「荒北さんってぇ、彼女いるんですかぁ?」
甘ったるい声を出しながら隣にいる女が俺の方を向く。わざとらしく伸ばした語尾と上目遣いの視線を武器に、こいつは何人を落としてきたんだろうかなんて下世話な疑問が浮かんだ。こちらへと向く矛先にため息を吐きたくなるのを堪えながら、いねえと短く答えてビールを呷る。へぇー、そうなんですかぁ。そう言った女の声には明らかな期待と欲が混じっていた。じゃあ私とかどうですか、こう見えても結構尽くすタイプなんですよ。次々耳に入ってくるそんな言葉から逃げ出したくなって幹事の方へ視線を向けてみるものの、純粋にコンパというものを楽しんでいるらしい同僚の東堂は遠く離れた席で女達に囲まれてニコニコしていた。こんなことになるなら無理矢理にでも帰ってやればよかった。数時間前、脚にすがりついてくる男を振り払えなかった自分の優しさが恨めしい。
ひたすらに酒を喉に流し込む俺の苛つきに隣の女が気付くことは無いだろう。甘い鼻にかかったような声も、すり寄るような仕草も、俺に何かを期待する目も、何もかもが神経を逆撫でしてくる。
帰りたい。
ただそれだけが頭を巡る。
「ねぇ、私本当に荒北さんのコト、」
女の手が俺の膝に触れる。ざわりと肌が粟立つのを感じて、思わず振り払いそうになったのをすんでのところで止めた。顔をのぞき込んできた女は、俺の眉間に皺が寄っていることなんか気にしていない。身体の向きを少し変えて、更にこちらへとその肉付きのいい脚が寄せられる。腕に胸が当たって、両手のひらが俺の太股を撫でるようにスライドして。厚く化粧の施された顔が俺の顔のすぐ近くまでーー
「悪い、俺帰るわ。」
気付いた時にはそう口走っていた。脇にあったスーツの上と、鞄をひっつかんで立ち上がる。隣にいた女は口を開けてぽかんとした表情を浮かべていた。
「おい、靖友。」
新開が呼ぶのが聞こえたが、その時にはもう俺の手はドアノブに掛かっていた。
一瞬背後に視線を投げると、呆気にとられたまま動けない様子の女が見える。その手は先ほどまで俺がいた場所に置かれ、目には純粋な疑問が浮かんでいた。残念だったな、そんな手で落ちる男ばっかりじゃねえンだよ。
「よい週末をォ。」
ひらりと手を振って、俺はドアを開いた。解放感に釣られて大きく息を吸う。
「くせえな。」
襟刳りあたりから匂うのは先ほどの女がつけていた、悪趣味なほどかぐわしい香水のにおいだった。
***
どこでこうなったのかはわからないが、気が付いたときにはすでに俺は女という奴が苦手だった。
だからといって男が好き、というわけではない。付き合ったことがあるのは女だけだし、俺もやっぱり男だから性欲が向くのも女だ。今ではもう買わなくなったものの昔はそういったDVDやグラビア雑誌なんかにお世話になったこともある。
要は見るだけならば何の問題も無いのだ。
だがどうも触れてしまうとダメで、女の肌の感触だとか、匂いだとか、そういうものを感じるだけで鳥肌がたってしまう。
そういうムードになって、ベッドになだれ込んだ経験だってあるのだが、いざ、という段階になって俺のその体質が発揮されてしまいうやむやになってしまった。手は震えるわ吐き気はするわ、そんな状態じゃ勃つものも勃たないわ(その女には「アンタホモなの」なんて言われるわ)で散々だった。その記憶がトラウマになってしまったらしく、それ以降俺のその体質が悪化してしまったことは言うまでもない。
女の、あの目が嫌だ。色をはらむあの目。濡れたような唇も、柔らかい指先も、滑らかな身体のラインも、脚も髪も爪先も声も匂いも雰囲気も、何もかもが嫌だ。
それを口に出して周りに言ったことはない。言えるわけも無いし、言う必要も無いからだ。同僚で仲のいい東堂や新開や、そして福ちゃんは俺がそういう場が苦手だということは薄々気が付いているだろうし(それでも誘ってくることはあるが)、口が悪くとっつきにくい俺を飲み会なんかに誘おうと思う人間なんかこの三人以外ほとんどいないから、知られていないことで別段困ることもない。
どうにかしないとと悩んだこともあったが、もう最近ではこういうものなのだと諦め始めている。一生の伴侶がいない、というのは少し寂しいかもしれないが、生きてさえいればそれ以上に楽しいことなんてざらにあるだろう。
仕事も、きついと思うこともあるがその分やりがいがある。気心の知れた仲間もいる。趣味も充実してるし、一息吐ける家もある。十分すぎるほどだろう。ほんの少しだけささくれだった所があるところを除けば、俺は今の人生に満足している。
***
家の鍵を会社に忘れてきたことに気付いたのは、ビアンキのロックを外すためにポケットに手を突っ込んだ時だった。いつもそこにあるはずのものが無いことに眉を顰め、鞄の中を引っかき回してみたが目当てのものはそこにはない。
「チッ。」
舌打ちして俺はロードバイクの向きを変える。本当ならこのまま何も考えずにぶっ飛ばして帰りたいところだったが、帰ったところで入れなければ意味がない。思い切り重たい溜息を吐いてから俺はペダルを踏み込んだ。
自転車に乗るのは好きだ。風を切り、街を駆け抜けていくのは気持ちがいい。スピードが余計な思考を奪う感覚が堪らない。何も考えたくないときにはロードは最適だ。特にこんな夜には。
何もかもを振り切るように角を曲がり、裂くようにして道を抜ける。先ほど女に触られた場所は風に洗われ、不快感はもう無い。匂いもこれで消えてくれれば、と思うのだが、まだ鼻先には甘い香りが残っていた。舌打ちをもう一つ。
そうしているうちに毎日通っている見慣れたビルが見えてくる。高層ビル街の一角にある俺の職場は駅からも近い良い立地にある。
上司である福ちゃんの祖父が立ち上げたこの会社はそれなりに名の知れた大きな企業で、本来俺みたいな三流大卒のペーペーが簡単に入れるものではない。俺なんかがここにいてもいいのかなぁなんてたまに思ったりもするのだが、それを口にすると「お前がいないと誰が俺をアシストするんだ」と普段から怖がられている鉄仮面にさらに凄みを足して怒る奴がいるので、俺は安心してここにいられるのだ。
自転車を駐車場にロックして、それから階段でオフィスまで向かう。電源が落とされているためエレベーターは動かないのだ。五階までは結構な距離があるが、身体を動かして頭から余分なことを消してしまいたい俺にとっては幸いだった。
早足で階段を登りきり、明かりの消えたオフィスの中へ。
「あれ、福ちゃんまだいるんだ。」
自分のデスクの左手側、一番奥のデスクのライトとパソコンがが点けっぱなしなのを見て俺は思わず呟いた。トイレにでも行っているのだろう、主のいないその椅子はなんとなく寂しそうに見えた。
折角の金曜で、明日は休みなのだから早く帰ればいいのに。そう思ったが、彼が仕事を投げ出して帰れるような性格ではなかったことを思いだし苦笑する。真面目だよなァ。福ちゃんのそういうとこが好きなんだけどさ。「福富のペット」とまで周りに陰口されるほど、自分が彼に惚れ込んでいることを改めて自覚する。一つだけ明かりのついたデスクを眺めながら、女よりも俺は福ちゃんとする仕事が好きなんだろうなぁとぼんやり思った。先ほどまでも鬱屈とした感情が穏やかなものに変わっていく。福ちゃんが戻ってきたら飲みにでも誘ってみようかな。そう思いつつ、俺は本来の目的、鍵を探すことをようやく始めたのだった。
「あら、荒北君も残業?」
カツンという高い足音が聞こえたと思ったら、気付けばそこに隣のオフィスの女性がいた。手に鞄を持っているところを見ると今帰るところらしい。面倒臭いなとすぐさま目を逸らし、ええ、まぁ、と背を向けたまま曖昧な返事で応えた。同期や後輩も面倒だが、先輩や上司はより一層面倒だ。何よりこちらの立場が弱いのがいけない。近付いてくる足音に軽い頭痛を覚えながら、俺は首だけをそちらに向けた。
「うおっ、」
「ね、ちょっと飲みに行きましょうよ。」
予想よりも近いところに先輩がいて思わず声をあげる。ふわついた足取りと、そして明らかなアルコールの匂いに俺は眉を寄せた。
「会社で酒とか飲んでいーんすか。」
「誰もいないんだからいいじゃない。」
そういう問題じゃないだろう。俺の足で一歩分の距離に女は近付いて来ていた。身体を反転させて正面から向き合うと、その顔に浮かべられた笑みが目に入ってまた気が滅入る。厄日か、今日は。こんなことになるなら鍵は管理人さんにどうにかしてもらうからとさっさと帰ってしまえばよかった。いやそもそも東堂の誘いになんて乗らなきゃよかったんだ。
酒と香水の匂いに目眩がする。ごてごてと縁取られた女の目の淀みの中に俺がいた。ひどく情けない顔をしている。帰りたい。その台詞を思い浮かべるのは今日、何回目だろうか。
「いいでしょ少しぐらい。」
付き合ってよ。女は俺の胸に手を添える。背筋が一気に冷えて、先ほどまで脳に残っていたアルコールは途端に消え去った。喉の奥から漏れそうになる悲鳴を飲み込んで、片腕で女を押し退けようとするが、伸ばした先には女の武器のあの忌まわしい二つの膨らみがある。触れかけて慌てて引こうとした手は鋭利な爪を持つ手に掴まれた。ファンシーな色合いのそれが自らの皮膚に食い込む。女が舌なめずりをしたような気がした。ぎょっとして仰け反ると後ろのデスクにぶつかった。積んでいたファイルが崩れ落ちていく。ああ折角綺麗に片付いてたのにな。頭の隅で思いつつ、伸ばされたもう片手は行き場を失って机の端を掴んだ。
ねえ。女が俺の指に自らの指を絡ませる。他人の体温に身を竦めると案外うぶなのねなんて言葉が囁かれて息が出来なくなった。気持ち悪い。逃げた腰がデスクに乗り上げて、座るみたいな格好になる。すると次は女が俺の上に乗ってくる。逃がさないとでも言いたげな視線から少しでも遠ざかりたくて目を瞑ると胸に柔らかい感覚。勘弁してくれ。そう叫ぼうとした唇に今度は湿った感触。ああこれはもしかして。吐き気がこみ上げてきて、喉が震える。頭が痛い。頼むから早く終わってくれ。今日は金曜日じゃないか。
どこかに救いの手は無いかと息継ぎの最中に目を開く。頭が痛くて仕方なかった。
「・・・荒北?」
その時ちょうど耳鳴りがしていたから、その声は幻聴だと俺は思った。やっぱり俺にとっての救世主は福ちゃんなんだなぁとどこか遠くで考えていた。それが現実だとわかったのは滲んだ視界に見慣れた金髪が映ってからで、息も絶え絶えに名前を呼ぶと、彼はひどく驚いた様子でこちらへ駆け寄ってきたのだった。
「そこで何をしている。」
福ちゃんの声がして、女は慌てた様子で俺の上から退いた。いや、あのね、これは私じゃなくてね、荒北君がね、なんて言い訳をしながら。
「社内での飲酒は禁じられているはずだ。」
しばらくの間その耳障りな言い訳は続いていたがぴしゃりとした福ちゃんの物言いに、ついに女は黙り込み、上へは俺が報告するというその一言で完全に酔いが醒めたようだった。
俺はどこか遠くでそれを聞きながら、ああ助かったのだとただ安堵していた。女が真っ青な顔をして駆け抜けていく。福ちゃんの厳しい視線が今度はこちらを向いた。
「あのさ、福ちゃ、ん、」
あれ。語尾がみっともなく震えていることで、俺は自分が泣いていることに気付いた。身体を支えていた腕から力が抜けて、ずるずると俺は床に座り込んだ。
「荒北、どうした、大丈夫か。」
いかにもどうしたらいいかわからないみたいな声が上から降ってくる。大丈夫と答えたつもりだが、彼にちゃんと聞こえただろうか。必死で声を堪えている時に頭を撫でられていることに気付いたものだから、俺は何も言えなかった。
しばらくして顔を上げると、福ちゃんはひどく困ったような顔で俺を見ていた。そりゃあそうだろう。オフィスで部下の、180も背のある男が女に泣かされているなんて。そんな状況に遭遇したら俺だってどんな顔していいかわから無い。さっきのことを説明しなければ。俺はこいつにだけはもう迷惑を掛けたくないんだ。そう思って口を開こうとして、次の瞬間また口を塞ぐ。
「荒北?」
どうした、と相も変わらず戸惑った声。喉の奥からせり上がるものを無理矢理飲み込みながら、吐きそうと小さく告げると福ちゃんの顔色が変わった。あ、こいつこんな顔出来るんだ。口元を押さえながらそんなことを思っていると、不意に身体が浮き上がった。
「もうちょっと我慢しろよ!」
いいな。念を押すような声にただ頷くことしか出来なかった。こんな状況じゃ子供みたいに抱き上げられるのが恥ずかしいなんて言えるはずもない。揺れで胃の中身がかき混ぜられて大変なことになっているのに耐えつつ、どうしてこんなことになったと自問する。深夜の高層ビル内を男が男を抱えて疾走してるなんてちょっとしたホラーじゃないだろうか。トイレまでのそんなに長くない距離では答えが出るはずもなく、少しトびそうになっていた意識を「しっかりしろ」という声で取り戻し、ようやくたどり着いた便器に俺はすがりついたのだった。
***
「ごめんねェ、ホント。」
女に襲われているところを助けてもらったことも、わざわざここまで運んできてくれたことも、背中を撫でてくれたことも。自分の格好悪い部分を全て晒けだしてしまったようで、どうも居心地が悪い。口をすすいで洗面台の前でうなだれる。
「ゴメン。」
目を合わせられずに俯いたままそう繰り返す。鏡越しにちらと窺ってみると後ろに立っている福ちゃんの真っ直ぐな視線とかち合って、俺は自分の情けなさに目を泳がせるのだった。
しばらくの間、福ちゃんは黙ってこちらを見つめていた。そうして不意に俺の頭を乱暴に撫でると「帰ろう」と言って俺の手を引く。
福ちゃんは何も聞かなかった。こういうところがあるから人を惹きつけるんだろうなとふと思った。少し強引に引っ張っていく背中が好きだ。もう一度謝ろうと口を開いたが、それは「家で飲まないか」という福ちゃんの言葉に遮られた。
「それにそのままじゃ帰れないだろう。」
言われて見てみれば、シャツの襟首にはくっきりとキスマークがつき、それに第二ボタンもどこかへ飛んでいて、俺はいかにも「さっき襲われましたよ」みたいな雰囲気漂う様相を呈していた。口紅って洗濯してちゃんと落ちるんだろうか。ぐったりして息を吐く俺に「災難だったな」と心底同情している声で福ちゃんは言う。
「福ちゃんがいてくれて本当によかったヨ。」
皮肉っぽく言ったつもりだが、うまく笑えていたかはわからない。ただ目の前の背中が揺るがなかったことが救いだった。
***
厚意に甘えて(押し切られた感もあるが)真っ黒なBMWにビアンキを積み込んで、俺たちは福ちゃんのマンションへ向かった。普段は自転車で通勤する福ちゃんが今日は車で来ていたことは幸いだった。身体も頭も落ち着いていない状態でロードに乗るのは危険すぎる。
「福ちゃんってさ、なんでいっつも金曜は車で来るの。」
助手席のシートに沈みながらなんとはなしにそう尋ねてみると「今日は車だと言っておけば無理に飲み会に誘われることもないから」という何ともこの男らしい理由が返ってきた。
「悪かったな、バイク以外に趣味も無くて。」
「別に悪かねえって。なんだ、毎週彼女にでも会いに行ってんのかと思ってた。」
「恋人なんて三年前からずっといない。」
残念ながら。福ちゃんは前を見つめながらそう付け足した。鉄仮面にちょっとだけ、本当に悔しそうな色が浮かんでいるのを見ていると心がゆっくりと凪いでいくのがわかった。
「福ちゃん見てると癒されるわァ。」
「俺はお前を見てるとドキドキする。」
「へいへい、いっつも世話かけてすみませんね。」
「・・・返事は一回だ。」
お決まりの台詞に一度だけ返事して、自然に出てきた笑いを隠すことも無く顔に浮かべる。「この世の女みんないなくなっても福ちゃんがいればいいや」なんて軽口を叩いているうちに、車は閑静な住宅街へと入り込んでいた。もうすでに遅い時間帯だから、家の明かりもまばらである。何度も通ったことのある道順を頭の中で辿りながらそろそろかな、と俺は身を起こす。
「そういえば、」
その時福ちゃんが思い出したように口を開いた。なんだろうと視線をそちらへ戻すと、福ちゃんもこちらを見る。
「お前なんでさっき会社に戻って来てたんだ。」
ざぁっと、自分の血が引いていくのがわかった。
***
半ばパニックで鍵についてのことを伝えると福ちゃんは急いで元来た道を戻ってくれたが、さすが福利厚生のしっかりしたこの会社である。休日出勤も長時間の残業も許さないという確固としたスタンスをもって扉は全て封鎖された後だった。次に扉が解放されるのは月曜日、つまり2日後。それまではどうやっても俺みたいなヒラ社員は会社に入ることさえできない。閉ざされたエントランスのドアの前でうなだれながら、ふとマンションの管理人に連絡を入れて鍵をどうにかしてもらおうかと考えてみた。しかしそのとき時間はすでに深夜と呼んでいいものだったから余りにそれは非常識すぎる。仕方なく愛する我が家へと帰ることは諦めて、幸い財布も携帯もあるし今晩はホテルにでも泊まることに決めて俺は車へと戻ったのである。福ちゃんはきっと家に泊まれだとかそんな優しいことを言ってくれるだろうけど、これ以上世話をかけるなんて申し訳なくて出来やしない。何を言われてもちゃんと断ろう。俺は固くそう決意したのだった。
だが福ちゃんは俺のその申し出を頑として聞かなかった。それどころか、俺が「でも」と言い募ると「俺の言うことが聞けないのか」と上から迫ってきたのだ。なんでこんなトコでそんなプレッシャー醸し出してんだよ。そう言いたかったが彼の余りの剣幕に言い淀んでちゃんと否定できなかった。
「福ちゃん、明日予定とかあるんじゃ、」
「明日はお前と走りに行く予定だったろ。」
苦し紛れの質問にはにべもなくそう返されて、俺はぐうの音も出なくなる。どうにかならないかと黙り込み、必死に考えているうちに再び見慣れたマンションが見えてくる。
「先に上がっててくれ。」
鍵を手渡され、無意識のうちに頷いていた。福ちゃんの中で俺が泊まることはすでに決定事項になっているようで、この状態になってしまうともはや俺にはどうこうしようがない。
結局のところ、俺は押しに弱かったのだ。
***
「相変わらずなんっもねえなァ。」
真っ暗な部屋に電気を点けて、俺はそう一人口にする。
一人暮らしにしては広々とした2LDKには必要最低限の家具と生活必需品、それと自転車が置かれているばかりでひどく殺風景である。(それを本人に言うと、また「無趣味で悪かったな」なんて拗ねるから言わないことにする。)綺麗に片付けられたキッチンを片目に俺は部屋の中へと躊躇無く踏み込んで行った。ここへは何度も来ているから勝手知ったる、といった感じだ。
リビングの真ん中で存在感を主張する大きなソファの横に鞄を置き、自らをソファに投げ出すとようやく一心地ついた。背もたれに頭を載せて目を瞑る。部屋の中は福ちゃんの匂いで満ちているのに、自分のシャツから漂う香水の匂いで台無しだ。
(福ちゃんが来たらすぐに風呂貸してもらおう。)
手探りで首に掛かったネクタイをほどきながら俺はそう心に決めたのだった。
「おかえりィ。」
しばらくして戻って来た福ちゃんにそのままの姿勢でそう言うと、少し間を置いてからただいまと言う声が返ってきた。
「お前、その格好はどうにかならないのか。」
「仕方ねえじゃん、疲れたんだよ俺ァ。」
開き直ってしまえば随分気は楽だった。少しだけ瞼を持ち上げると金髪が近付いてくるのが見えた。福ちゃんはやれやれといった表情で俺の頭を一撫ですると、脇を抜けて寝室の方へ向かっていく。一瞬触れて離れていく体温が惜しくて無意識にその背中を目で追った。振り向いた福ちゃんは俺の方を見て、「ちょっと待ってろ」と目を細めて言う。あやすみたいなその声に気恥ずかしくなって、俺はまた目を閉じた。
「荒北。」
「んー。」
少ししてから福ちゃんの声が聞こえてくる。のろのろと立ち上がって呼ばれた方へ向かった。蛍光灯の光が眩しくて瞬きを繰り返す。明かりも点けていない寝室の中に福ちゃんがいた。いつの間にか着替えたらしい部屋着のシャツの襟刳りが伸びきっていて、福ちゃんでもこんな格好をするんだな、なんてふと思った。
「ちょっと眠ったらどうだ。」
福ちゃんは俺に真新しいTシャツとハーフパンツを手渡しながらそう気遣わしげに尋ねてくる。顔色が悪い、と言って眉を顰め、俺の顔をじっとのぞき込んできた。平気だと答えてはみたがその目の色は変わらない。
「大丈夫だってェ。」
そう俺が言っても目の前の男は納得のいかない顔をしたままである。仕事中なら「お前に一任する」みたいな台詞聞きっこなのに、今は全く以て信頼されていないようだ。それもそうか、と俺は一連の出来事を思い返してまた少し自分の気持ちが落ち込むのを感じる。
(まぁ今日ぐらいは甘えておこうかな。)
精神的にも体力的にも限界だし、それにこのままじゃあここの家主が帰してはくれないだろう。
何か食事を用意すると言ってリビングへ足を向けた福ちゃんにシャワーを借りたいと言うと、今風呂を溜めているところだと告げられる。悪いなぁと思ったのが顔にも出たのか、気にするなと先に言われてしまって俺はありがとうとしか言えなくなってしまった。
「ホントは一番風呂借りるのも申し訳ないんだけど、香水の匂いがさ。」
わざとらしい香りがまだ体中に残っているような気がして、どうにも落ち着かない。まだ着たままのシャツの袖口に鼻を寄せるとやはり甘い匂いがして、俺は盛大に顔を歪めた。今すぐにでもこのシャツを洗濯機に突っ込んでしまいたいのだが、そこまで言うのは厚かましいだろうか。首に引っかけたままだったネクタイを抜いて指先でくるくると巻きながら踵を返す。ともかく何もかもは洗い流した後だ。
「おっ、えっ何、」
俯いたまま踏み出した足は一歩目とならず、バランスを崩した俺は慌ててその足をその場に下ろした。突然後ろから首筋を引き寄せられて、まるで抱きしめられてるみたいな格好になっていることに目の端に金髪が映って気付いた。
「福ちゃん、えっと、なにコレ。」
肩に回された手を緩く掴みながら俺は訊く。首筋に福ちゃんの息が掛かってくすぐったくて身を捩ると、その逃げをも許さないとでもいうように腕の拘束が強くなった。
どういうことだろう、これは。なんだかわからないが恥ずかしい。
「・・・福ちゃん?」
俺をがっしり引き留めたまま動かない男にいぶかしみながらもう一度声を掛けると福ちゃんははっとしたように俺から手を離した。
「荒北の匂いがした。」
俺が振り向くと福ちゃんはぽろりとそんな言葉をこぼして頷いた。状況が飲み込めず一言も口からでない俺に「やっぱり鼻がいいんだな」と自分勝手に納得したような台詞を残して、福ちゃんはリビングへと消えていく。
呆然として立ちすくむ。襟刳りの伸びきった青いシャツが完全に視界からなくなるまで俺は全く動けなかった。説明をしろよと叫びたい気持ちになったが時間も時間だ。
「俺そんなに体臭きつくないよなぁ・・・。」
少しだけ不安になって嗅いでみたが、やはり甘い匂いにかき消された。
***
熱いシャワーを浴びて部屋に戻ると、テーブルにはすでにいくらかの料理が並べられていた。
「ビールでいいか。」
「ああ、うん。ありがと。」
俺と入れ替わりにソファから立ち上がり福ちゃんはキッチンの方へと歩いていく。タオルでがしがし髪を拭きながらその背中を俺は眺めていた。広い背中だ。やせぎすで肩胛骨の張り出した俺のものとは違って、しっかりと筋肉が付いていて、きっとこういうものを頼りがいのあるって言うんだろう。同じ男でどうしてこうも体つきが変わってくるのか。それなりに量も食べる方だし運動だってしてるのになァ。あらかた髪を拭き終えてタオルを引っかけた自分の首に触れてみる。前よりも肉の落ちた気配がしてうんざりした気分になった。
「ちょっと痩せたか。」
500ミリリットル缶を受け取ってもう一度ありがとうと言う。図星を指された俺はちょっとだけ苦笑して「疲れてるからそう見えるだけじゃない」と肩を竦めた。
ソファの前に座った福ちゃんに合わせて俺も床に腰を下ろす。毛の短いカーペットが脚に触れて少しちくちくした。福ちゃんはテレビの電源をつけてからビールのプルタブに指を掛ける。少しぼんやりしていた俺は福ちゃんの視線に促されるように自分の缶を開けた。かしゅんと小気味よい音の後に「お疲れ」という低い声が鼓膜に響いてどことなくほっとしたような気分になる。一息に呷ったビールの苦さが身にしみる。
「ほんっと疲れたわ、今日。」
「災難だったな。というかそもそもお前、最近根を詰めすぎだ。総務からお前に休みを取らせろって勧告が来てる。」
「えー言いがかりじゃねえのォ。それを言うなら福ちゃんも全然休み取ってねえじゃん。」
「俺は荒北みたいに有給丸々残ってるわけじゃないからな。」
「っつっても一日や二日だろうがよ。」
「今度二人で旅行でも行くか。」
「あーいいね。どっか走れるとこ行きてえ。」
「ロードでヨーロッパ一周するのなんてどうだ。」
「宿無かったら野宿して?ハハッ、悪くねえなァ!」
しばらく二人でテレビを眺めながらくだらない会話をしていた。どうせだったらジロの時期にあわせようぜ。いきなりトップ二人が休暇なんて取ったら混乱しないだろうか。いっつも世話掛けられてるんだからちょっとぐらい困らせたってバチは当たんねえよ。誰にも見つからないようにこっそり秘密基地を作ってる子供みたいな気持ちで二人して目を合わせて笑った。
テレビでは昼間のサッカーの試合のダイジェストが流れている。対戦しているのはどちらも海外のチームで、小中は野球、肘を壊してしまってしばらくしてからはずっとロードバイクに打ち込んできた俺には耳慣れない名前だった。少しだけ二人とも黙って目の前の食べ物を咀嚼するのに集中する。俺はそこまで腹は減っていなかったから、冷や奴なんかをつまみながら缶を傾けていた。赤いユニフォームの選手がゴールにボールを叩き込んだとき、ふと思い出したように福ちゃんが口を開いた。
「そういえばお前、あの人のことあんなに嫌いだったか。」
ぎくりとして、口に放り込んだトマトが喉につかえた。慌てた素振りを見せないようにしながらビールでそれを流し込む。先ほどの出来事が頭をよぎってちょっとだけ耳鳴りがした。
ああついに年貢の納め時か。いつかいつかと延ばしてきて、あわよくば必要が無いなら言わなくていいかなんて思っていたけれど今回ばかりはそうもいかないようだ。別に相手が福ちゃんだから、言ったところでどうこうするわけでもないが、それでも今までずっと言えずにきたものを言うのにはなかなか決意が要る。言葉を自分の中で練るために俺は目を伏せた。
テレビの画面がサッカーからニュースへ変わって部屋が少しだけ静かになった頃、ようやく俺は顔を上げた。
途端に真っ直ぐな視線に射抜かれて息を呑む。
俺が逡巡して目を泳がせている間も福ちゃんはこちらを見つめていたらしい。言葉を待つ視線。沈黙の後、一つ息を吐いた。
「あのサァ福ちゃん、」
言葉を選びながら口にする。別にたいしたことじゃないんだけどさ。そう言ってはみたがたぶん今俺はものすごく情けない顔をしていると思う。
「俺、女ダメなんだァ。」
***
一つ語り始めると案外するすると言葉は出てきた。福ちゃんは俺の話を聞いて驚いた顔を(ぱっと見はやはり鉄仮面だったが)していたが、黙って聞いていた。「触るのも触られるのもダメだ」と言うと福ちゃんは納得したといった風に首を振り、それから困ったように眉を寄せて俺を見る。
「すまない、俺がもうちょっと気をつかってやれれば良かったんだが、」
「いや俺がちゃんと言わなかったのが悪いんだよ。それにいい加減こんなわけわかんねえ体質治さなきゃいけねえのに引きずってて。」
福ちゃんはさらに何か声を掛けようとしたようだったが、俺が目を逸らしたのを見て口を閉ざした。静かにニュースが二人の間を流れていく。胡座をかいていた脚を崩して、膝を立てて抱え込む。ついに言ってしまった。ほんの少しの後悔が腹の底でくすぶってはいたものの、俺の心は意外にも軽かった。ずっと言えずに苦しかったのかもしれない。後ろ暗い部分があるよりはこうして晒してしまった方がずっと楽なのだと今更になって気が付いた。幾分かすっきりしたような気分で視線を再び視線を福ちゃんの方へ向ける。
「マァ、これを機会に治す努力でもしてみようかね。」
笑顔を作ってみせたが鉄仮面はまだ顔を綻ばせることはなく、厳しく眉間に皺を寄せたまま「無理をするならやめておけ」と言った。
「そのままでも問題は無いんだから。」
「うーんでもさァ、俺だってたまには営業回んなきゃいけない時もあるじゃん。」
「その時は俺が行く。」
「えっ、なんで。」
「お前が苦しむぐらいなら俺が行く。お前は俺のアシストだけしてればいい。」
「いや何言ってんの。ダメだよ。」
そのままでいい、いいや治さないと。相手は頑固だし、俺は俺で譲れないしで押し問答はえらく長く続いたように思う。
福ちゃんは時々よくわからない。普段は仕事のためなら何もかも擲ってしまってもいいと言わんばかりなのに、不意に仕事なんてどうでもいいみたいなことを言い出すから不思議だ。余所の会社で下っ端をやっていた俺を引き抜いた時のこともそうだし、今回のこともそうだ。
「ホンットわっかんねえ・・・。」
結局折衷案として俺たちが出したのは「無理をせず、徐々に、仕事上の必要に合わせて治していく」というなんともやんわりしたものだった。
「真綿でだって首を絞められるんだからな。」
「へいへいわかってるよ。無理はしない。」
「返事は一回。」
「へーい。」
福ちゃんはまだ少しばかり不満そうな表情をしていたが、これ以上の議論は無駄だと悟ったのだろう、俺の返事を聞いてただ頷いただけだった。
二人とも同時に手を伸ばして缶を手に取る。
「ぬるいネ。」
「新しいの開けるか。」
「んー、コレ飲みきってからでいいよ。」
振るとちゃぷんと音を立てた。まだ半分以上残っているようだ。今日初めてまともに酔えそうな気配がする。アルコールが心地いい。
「荒北。」
「なァに。」
呼ばれて顔を上げると、なぜだか福ちゃんは未だに険しい顔をしていた。なんだろう。そんなに心配されているんだろうか。身体を浮かせて距離を縮めて、もう一度そちらへと顔を向ける。
福ちゃんは迷ったように視線をさまよわせていたが、俺が視線を向けて少しすると腹を決めたらしくこちらをしっかりと見据えたのだった。
「お前、男は。」
「・・・ハァ?」
「だから、男と付き合ったことはあるのかと聞いている。」
言葉の意味が飲み込めなくて固まっていると、また名前を呼ばれる。意識せずびくりと肩が揺れて、慌てて首を横に振った。
「無いのか。」
「無いよ。っていうかそういうの考えたこともねえ。」
たしかに女はダメだけど、男とそういう関係にってのはどうにも想像がつかなくて。周りにそういう人間がいないわけではないから(現に同僚の東堂は巻ちゃんっていうちょっと風変わりな恋人と同棲しているし)偏見があるというわけではないのだけど、自分が、となるとどうにも考えられないのだ。
福ちゃんは俺の言葉を聞いて一瞬どこかほっとしたような表情を浮かべ、それからまたいつもの鉄仮面に戻る。質問の意図がわからなくて俺は首を傾げた。俺までそっちに走ったら、ただでさえ職場で浮いている俺たちのチームがさらにマイノリティ感を増すとでも危惧しているのだろうか。
「いや、そういうわけじゃないんだが。」
そう言う福ちゃんの顔はやっぱり険しい。同じ職場にいるのだから福ちゃんもそういうのには寛容だと思っていたのだが、いくらなんでも何人もいるのはきついということだろうか。いやでも俺は違うんだから問題はないだろう。ならなんでこいつはこんな顔をしてるんだ。状況が把握できず相変わらずフリーズしたままの俺と、何を考えているのかこちらも動かない鉄仮面。見つめ合うというよりかは睨みあうといった体で向き合っていた。
諦めて先に口を開いたのは予想通り俺の方だった。
「別に心配しなくたってさ、俺はホモでもゲイでもないよ、福ちゃん。」
肩を竦めてそう言ってみせ、それから手を伸ばして、目の前の男の深く皺の寄った眉間をぐりぐり指で押さえつける。抵抗しないのに気を良くしてしばらくそうしていた。福ちゃんが不意に俺の手を掴んだのに驚いたのはきっと油断していたからだ。
「試したことも無いんだな。」
福ちゃんはやたらと真剣にそう言った。しつこい、と返してやろうかと思ったが相手は福ちゃんだ。生真面目なこの男がからかいや好奇心でそんなことを言うはずはないし、きっと彼なりに何か考えていることがあるんだろう。落ち着いて片手に持っていたビールの缶を置いた。それからきつく俺の手を握りしめる彼の手をやんわり叩きながら俺は答える。
「無いってば。」
「本当だな。」
「俺が福ちゃんに嘘つくはずないじゃん。」
「信じるぞその言葉。」
「信じてよ福ちゃん。俺にそんな特殊な性癖は無いって、」
「じゃあ試してみる価値はあるんじゃないか。」
「えっ。」
なに、福ちゃん、もっかい言って?
俺はぽかんと阿呆になったみたいに口を開けていた。
試す?何を?
疑問は頭の中でぐるぐる回って出てこようとはしない。呆然とする俺の手を目の辺りまで持ち上げて福ちゃんはもう一度掴みなおす。いや、ただ掴むというわけではなく指を絡めると言った方が正しいかもしれない。いわゆる「カップル繋ぎ」みたいな状態で、俺と福ちゃんの手のひら同士がぴったりくっついた。
「気持ち悪くはないか。」
福ちゃんは真顔だった。くそ、こんな時便利だな鉄仮面。
「それはない、けど。福ちゃん、えっと、これなに。」
貼り付いた舌をどうにか引き剥がして俺は尋ねる。福ちゃんの真っ黒な目に映りこんだ俺の顔はいかにも困り果てているような、ひどく情けないものだった。
「ものは試しと言うだろう。」
答えになってねえよ福ちゃん。王者然とした常の彼の態度が今は憎い。俺がいつもこいつを甘やかしているから悪いのか。どうにも言葉足らずな王様になんとか説明させるにはどうしたらいいかと俺は頭をひねる。
「嫌か。」
俺の目をのぞき込みながら福ちゃんは言った。
(嫌、ではないなぁ。)
ふっとそう考えて、慌てて否定する。いやいやいや何考えてんだ俺。福ちゃんも急に何言い出してんだこいつ。もしかして俺が一生恋人出来ないかもしれないからって気を使ってるんだろうか。福ちゃんが?まっさかァ!
「嫌とかじゃないんだけど、」
俺は混乱しながらもどうにか口にして再び目の前の男の顔をのぞき込む。何を考えているのかは表情からは全く読みとれない。手を引こうと試みるが、がっちり俺の指と指の間に入り込んだ彼の指がそれを許してはくれなかった。
「だからその、試しって言うのが、」
よくわからない。身体を引きながら言ったその言葉は最後まで言わせてもらえず、気付けば視界は青に染まっていた。
***
抱きしめられているとわかったのはどれぐらい経ってからだったろうか。腕を強く引かれた拍子にバランスを崩し、ほとんど俺の体重は福ちゃんの方へ傾けられていて動けない。たくましい腕が俺の肩と後頭部に回っていて、彼の胸板に押しつけられるような格好で抱き込まれていた。ごうごうと耳元で鳴る鼓動が自分のものなのだか福ちゃんのものなのだかわからない。時間を経るにつれ徐々に頭に上ってくる血が俺の思考を鈍らせていく。
「荒北、」
俺はその顔を見ることができなかった。頭の後ろを支える手がわずかに動いて髪を撫でる。その動きにぞくりとして息を呑んだ。なんだこれ。触れられた部分がひどく熱い。何度も福ちゃんが俺の名前を呼ぶ。返事をしたかったが、喉が乾いて声が出なかった。
恐る恐る顔を上げてみる。途端に明るくなった視界に目を瞬かせていると、不意に髪を撫でていた手に少し力が籠もったのがわかった。
口を開いては閉じて。福ちゃんは戸惑ったようにそれを幾度も繰り返していたが、しばらくして俺に向かってこう言ったのだった。
「俺と付き合ってみないか。」
***
どれぐらいそうしていただろう。瞬きも忘れて俺は目の前の金を食い入るように見つめていた。
そこにいるのがもし、新開や東堂なんかだったら「何言ってんだバァカ」で済んだだろう。相手も笑って俺から手を離しただろうし、そこに万一簡単に捨てられないようなものを持っていたとしても冗談として片付けられただろう。
けれど今俺の肩を掴んでいるのは福ちゃんなのだ。
この馬鹿がつくほど正直で真面目な男は言葉を取り繕えるほど器用ではない。感情をあんまり顔に出さないから誤解されがちだが、本来直情的なタイプで、非常にわかりやすい人間だ。
「試しに、でいいから。」
福ちゃんは絞り出すようにそう言った。真っ直ぐに俺を見つめていた目の奥が一瞬揺らいで、わずかに淀みを作った。そこにあるものを必死に押し殺そうとしているのが手に取るようにわかる。肩に回された手から伝わる熱。舌の根が枯れてしまったみたいに固まっていた。その言葉の裏にあるものに、俺はもう気付いてしまっていたのだ。
「福ちゃん、俺男だけど。」
「構わない。」
「身長とか福ちゃんと同じぐらいあるけど。」
「知ってる。」
「口も悪いし、」
「お前がいいんだ、荒北。」
それ以上言葉を並べることは出来なかった。また抱きしめられて呼吸が詰まる。今までに味わったことのない感覚が全身を巡っている。指先までじんと痺れるようなそれがなんなのか俺はまだ知らない。
福ちゃんの言葉は呆れるほど真っ直ぐに俺の中に飛び込んできた。それには一欠片も甘さなんてなかったし、こちらの気持ちを伺う気配さえなかった。それでも不思議と嫌だと思わなかったのはなぜだろう。胸の奥からせり上がってくる何かを息と一緒に吐き出した。頭も身体も、何もかも熱くて目眩がする。
福ちゃん、と呼ぶとびくりと彼の肩が震えた。
「いつからァ?」
自分の声は思ったよりも掠れていて低い。語尾が揺れたのに気付いたが構わなかった。
福ちゃんは俺の言葉の意味を正確に受け取ったのだろう。目だけ上に向けて見ると、この男らしくない情けない表情をしていた。眉を下げ、口を真一文字に結んで。しばらく黙り込んでいたが、福ちゃんは観念したように一つ息を吐いた。
「お前がウチに営業に来たときからだ。」
「・・・ナァ、福ちゃん。それ、一目惚れって言うって知ってる?」
「知らなければ良かったんだが。」
「そりゃあ、お生憎様。」
なんだかおかしくて、俺はくつくつと喉の奥で笑う。福ちゃんは笑うなよと困ったような顔をしていた。
「知らなかったヨ、福ちゃんが仕事に私情持ち込むタイプだったなんて。」
「ち、違う。お前の能力が欲しいと思ったのとお前自身が欲しくなったのは別で、」
「お前が欲しいって。ああもう、さっきからクセえよ福ちゃん!」
「仕方ないだろう。まともに好きになったのなんかお前が初めてなんだから!」
笑い続ける俺を見ながらちょっと拗ねたみたいな口調で福ちゃんはそう言った。必死になる福ちゃんなんて見るのいつぶりだろう。背中の辺りがざわつく。むずがゆいような、くすぐったい感覚だ。
俺は上目遣いのままじっと俺を抱きしめる男の顔を見つめていた。下から見ると案外睫が長い。彫りが深くて外国人みたいだなぁなんて思っていると後頭部に添えられていた手が俺の頬を撫でていった。がさついた、男の手だ。
(悪くない。)
意識しないうちに、その手にすり寄っていた。
もっと触れたい。もっと触れて欲しい。
絆されただとか、アルコールが入っていたからだとか、そういうもののせいに出来ないところにその想いがあったのだと俺は今になって気が付いたのだった。
名前を呼んでみる。福ちゃんの目には俺だけが映っている。なるほど、これが。一瞬だけ躊躇ったものの、もう逃れられないのだと俺は腹を括り、一度だけ瞬きしてまたその目を見返した。
「俺、福ちゃんにこうされんの好きだよ。」
にやりと笑ってみせると俺を反射したままその目が大きく見開かれる。驚いただろ、俺だってびっくりしてんだ。
(恋ってこういうもんなのか。)
背筋がぞくぞくする。痺れたままの腕を無理矢理持ち上げて目の前で固まっている男の首に回した。引き寄せてもう一度二文字を囁いてみせると、ごくりと喉が鳴るのが聞こえた。
いきなり鮮やかになった世界をぶっちぎって目を閉じる。そのまま押しつけた唇はがさついていて、けれどひどく心地のいいものだった。