ただひたすらに脚を動かしている。意識は頭の上にあった。ふっと浮きそうになるのを無理矢理歯を食いしばってこらえながら、ペダルを踏む脚に力を込める。目が眩む。酸素が足りないせいか視界が狭まって、色は飛んでいた。
「もっと上げろ」
不意に横からそんな声が聞こえて反射的に荒北がそちらに目を向ければ、途端に視界が明るくなる。目に痛いほどの明るい金髪がすぐ側にあるのが見えた。ローラー台の上でペダルを回しながら荒北はそちらをぎらりと睨みつけた。これ以上回せるかよ、と言いかけるもののそれは声にはならなくてただ荒っぽく息を吐いただけになる。荒北が何も言わないのに対して福富もそれ以上は言葉を続けなかったが、その代りに彼は目だけでもっとケイデンスを上げるように荒北に示して見せる。ストップウオッチを片手に持ったまま福富は荒北の脚と、それから自転車に取り付けられたサイコンを彼は見つめている。まだ回せるだろう。その視線がそう言っているように思えて苛ついたそのままに荒北はペダルを押し込む。手元にある小さな画面の数字が上がるのが見えた。満足げに隣で男が頷くのが見えて、またそれが気に入らない。
「あと一分」
落ち着いた声で福富が言う。一瞬そちらに尖ったような視線を向けるが荒北はすぐにまた前を向いてぐっと奥歯に力を入れた。アイツの言うことを聞くのは癪だ。腹が立つ。入部してもう一月以上が経とうとしているが、一向に追い越せないのもムカつく。でもそれよりもっとアイツの言うことさえもこなせない方が癇に障る。舌打ちしたい気分だったがペダルを回すことに必死でそんなことをしている暇もない。そうしてふと気付けばその考えすらもいつの間にかどこかへ行って、ただ荒北の頭の中にあるのはただひたすらに速く、という言葉だけになる。外からの音がどんどん遠ざかってそのうちに聞こえるのは馬鹿みたいにでかい自分の心臓の音と、福富が残り秒数をカウントダウンするぼんやりと響く声ばかりだ。身体の隅々まで絞りつくすように太腿や脹脛を動かしていると関節が軋むように感じた。一瞬意識が遠のくような感覚。

 

「荒北!」
そう呼ぶ声が聞こえて、はっとする。荒北はそこでようやく自分が目を閉じていたことに気付いて瞼を持ち上げて、落ちかけていた身体を立て直そうとするがその時にはもう遅い。ぐらついた身体はゆっくりと横に滑って、車輪は真っ直ぐを保てなくなっていた。あ、やばい。そう心の中で呟くものの、手はハンドルから離れないしすぐに外せるほどまだビンディングシューズにも慣れていない。
荒北は思わず咄嗟に手に力を込めてハンドルを握りしめた。時間にしてみればきっとほんのコンマ何秒かの間だろう。それでも記憶というものは恐ろしいもので、そのほんの一瞬の間に浮かんだある光景に無意識のうちに彼は怯んでしまったのだ。明るい夏の風景である。頭が真っ白になる。


「荒北」
再び声がした。荒北はゆっくりと目を開けるが、今がどんな状況なのかうまく掴めなくて、ただぼんやりと目の前を見る。不思議と痛くない。慌てて身体を起こそうとするが頭が重くて持ち上がらなくて混乱していると、真上から覗き込んできた顔に「そのままでいい」と告げられた。耳鳴りがしている。手を持ち上げて動くかどうか確認してみたときに、ふと自分が自転車から降りていることに気が付いた。それからやっと彼はわずかに首だけを持ち上げて辺りを見回して、自分のすぐ近くに空色の車体が寝かされているのと、それからほんのすぐ側にいる福富がじっとこちらを見つめていることを認めた。
「飲めるか」と言いながら福富がボトルを示す。荒北は身体を起こそうとしてみるが、どうにも重くてうまくいかずに首を振る。身体が全く言うことをきかない。握力もまだ戻ってないみたいだ、となんとはなしに肘を擦りながら荒北は思って、それから目の方に流れてくる汗を手のひらで拭った。
それを聞いた福富は一度頷いてから静かに身体を寄せて、それから膝の上に荒北の頭を載せて丁寧にそれを持ち上げる。口元にボトルが差し出されたのに荒北は一瞬戸惑って福富の方を見上げるが、彼が頑としてそれを除けようとしないのを見て荒北は諦めてそれを口に含む。そうして少量ずつ口に入れては、じわじわと舌や喉に染み込ませるようにして飲み込んでいく。
しばらくそれを繰り返して、ようやく頭がはっきりしてくる。もういい、と荒北が掠れた声で言うと福富は彼の顔を覗き込んで、鸚鵡返しのようにもういいのか、と彼に尋ねた。
「これ以上飲んだらふやけそうだしなァ」
「あまり無理はするな」
「ハッ、無理させといてよく言う」
「お前ならできると思ったんだ」
実際出来ていたし、と福富はちょっと眉を寄せながら珍しく口ごもるようにそう言って荒北を見下ろした。あ、コイツでも他人のこと心配すんだな、なんてことを荒北は思いながらその顔を見上げて、そうしてその反面でまだ彼のオーダーについていけていない自分の身体の鈍りようを密かに悔しく思っている。中学時代、野球チームの中心だった頃には体力馬鹿なんて言われるぐらいスタミナには自信があったのに。ブランクがこれほど身体を変えてしまうものだなんて思ってもいなかった。

そう考えていると、ふとついさっき過った光景がまた頭に浮かぶ。暑い夏の日の風景。からからに乾いたマウンドの景色である。

瞬間、ざあっと血の気の引く音がした。頭が真っ白になって、荒北は無意識に肘を擦っていた手に力を込める。そうして慌てて目を動かして自分の身体を見下ろした。中学二年の夏の日のことを彼は思い出している。ボールが指を離れていく寸前のあの一瞬、自分の身体に走った痛みを彼はまだ覚えていた。ほんの一秒もないあの時間に何もかもを奪われてしまったことを思い出す。
慌てて床に手をついて上体を起こしてみようとするが、まだ血がきちんと回っていないのかどうにも上手くいかない。彼はもがくように首を持ち上げて、自分の腕を見る。それから腹を見て、脚を見る。いくらか擦り傷がある程度で、そこにはほとんど傷も怪我もない。足首や膝をわずかに曲げ伸ばししてみるがどこも痛めた様子もない。そこで彼はほっとしたような気持ちになって一瞬力を抜くが、その後はっとしてまた首を持ち上げる。
「福富、お前怪我はァ」
荒北はそう尋ねながら、福富に寄り掛けていた身体を反転させて彼の方に向き直る。手で身体を押し上げてその場に座りつつも荒北は視線を福富の方に向けていた。あの状態からして、自分がまともに自分の足で立って自らここに寝たとは思えない。そうするときっとあのまま転んだはずなのにほとんど怪我もしていないとなると、きっと福富が自分を支えたかかばったに違いないのだ。コイツのことは気に入らない。偉そうだし、愛想もないし、それにまだ全然追いつけなくて腹も立つが、だがコイツが走れなくなることを望んでるわけじゃない。
怪我は、と繰り返し荒北は言って、福富の方に身体を寄せる。固まって何も言わない福富に業を煮やした彼が手を伸ばして肩を掴むと、ようやく福富ははっとしたような様子で彼の方を見て「どこも」とただ一言口にした。
「どこにも怪我はしていない」
「それ本当に言ってんだろうなァ」
「オレは嘘はつかない」
「じゃあその手の擦り傷は」
「…ここだけだ」
これ以外は本当にどこも痛めも擦りもしていない。きまり悪そうに福富が言うのを聞いて、荒北は深い息を吐いた。ほっとしたような、悪いような、なんとも言えない気持ちだ。見せろ、と言って福富の手のひらを取りながら、他人のためにこんな思いをするのもずいぶん久しぶりのことだと荒北は頭の隅で考えている。窺うように福富の顔を見ると、彼はなんだか神妙な顔をして荒北を見つめていた。ほんの少し眉を顰めているのは、たぶん心配している時の彼の癖なのだろう。荒北は彼の目を見て、それから口を開く。「その」と思わず言いよどんだのは、どう言うべきかわからなくて迷ったからだ。
「お前さァ、かばうなよ、オレを」
「どうして」
「どうしてって。もしまたこんなことがあった時、今みてえにどっちも無事だって保証はねえだろォ」
そしたらお前を巻き込みたくねえし。荒北はそう言いながら目を床の方に向けて、そのままうろうろとその辺りをさまよわせる。怪我が怖い。その場から動けなくなることがどれほど恐ろしいことか彼は知っているし、そうしてそれを知っているからこそ他人を――特にこの男をそんな目にあわせたくはないと思ったのだ。
何か言いかけてやめる。荒北が次の言葉に迷って口を噤んでいると、不意に肩を掴まれる。ぱっと顔を上げれば、今度は福富が真っ直ぐに荒北の目を見つめていた。「構わない」と福富は一言言って、そのまま言葉を続ける。
「またこうなりたいと思っているつもりじゃないだろう。だったらそれでいい」
「先のことなんかわかんねえじゃねえかヨ。だからオレが言いてえのは練習でもレースでももしオレが崩れた時にお前が、」
「オレは強い」
「ハァ?」
「もしお前が崩れたとしても、オレがお前を捕まえて、それで引く。それでいいだろう」
そこで福富は言葉を切って、荒北の目を見る。
「過去のことが忘れられないならオレが預かってやる。だから、前を向け。下を向くな」
迷いのない言葉だった。彼の淀みのない目に自分が映っているのを荒北は見た。ぐっと胸を締め付けられるような気持ちになった。しかしそれでいてどこかすっとしたような気持ちもある。なんて殺し文句だ。一瞬何も考えられなくなったのはきっとコイツの言葉があんまりにも強くて真っ直ぐだからだろう。この男から離れられる気がしない。自分がもし付いていくとするならコイツだけしかいないし、コイツにだけしか自分を明け渡してやるつもりはない。荒北は不意にそんなことを思った。

「立てるか」
「アア、大丈夫。でも今日はもう終わりにしようぜ」
「当たり前だ。明日また倒れられても困る」
「ゲッ、またローラーかよ」
「慣れるまでは続けるぞ。いいな」
「ヘイヘイ、わぁったよ」
「ヘイは一回だ」
「ヘーイ」
福富が立ち上がったのに続いて荒北も立ち上がる。そうして彼は振り返って、寝かされたままの自転車を取りにゆっくりと歩き始める。ちらりと振り返れば福富がこちらを見ているのが見えた。
過去の光景がまた頭をふと過る。その瞬間、ふと福富が「荒北」と呼ぶ声が耳に入ってその景色とだぶった。するとどうしてだか、ただひどく明るくて乾いていたあのマウンドが懐かしいように思えた。そうして不意に自分が野球を好きだったことも思い出す。白い球を追っていたあの頃の楽しさも、怪我をしたことも、過去のことは消し去ることもできないしなかったことにすることもできない。それは自分自身のことである。どれだけ重くてもそれを受け止めなければならないのだ。
そんな思いがふと荒北の頭に浮かんで、そうしてすとんと胸に収まる。
過去も何もかもかなぐり捨てて走ることはまだ今の自分には出来ない。それができるようになるまでにどれぐらいかかるかわからないが、だがそのために徐々に自分を変えていくことはできるはずだ。福富の言葉が頭に浮かぶ。きっとコイツがいる限り、オレは道を見失うはずはないだろうと彼は思った。