飼う、って」
「ああ、別に嫁にしてくれたっていいんだぜ。俺、折角女になれんだし、戸籍変えてさ」
「荒北!」
「冗談だよ」
悪びれもせず彼はそう言って軽く手を振った。口元が笑っているのは見えたが、すぐに顔を背けたせいでちゃんと表情を見ることは出来なかった。

何かが胸につかえたようになって、福富は何にも言えずにただ俯いた。足下がおぼつかないような気さえもして、突然なんだかひどく恐ろしくなった。
隣にいる男を見る。尖った肩が揺れて、自分のものと当たった。ほとんど同じ位置にある肩は、確かに荒北という「男」のものだ。けれども今はそれがどうしてだかひどく危ういものに見えた。夜に見た、柔らかい肩のラインを彼は思い出す。撫で肩気味で、首から肘までがなだらかな曲線になっていた。今の彼よりずっと低い位置にあるから、立っているとその肩は自分の胸辺りに当たるのだ。
福富はそこまで思い出してようやく一つのことに思い当たる。それから荒北がさっき言ったことを頭に思い浮かべて、そうして自分が何を恐れているかに気が付くのだった。

「荒北」
駐輪場に着く寸前で、福富が荒北の腕を取って立ち止まらせる。荒北は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐにどうしたのと言って福富の目を見た。

「夜になったら部屋に来い」
「ヘェ?急に何で、」
「消灯後だ、いいな」
「ちょっと、福ちゃん!」
福富は駐輪場の方へと歩き始める。驚いた荒北の声が聞こえていたが、彼は振り向かなかった。

「話は夜だ」
並んだ荒北が何か言おうとするのを止めたのは、ただその一言だった。


***


消灯時間が過ぎると寮内は急に静かになる。しばらく前まではいくらか聞こえていた足音も、人の声もいつの間にかすっかり消えてしまっていた。福富は自室のベッドの端に腰掛けてじっと耳を澄ませている。聞こえるのは自分の心臓の音ばかりだと悟ってはいても、それ以外に出来ることがない。早鐘を打つ、というほどではないが鈍く内側から叩かれるような感覚を味わいながら彼はじっと扉の方を見つめている。
詰めていた息をハァと一つ福富が吐いたその時、ちょうどその音がノックと被った。

「福ちゃん」
控えめなノックの音の後、潜めた声が聞こえる。入るよ、といつもよりゆっくりと荒北は言ってそれからドアの隙間から部屋へと滑り込んでくる。福富が立ち上がってそちらへ一歩近付くと、荒北は一瞬驚いたように目を見開いたがすぐに普段の顔に戻った。

「珍しいじゃん、福ちゃんから誘ってくるなんてさァ」
それもこんな時間に。いつもは消灯のぎりぎり、まだ寮の全館に蛍光灯が点いている時間に荒北はやってくるから、こんな薄暗い中で対峙するのは、いつかの原チャリとロードレーサーとの異種戦以来かもしれない。
ドア近くに立ち尽くしたままの荒北の側に福富が歩み寄ると、荒北は足を摺るようにして半歩下がる。同時に、彼の手元にあったボトルの中身がちゃぷんと音を立てた。福富よりもほんの少し低い位置に荒北の目がある。暗がりの中でもよくわかる、底光りする目の色だ。
あと一歩の位置まで近寄ると、荒北と福富の距離はあってないようなものになった。荒北の肩胛骨が少しばかりドアに擦れる。小さく音が聞こえたのは、きっと荒北が顔を上げた時にちょうど頭が扉に当たったからだろう。福富が片手を伸ばして戸に鍵を掛ける。荒北の目が泳いだのが見えた。

「何ィ、やっと抱いてくれる気になったって?」
荒北はニィ、と口の端を持ち上げて皮肉っぽい言い方をして福富を見た。下から覗き込むような、少し挑戦的な格好だ。福富は片手をドアに付けたまま視線を合わせ、しばらく黙り込んでいた。それから少しして福富は口を開き、一言「話をしようと思って」と言った。

「話ィ?…ああ、猫の」
「いやそうじゃない。お前と、俺との話だ」
荒北は意外そうな顔をして、それから少し怪訝そうな表情を浮かべた。なんでそんなもんがいるんだよ、とでも言いたげだ。荒北が眉を釣り上げる。不機嫌そうにも見える顔つきだった。けれど彼は何も言わずに、福富の次の言葉を待っていた。

「真面目な話だ」
福富は一旦そこで言葉を切って口を閉ざす。緊張して荒北がそちらを見るまで彼は待って、それからまた話を再び始める。

「いいか荒北。俺はお前のことが好きだ」
「何、だよ、いきなり。っていうか今更、」
「ああ今更だ。だがお前がわかっていないんだから仕方がないだろう」
「ハァ?何言ってんだよ福ちゃん。そんなことわかってるに決まってんだろォ!そうじゃなきゃ俺がこんな、」
「荒北、お前一体何をそんなに焦っているんだ」
福富がそう言うと、荒北の動きがぴたりと止まった。逃げるように目を逸らした荒北を福富は真っ直ぐに見つめている。居心地悪そうに荒北が身を捩ると、福富はぐっと顔を近付けた。
「別に焦ってなんかねえよ」と荒北が目も合わさずに言う。声は低く落とされていた。けれどそれはいつもの、最近福富を悩ませている例の色気を滲ませたようなものではなく、まるで奥に何かを押し込めているようなそんな声だった。
福富が荒北の肩を掴む。荒北は顔を上げなかった。福富は一つ小さく息を吐くと、いや、と一言口にした。
「俺はお前のことが好きだし、それにお前が俺のことを好きだということもよくわかっている」
「…よく臆面もなく言えるよなァ」
「事実だろ」
「マァ、そうだけどさ」
「そして荒北、お前は頭の回転が速い。俺よりもずっと器用だし、機転もきく。人が何を言わんとするかの察しだって俺よりいいはずだ」
だから、と荒北は聞きかけて、そこで言葉が出なくなる。伺うように上に視線を向けると、存外に近いところに福富の顔があった。鼻先がつきそうだ。逃げられそうもない距離。
荒北が再び俯くのを福富は止めなかった。彼は荒北を見つめたまま言葉を続ける。

「お前が何を考えているかは知らないが、俺はお前から離れるつもりはない」

そう言った瞬間、荒北が息を詰めるのが福富にはわかった。ああ、と溜息の混じったような声を漏らすと、荒北は片手で額を押さえる。
「気付くなよォ」
「すまない」
「全然悪いと思ってねえくせに」
福富は続いて何か言おうとするが、それは伸びてきた荒北の手に阻まれた。骨の目立つ指といくつもの豆が潰れてごつごつした手の平が福富の首の裏に回ってぐいと彼を引き寄せる。それがあんまり強くて福富の身体が一瞬傾いだのを、長くてしなやかに筋肉のついた荒北の腕が抱き留めた。
「出来るなら」
福富の鎖骨あたりに頭を押しつけながら荒北が低いトーンで話し始める。
「出来るなら、これからもずっと福ちゃんと一緒に走りてえよ。福ちゃんが行きたいとこへどこまでも連れてってやりてえし…勝たせてやりてえ」
今までのレースのどれもに満足しなかったわけではない。けれど後悔だってあるのだ。あの時の判断が違っていれば、もう少しペダルが踏めれば。結果はどうであれそこにはそんな思いが必ず付いてきて、それがさらに荒北の「また一緒に」という願いを大きくさせるのだった。
「でも現実問題そう簡単にはいかねえだろ」
ずっと一緒に走る、となると荒北は福富と同じようにいつかプロの道を選ぶことになる。けれどもそれは口で言うほど易々と進めるような道ではないし、たとえそれを選んだとしても福富と共に走っていける保証なんてないのだ。

「だからせめて、福ちゃんに俺のこと忘れさせねえようにしときたいなって思ったんだよ」

この先がどうなるのか、まだ荒北にも福富にもわからない。だから切実なのだ。離れたくない。福富が何にも言えなくてただ荒北の身体に腕を回すと、荒北はまるで泣いているみたいに肩を震わせた。
福富がゆっくりと息を吐く。そうしてしばらく黙って言葉を選んだ後、彼は口を開いた。

「少しだけ、悪くないな、と思った」
お前が女になって、一緒にずっといるのも。それこそ生涯を共にするなんてことが冗談ではなくなるのだ。しかしそれだけでは。福富の頭に同時に過ったのはそんな言葉だった。
「俺はお前の走る姿が好きだ。普段のお前の姿も、寝ているときの姿も、それに女になっている時の姿も全部。だから全て欲しい」
自分勝手だとは思う。男の彼も、女の「彼」も欲しいだなんて。でも本心なのだ。荒北がああやって自分を縛ろうとしたように、福富だってこうして荒北を縛ろうとしている。出来るなら、と福富はさっき聞いた言葉を繰り返す。
「ずっと一緒に俺と走って欲しい」
それが叶うかなんてわからない。だが俺がそう望んでいるんだ。福富は真っ直ぐに荒北を見ると、強く意志を込めた声でそう言った。

荒北が小さく呻くような声を上げる。俯いた彼の顔を福富が覗き込もうとすると、再び彼の首元を捕まえた手の力が強くなって引き寄せられた。音のするほど勢いよく歯と歯が当たって、血の味がすると思ったときには荒北の舌が福富の咥内に滑り込んでいた。

「どこまでもついていってやるよ」
唇を離して、荒北が言ったのはそんな台詞だった。しゃあねえな、と緩く笑った彼が福富の髪を撫でる。
「男も女も、俺以外は何も見えなくなっても知らねえぞ」
「構わない。お前が俺以外を見ないなら」
「ハッ、どうしようもねえなァ」
それから荒北は一旦福富から手を離すと足下に転がっていたボトルを拾い上げた。福富を見る。あんまり強い力で引き寄せたものだから、福富の首には荒北の爪痕が残っているのが見えた。福富の耳元に口を寄せて荒北が笑い混じりに「これじゃあ俺が福ちゃんに首輪着けてるみたいだ」と言うと、福富は自分の首もとに軽く手を滑らせる。

「それならお前も」
福富は言った。そうして彼が手に取ったのは荒北の左手で、首輪代わりに薬指に残したのは噛み痕だった。