夢も見ないほどの眠りから不意に目が覚めてしまうと、なんとなくもったいない気持ちになる。
もうしばらくは目を開けずにじっとしていようと思ったのだが薄ら寒くてそうも行かず、荒北は一度瞼を擦って目を開いた。何も纏っていない肩が毛布の外に飛び出している。布団を引き上げながら小さく呻くと喉が痛んだ。冬の朝の空気は澄んでいるけれどその分鋭い。投げ出していた手を持ち上げて喉を撫でてみる。昨日噛まれたところはどうなっているだろうかと荒北は考えてみるが、最中のぼんやりした記憶のことだから当てにはならないと早々に思い返すのをやめてしまった。
一瞬頭に浮かんだ昨晩の風景を瞼を強く閉じることで追い払う。あんなのは俺が言いたくて言ったことじゃないんだ、ああされると頭が回らなくなるから、と誰にともない言い訳が浮かんではそれに釣られて景色が蘇る。ひどい悪循環だ。ハァ、と息を吐くと白く曇った。

荒北は冷えた指先を布団の中に引っ込めて、それから寝返りを打つ。
目の前には広い背中がある。そして目線を少し上げれば見慣れた金髪が。
もぞもぞと毛布から身体を出さないようにして動いてその背中に貼り付いてみる。思った通り温かい。荒北は目を開いたまましばらくその背中に残った幾筋かの傷について考えていたが、また眠気がやってくるのを感じてそのままゆっくりと目を閉じたのだった。

意識がゆっくりと浮いて、身体がふわふわしてきた頃、荒北は自分の頭が動かされる感覚に目を開いた。
「福ちゃん、」
荒北が掠れた声でそう呼ぶと、福富は起こしたか、と低く囁いてその髪を撫でた。福富の二本の腕が抱え込むようにして荒北を包んでいる。荒北が福富の胸に頭を押しつけると、福富はちょっとくすぐったそうに笑ってからそれを抱き締めた。
「喉痛ェんだけどォ。」
「ああ、俺のせいだな。」
「ちったあ照れろよ鉄仮面。」
「二人っきりなのに照れるもなにもないだろう。」
言い返せなくて黙った荒北の表情が、普段の彼からは想像のつかないくらい子供っぽい。再び瞼を下ろして眠る体勢に入った荒北の髪を軽く梳きながら福富もまた二度寝を楽しむことにしたのだった。


***


二人の道が分かれた春、一緒に住もうと言い出したのは福富だった。

『何で急にそんなこと、』
突然のその言葉に荒北は驚いてそう尋ねた。福富は地元の実業団へと、そして荒北は大学へと進学するということはずっとわかっていたし、それに対してはお互いに口を出してこなかったからまさにそれは青天の霹靂というやつで、口にした福富の意図が荒北には全く読めずにいたのだった。

荒北だって福富だって、望んで離れたい訳ではない。
そりゃあ近くにいた方がいいんだろうけれど、と荒北が呟いた意図は恋人という関係を手放したいということではなくて、それが「別に必要のないこと」だと思っていたからだ。

二人が付き合い始めたのは三年の夏ーーあの長いインターハイが終わってからで、期間として見てみれば短いものに思えるかもしれない。
けれどもそれは突然に降って沸いたようなものではなくて、二人が出会い、荒北が自転車に乗り始めるようになって、それから一緒に走るようになってーー。そうした果てしなく長い道のりを経てお互いを認め合い、恋人という関係に行き着いたから二人にとっては決して短いと思えるようなものでは無いのだ。競争相手として、友人として、エースとアシストとして。荒北と福富にとって「恋人になる」ということはそれらの関係全てをない交ぜにしたものだったから、互いの距離が離れようが喧嘩をしようがどうしたって無くしてしまえるものではない。
荒北は自分たちの関係についてそう考えていて、福富だって同じように思っているだろうと思っていたからただ戸惑ったのだ。卒業を機に、なんてことで別れてやる気はさらさらないし、たとえ相手がどこにいても今の時代電話なりメールなりで繋がることが出来るのだから別に構わないだろうと。そう福富も思っているだろうと思っていたのだった。

首を傾げる荒北と、それきり黙り込んでしまった福富。
二人は福富の家の前にそうして立ち尽くしていた。ひどく静かで、よく晴れていたから、荒北の座っていた場所からは秦野ののどかな山間の景色がよく見えた。ちらちらと桜が咲いているのが目に映って、いつかどこかで聞いた花に嵐なんて一節を思い出したりもして、そこでふと、福ちゃんももしかして寂しいのかなと荒北は思った。

福ちゃん、と荒北は呼びかけようとするが目の前の男がこちらを見たのに気付いてやめる。彼も戸惑っているらしい。自分で言ったことなのに、それをどうしたらいいか決めかねているようだ。
二人は見つめ合ったまま何も言わず、それから少しして、目を逸らした福富が先に口を開いた。

『足りないと思った』
『何がァ』
『お前がいないことが』
嫌なんだ、とまるで駄々をこねる子供みたいな言い方で福富は言って目を伏せる。

何が嫌なの、と荒北は少し困ったような声で彼に尋ねたが福富は何も言わずに、ただ荒北の手元に目を落としていた。そこには二人にとって見慣れた、というよりもはや見飽きたと言った方がいいかもしれないほど目に覚えのある空色のロードがある。自分の前にある壁を無理矢理にでもこじ開けてきたハンドル、攻撃的なライディングスタイルを示すかのように鋭角に削られたペダル。すり減ったタイヤは新しいものに換えられていたが、そこにあるのは荒北が福富から預かってからずっと乗ってきたビアンキだった。


卒業式が終わった翌日のその日、荒北がやってきたのはこれを福富に返すためだ。学校にいる間何度も返そうとしたが受け取ってもらえなかったから、荒北はここまで来たのだった。
家の前で電話を掛けて、それからすぐに飛び出してきた福富は荒北を見てひどく驚いた様子だった。それから二言三言、当たり障りのない会話をしたと思う。そうしてふと言葉が切れて、荒北は一つ息を吐く。目を落として自分の愛車(だったもの)を見る。ボディに残ったいくつもの傷。自分が走ってきた証がそこにはあった。
そして出来るだけ何でもないふうに、『返すよ』と荒北は口にした。
いや口にしたかったのだ。

『一緒に住もう。』
目線を上げて、くっと息を詰めて言葉を吐き出そうとした瞬間だった、その言葉を福富が言ったのは。


何で、どうして。本当はそう聞きたかったし実際何か次に言わなければならないと荒北は思った。けれどもたった一言、福富が『靖友』と言った瞬間にはもう諦めてしまった。こういうところが彼のずるいところだと荒北は思う。俺がお前のことを好きで堪らないのを、お前のためなら何でもしてやりたいって思うことを知っていてそういうことをする。
『宿舎とか入るんじゃねえの。』
『個人の自由だ。』
『俺、掃除とか出来ねえぜ。』
『俺は料理が出来ないから分担出来るだろう。』
『福ちゃん、ビアンキ、』
『返さなくていい。いいから、俺と一緒にいてくれ。』

足下が揺らぐような感覚に襲われて、荒北は片手で目元を覆った。確かに離れたって二人の関係が変わることは無いだろう。だけどそんなことはもうどうでもいいのだ。ただ彼がそう望んでいる。それだけのことだ。

『家賃は折半な。』
ようよう荒北が絞り出したその一言に福富が笑ったかどうかは荒北には見えなかった。


***


荒北が次に目を覚ましたとき、福富はもう起きてベッドから抜け出していた。
身体を起こし、欠伸しながらぐっと背伸びする。ちらりと目に映った時計はもう昼前を指していた。休日だからってちょっと寝過ぎたな、と少し反省しつつ布団を軽く折り畳む。それから足を冷たい床に下ろすと、昨晩投げ出されたままのスウェットの上下を着ながらリビングの方へと荒北は向かった。

「福ちゃん?」
そんなに広くもない部屋なのに彼の姿が見えなくて思わず名前を呼ぶと、ベランダの方からが返事が聞こえた。
開け放たれた窓から冷たい風が吹き込むのに肩を震わせつつそちらへ歩み寄ると、福富はおはようと言って片手を上げた。
「おはよ。福ちゃん何してんのォ。」
「灯油が切れた。お前、靴下は。」
「昨日福ちゃんが脱がせたんだろ。」
福富は屈みこんでポリタンクからストーブの金属製のタンクにポンプで灯油を移し替えている。後ろから抱きつきながら、荒北はその手元を見つめていた。つい先ほどまで眠っていた自分の体温と彼の体温が抱きついた場所から混ざっていくような気分がして非常に心地よい。さっびィと呟いた荒北に、福富は先に部屋に入っていろとは言ったが振りほどきはしなかった。福富のごつくて男らしい手が赤いポンプを規則的なスピードで握っている。生真面目に切り揃えられた爪。荒北はそれを見るたびにうっかりにやつきそうになってしまう。休日前日の夜、福富が爪切りを片手にそわそわしている理由を彼は知っているからだ。全部俺のため。心の中でそう言葉にしてみるとくすぐったくて、思わず荒北は口元を緩める。
福富がタンクの蓋を閉めたのを見計らって荒北は立ち上がり、ぺたぺたと足を鳴らしながら洗面所の方へ歩いていった。洗面台の前で歯ブラシを手に取り、それからバルブを回して水を流しながらそれがお湯になるのを待つ。噛まれたところが痕になっているのを鏡で確かめてなんだかむずがゆい気持ちになった。片手で歯を磨きつつもう片手で水に触れて温度を確かめる。そうして水が十分に温まった頃、福富がやってきた。
「タオル出してくれるか。」
「へいへい。」
福富がお湯で手を洗っている間に棚を開け、そこから綺麗なタオルを取り出して差し出すと、ちょうど手が伸びてきてそれを取った。入れ替わりにまた荒北が洗面台の前に戻って、くわえた歯ブラシを取り出して口をすすぎ、顔を洗う。
「アリガト。」
「ああ。」
手渡されたタオルで顔を拭い、それから荒北は振り返る。待ちかまえるようにしてそこにいた福富の首に手を掛けて少し乱暴に引き寄せると、唾液を交わすだけのキスをした。
「ナァ福ちゃん、歯磨き粉変えようぜ。」
唇を離してから荒北はそう言って舌を出す。きついミントのじゃないと目が覚めない。そうぼやく荒北に福富は呆れたように肩を竦め、辛党の荒北の舌に見合うようなのだと自分には合わないだろうなと内心苦笑した。
寝癖のついた髪を撫でたりしてしばらくの間じゃれあっていたが、空っぽの胃が耐えかねて声を上げたのをきっかけに二人はようやく動き出すことにしたのだった。

荒北はもう一度寝室へ戻ると、のろのろと着替えながら朝食は何にしようかと考える。米は炊いてあるから後は味噌汁と、それから卵でも焼くか。ああ昨日の残りの肉じゃがもあるな。いくつかのメニューを組み合わせて頭の中で献立を作っていく。
そうしている内に向こうの方から洗濯機の回る音が聞こえ始める。料理は荒北の担当で、福富の担当は掃除と洗濯。けれどもこの役割分担は結構適当なもので、野菜の皮を剥くのは福富がやったりもするし洗濯物を干すのは荒北の仕事だったりする。どちらかがやらなければもう一方がやるし、けれどもやらなくったってどちらも何も言わない。お互いに考え方が似通っているのだと荒北は思う。根本的な性格は違うけれども、何を重要として何を必要としないかの取捨選択の仕方が似ているのだ。これ以上に心地のいい居場所はないんじゃないかと荒北が時々考えるのはこのせいだろう。
(あの頃は要らないって思ってたのになァ。)
たった一つだけ食い違っていた考えは彼によって変えられて得しまった。もう抜け出せないし、これを手放す気さえ起こらないほど自分の身体に染み着いてしまった二人きりの生活が、今となっては荒北にとって代え難いほど大切なものになっていることを福富は知っているだろうか。荒北にはわからない。けれども二人きりのこの部屋でだけ福富が見せる表情があることを彼は知っているから、別段聞くこともないだろうと思ったりもするのだった。
二人とも何も言わない。それでもこの関係が幸せなのだ。

着替え終わった荒北がリビングへ向かうとちょうど福富も一仕事終えて戻ってくるところだった。

「夜は外で食べよう。」
荒北が話しかけようとしたのと同じタイミングで福富がそう口にしたものだから、荒北は少し笑ってしまう。
「まだ朝飯も終わってねえのに。」
「ム、気が早すぎたか。」
「ちょっとねェ。まぁいいけど。どうせ福ちゃん、もう予約してあんだろ?」
荒北がそう言ってにやりと笑うと、福富は少し照れくさそうに目を伏せた。何かこの顔見たことあんナァ、と荒北はちょっと考えてみるが、福富が「六時にとってある」と言ったことに気を取られて結局思いつかなかった。

「どこの店?」
「この間お前が行ってみたいって言ってた、」
「駅前の?」
「ああ。」
マジかよ福ちゃん、と言った荒北は福富と同じぐらい照れたような顔をしていた。駅前のロータリーにあるその店は、パン屋と併設されていて焼きたてのパンが食べられると評判の小洒落た洋食屋である。いつもその前を通る度にいい匂いが漂ってくるものだから、いいなとは思っていたのだが、彼らがどうにもそこに入り損ねていたのはその店がいかにもカップル向けの雰囲気を持っていたからだった。二人は恋人同士だけれども、どうにもそういう雰囲気が苦手で(ただしこの部屋の中では例外だが)、そういう場ではちょっとたじろいでしまう。珍しいこともあるもんだな、と荒北は驚いていたが、同時にどこか喜んでいる自分がいるのも感じていた。
「福ちゃんのくせにやるじゃナァイ?」
そう言った荒北の口元は笑んでいる。赤の上った頬を隠すみたいにして身体を翻してキッチンの方へと向かう荒北を見送りながら、福富がどうしようもないぐらいに彼を愛しいと思ったのは、その耳が荒北という男らしくないほど赤かったからだ。

「何か手伝おうか。」
「お願いだから今こっち来ないでヨ、福ちゃん!」
その言葉に福富は思わず吹き出す。ああこれだからこいつから俺は離れられないんだ。恋人の顔が見たくてたまらないのと、ちょっといたずらっぽい心が動いて、福富はそれからすぐに荒北の後を追っていった。


***


食事を終え二人で洗濯物を干してからは本を読んだりレポートの続きをやったりとめいめい好きに過ごしていた(それでも身体のどこかはずっと触れ合っている辺り『どうしようもない』なんて言葉がよく似合う)が、三時過ぎになってふと福富が腰を上げた。

「少し出掛けてくる。」
「コンビニ?」
「いや、店に注文してあるものがあって。」
自転車のパーツか何かだろうか。すぐに帰ってくるだろうと荒北はそれを気にも留めずに軽く返事すると、ちらと時計を見てから立ち上がる。
「福ちゃんついでにクリーニング屋寄ってこれる?」
そう言って荒北は冷蔵庫に貼ってあった紙を手に取り福富に示して見せる。
「福ちゃんのスーツ出したまま忘れてたんだよねェ。」
得心して頷いた福富は荒北の手から紙を取ってそれを一度眺めてから、ポケットに仕舞った。先週同僚の結婚式に行ったときに着たものである。あまりスーツなんて着ないものだから、当日の朝に着てみせた時は荒北に違和感があるなんて言われてしまったことを福富は思い出した。わかったと素直に頷いた福富の髪をまるで犬にやるみたいにわさわさと撫でくる。
「帰ってきたらおやつにしようナァ。」
本当にペットになったみたいな気分だと福富が漏らすと、荒北は機嫌良さげに「俺を飼ってるのはお前のくせによく言うよ」と笑った。
「首輪付けてくれてもいいよォ?」
そう荒北が冗談めかして言ったのに福富がひどく生真面目な顔で考えておく、と返したのがおかしくて、荒北はどうにも笑いを止められない。福富の後ろに付いて寝室に向かいながらもくつくつと喉を鳴らしていた。
軽い素材のダウンをクローゼットから取り出して、それから棚の上に置きざりにされていた手袋を荒北は福富に渡す。
「バックパックいる?」
「いや、そんなに大きいものじゃないんだ。」
そう言って福富はメッセンジャーバッグを肩に掛けると、再びリビングに戻って携帯電話と財布を入れて、もう一度だけポケットの中身を確認した。

「洗濯物は取り込んどくよ。」
荒北は玄関まで付いてきて、福富が靴を履くのをじぃっと見つめながらそんな軽口を叩いていた。屈んだ福富からは裸足のつま先が見えて、それがまたひどく寒そうに映る。靴下、と言っても荒北は生返事である。仕方ない奴だな、とは思うが、冷たい足先を温めるために擦り寄ってくる荒北の癖も嫌いではないからあまり強く言えないあたり福富は自分もどうしようもないのだと思う。

「いってらっしゃァい。」
間延びした荒北の声に送られて、福富はドアを開いた。一瞬吹き込んだ風が荒北の肩を揺らす。それが扉の向こうへ消えていくのを見守ってから、彼は踵を返した。


ばたん、とドアがすっかり閉じてしまってからも荒北はしばらく動けずにそこに立ち止まっていた。少しして、彼は冷えきった手と手を擦り合わせながらのろのろとした足運びでリビングへと戻っていく。
リビングはどことなくがらんとしている。実際テーブルの上には荒北がレポート作成に使っている資料やら本やらでごちゃごちゃとしているし、それに男所帯らしく読み差しの雑誌や昨日着ていった上着なんかが出しっぱなしのままになっていたりするから、殺風景だと言うわけではない。荒北が物足りないような気分になるのはやはり福富がいないからなのだろう。
古風な石油ストーブの上に載ったヤカンがしゅんしゅんと音を立てている。換気のために一旦ストーブの火を落とし、荒北は窓を開いた。ベランダへ出てその下の景色を見下ろす。あ、と小さく荒北が声を上げたのは金髪が見えたからだ。自転車に乗って冷たい風を切って走っていく。彼が乗っているのはあの頃から変わらずジャイアントだ。そして荒北はまだあのチェレステのビアンキに乗り続けている。実のところ、荒北は大学ではロードレースをやるつもりは無かった。けれどもこうしてそばにいるとやはり影響されてしまうもので、いつしか「ああまたこいつのアシストとして走りたいな」なんてことを思い始めるようになった。決して広くはない2LDKの中で二人きりで生活していると、どうしたってそういう想いに駆られるのだ。福富と荒北を繋いだのは自転車で、そしてこれから先何があってもそれは変わりようがない。だから荒北が再び走り始めるのは不思議なことではなかったし、いつかまた荒北が福富と共に走ることも、彼らにとっては決して考えられない未来ではないのだった。

ベランダの手摺りにもたせ掛けていた身体を起こして背伸びをする。物干しには二人分の洗濯物が冷え冷えとした風にはためいている。自分の練習着と福富のレースウェアが並んでいるのをぼんやり眺めながら、いつか俺もまた福ちゃんと同じの着るようになったら洗濯の時ややこしいなぁなんてことを荒北は思っていた。
手の届く範囲から洗濯物を取り込んでいく。二人分をまとめて洗濯してしまうものだからなかなかの量である。ばさばさとタオルを部屋に放り込み、それから服をその上に投げていく。細かいものはタコ足ごと取り込んで、物干しに何も残っていないのを確認してから荒北は引き戸を閉じた。


再点火したストーブの前に腰を落ち着けて、ほっと一息吐いてから荒北は作業に取りかかる。まずは嵩張る大きめのタオルから、というのは寮時代に学んだことだ。慣れた手つきでタオルを次々畳んで横へとよけていく。

「あー」と荒北が思わず口にしたのはそれからしばらく経ってからだった。

「福ちゃん、ポケットのゴミは出しといてって言ってんのにィ。」
福富のチノのポケットからぼろぼろと紙屑がこぼれてくるのを見ながら荒北はそう一人ぼやく。手を突っ込んでみると辛うじて形を残していた細長い紙切れがポケットの奥から姿を現したが、すぐに荒北の手の中で崩れていった。手の平に散らばった紙片が床に落ちないように気をつけながらゆっくりと立ち上がり、ゴミ箱の上でそれを払う。仕方ねえなあと思いつつズボンも同じように叩いて紙屑をすっかり取り去ってしまう。ちょっと甲斐甲斐しすぎるかな、と荒北がふと考えたのは、まだ寮にいた頃に新開が彼に言った「靖友って寿一の嫁みたいだな」という一言を思い出したからだった。

(あの時俺は何て返したんだっけ。)
荒北はふと考えてみる。そしてついでにあの時荒北の横に福富がいたことも思い出し、その時彼がどんな顔をして何を言ったのかという記憶を蘇らせようとしてみるが、どうにも靄が掛かったみたいにはっきりしない。あの後新開が笑ったことは覚えているのに。作業していた手を止めてしばし考え込んでみるが、出てきたのは欠伸ばかりで何も浮かびはしなかった。南向きの窓から差し込む太陽の光とストーブの火がじわじわと身体を暖めているせいかもしれない。緩やかに睡魔に襲われながら、荒北は考えるのを止め、これが終わったら福ちゃんが帰ってくるまでちょっと昼寝しようと白旗を上げたのだった。


***


何かが瞼に触れる感覚で目が覚めた。
「ただいま。」
荒北が目を開いたのに気付いた福富が先にそう言うと、荒北はぼんやりとした様子で間隔の長い瞬きを繰り返していたが、少ししてから自然とといったふうにおかえり、と返した。ソファに寝そべったまま、荒北は横に膝をついてこちらを覗きこんでいる福富を見る。福富はまだダウンを着たままで、荒北の触れた彼の髪はまだ冷たかった。
「今何時ィ。」
「五時過ぎだ。」
「アア、ちょっと寝過ぎたわ。おやつにプリンあるけど今食べる?」
「いや、帰ってきてからにしよう。」
お前もそろそろ寝癖くらいは取っておけよ。そう言って福富はようやっとソファから身体を持ち上げた荒北の髪を一撫でしてから立ち上がる。
福富が上着を脱ぐのを眺めながら、荒北は眠る前に浮かんだ疑問についてまた考えていた。
「あのさァ福ちゃん、」
彼に尋ねてみようかとそう呼んでみたものの、しかしながら「俺がお前の嫁みたいだって言われてどう思ったの」なんてこと、口に出すのはなかなかどうも恥ずかしくて言えない。次の言葉を待つ福富に、何でもないと言って荒北は目を逸らした。言われた本人ですら曖昧なのに彼が覚えているとは思えなかったのだ。

「あと二十分で出るぞ。」
彼らしい的確な指示をして福富が立ち上がり、それに続いて荒北もゆっくりと腰を上げた。福富の手にはクリーニングから帰ってきたところの黒っぽいスーツがある。クローゼットの左端な、と荒北が言ったのに頷いてから福富は寝室の方へ向かっていく。開きっぱなしのドアの向こうに金髪が消えていくのを見てから荒北は首を回してみる。動かす度にこきりと音がして、あんまりのんびりし過ぎた休日ってのもちょっと考え物だなと荒北は思った。
手櫛で適当に髪を整えながら洗面所の方へ向かう。後頭部の一部がひどく跳ねている。硬めの毛質はセットをするにはやりやすいが、しかしこうやって跳ねるのがいただけない。鏡の前に置いてあるワックスを手に取って、髪全体に馴染ませてから綺麗にセットしていく。
「いつもそれを使うんだな。」
遅れて入ってきた福富がそう言ったのに釣られて荒北は自分の手元を見て、それから洗面台の端に置いてある青いパッケージの整髪剤を見た。
「これが一番しっくりくんだよネェ。」
「それなら棚の整髪剤は少し片付けたらどうだ。」
「ンー、それとこれとは話は別かな。」
福富はちらりと視線を件の棚の方へやる。そこには荒北が集めたいくつものワックスやらスプレーやらのヘアスタイリング剤が乱雑に突っ込まれているのだ。福富は常々いつそれが崩れて溢れてくるかとひやひやしているのだが、当の荒北本人はそれを気にも留めず新作が出たと言っては買ってきてどんどん中身を増やしていくから困りものである。
「福ちゃんもセットしてあげようかァ?」
趣味だから、という言葉もそうだし、それに荒北がこうしてたまの気まぐれでこんなふうなことを(特に休日のとびきり機嫌がいい時の笑顔で)言うせいで福富はこの収集をやめろと強く言うことは出来ないのだった。

いいから早く準備をしろ、と言って福富は荒北を洗面所から追い出す。荒北はあまり整髪剤を付けるのを好まない福富が髪をいじるのをしばらく見ていたかったのだが、鏡越しに目の合った彼が「あと十分だ」と言って急かすのでそれは諦めることにした。
いくら地元の店だって言ってもこのズボンじゃあんまりだな、と荒北は擦り切れて膝の布地が薄くなってしまっているジーンズを一瞥して、寝室に向かう。それからタンスの中を検分し、彼は比較的真新しい黒のスキニーを取り出した。
立ったままそれに脚を通しながら荒北は部屋を見渡す。ああしまったどうせだったら布団も干せばよかったな、なんてことを思いながらベッドを見ると、そこには先ほど福富が着ていったダウンが投げ出されていた。自分の上着を取り出すついでにクローゼットの中を眺めてみると福富のコートが一つ無くなっている。なんだか福ちゃん気合い入ってんナァ、と荒北が思ったのは、そのコートが福富が持っている中で一番上等のものだったからだ。スタンドカラーのそのコートを最近福富が着たのは先週の結婚式で、記憶に新しい。俺ももうちょっといいの着ていくべきかな、と荒北は手に持っていたジャケットをクローゼットに戻しグレーのピーコートを取り出す。

(そうだ、ついでに)
リビングに戻りかけた時にふとベッドに無造作に置かれたままのダウンジャケットが目に付いた。別にこのままでも構わないのだが、気が付いた時にでも片付けておかないと後で面倒になるのはわかっている。荒北は片膝をベッドに乗せて、それに手を伸ばした。

すると、その時。
ことりとポケットからこぼれ落ちたものがある。

何だろう、と荒北はジャケットを持ったまま、その落ちたものに注意を向ける。手のひらに収まりそうなぐらいの小さい、四角いものである。荒北はもう片方の脚もベッドに乗り上げてそれを掴んでみる。
なんだかごわごわした触り心地だ。
どうやらそれは箱らしいと気付いたのはそれをしっかりと掌に収めてからだった。

指で掴んでそれを眺めてみる。なんとなく見たことがあるような、けれども今まで実際には見たことがないような。角の丸い部分を指でなぞりながら荒北は考える。一つの可能性が頭を過ったが、いやいやまさかとすぐに否定した。
(あんまりこういうの趣味じゃねえんだけど)
荒北はそう思ったものの好奇心には勝てずに、その箱を手のひらに載せるとその上部を指で掴んで、そっとそれを開けてみる。
中には白いつやつやした布地が貼られていた。そしてそれで包み込むようにして、中央に置かれていたのは、


「荒北、そろそろ行くぞ。」
不意に呼ばれたのに荒北は大きく肩を跳ねさせて、弾かれるように返事をした。慌てて手のひらに載せた箱を閉じて元通りにダウンのポケットに押し込むと、自分のコートを掴んで部屋から出ていく。

「準備は出来たか。」
「あ、アア、うん。大丈夫ゥ。」
「そうか、それじゃあ先に出ててくれ。」
すぐに追いつく、と言って福富が目で促すのにそのまま従って、荒北は玄関に向かう。思わずぎくしゃくした動作になってしまっているのに気付く余裕は今の彼には無かった。
荒北は唐突に理解してしまったのだった。そして同時にあることを思い出していた。


(そうだ、あの時福ちゃんは『そのつもりだ』って言ったんだ)

新開が彼のことを福富の嫁みたいだ、とからかった時に福富は『いずれ、そのつもりだ』と言ったのだ。それも至極生真面目な顔で。
基本的に彼は冗談なんて言わない。そのことに思い至った瞬間、荒北は今朝からのあらゆることを思い出してぱっと赤面した。
素早く靴を履いて外に出ると、冷たい風が荒北の頬を撫でた。足下がぐらぐらする。荒北は考えていた。きっと福ちゃんは今、寝室のベッドの上にあるジャケットを手に取っているだろう。そしてそのポケットの中からあの箱を取り出しているのだ。そしてこれから二人でレストランに行って、しばらくしたら彼がある一言を言うんだろう。

どうしよう。荒北は小さく口の中で呟いた。こんなこと今まで考えもしていなかった。

(ああまた変えられてしまう)
二人が出会った時もそうだった。二人が恋人同士になったときも、そしてこうして一緒に暮らし始めるようになったのも、すべては福富の一言がきっかけだった。たった一言。それだけで二人の関係は変わってしまうのだ。

アパートの前でビアンキに跨って、荒北は一つ息を吐いた。心臓がひどく跳ねていて、まるで処刑される前の気分だなんて思いながら赤くなった耳を擦った。いつも通りの休日だと思っていたのに。箱を開けるんじゃなかったと後悔してももう遅い。折角今からうまいものを食べにいくっていうのに、こんなんじゃ味なんかわからないだろう。
「福ちゃんのくせに、」
そう言ってはみたが続く言葉が浮かばない。いつもは考えなくたって口から出てくるのに。
ワイヤーロックを外す手がちょっとだけ震えているのは寒さのせいだけではないはずだ。

彼はどんな顔をして「それ」を渡すつもりだろう、と荒北は考えてみる。いつもの鉄仮面みたいな無表情だろうか、一緒に住もうと言ったあの時みたいな照れてちょっと拗ねたみたいな顔だろうか、それとも新開に言ったときみたいに「当然」という顔をするんだろうか。

風は冷たかった。けれども荒北の頬の熱は、それでは冷める様子はない。


箱の中には、銀の指輪が入っていた。