鈍い音がした。遅れて痛んだのは額だった。
荒北は喉の奥で小さく声を上げる。呻くような自分の声でようやく頭上数センチに浮いていた意識が降りてきて、彼は自分の身体が驚くほど熱いことに気が付いた。熱を払うように首を振ってみても、瞬きを何度かしてみても、視界は依然ぼやけたままである。床を踏んでいる感覚が無い。ぐずぐずに茹ってしまっているのだ。彼にはっきりわかることと言ったらさっき自分が頭をぶつけたのはトイレのタンクだったということと、それから今自分を後ろから犯している男の名前ぐらいのものだった。
「がっつくな、ってェ」
前戯もそこそこに、性急に押し入ってきた男に向けて荒北はそう言う。首を捻って後ろを見ると、福富がひどく渋い顔をしているのが見える。余裕が無い時の彼の顔だ。笑ってやりたいところだったけれども荒北がそう出来なかったのは彼にもそんなことをしている余裕がなかったからだ。
獣のように荒い息をして、荒北は「まだ」と一言口にした。
***
レースが終わった後に、というのは珍しいことではない。
激しい駆け引きがあった時には血が沸き立つ。目の前に敵がいれば喰ってやろうと闘争心が牙を剥く。それに勝敗に関係なくロードレースの持つスピードそのものが選手を興奮させるのだ。
特に荒北はその傾向があるらしかった。普段は「だりぃ」だとか「面倒くせえ」だとかが口癖の男だが、しかし根っこの方は好戦的な性格である。レース中、それもちらちらと目に見えるような距離に相手がいる時にはもう駄目で、頭の中で一気に火が付くのが自分でもわかるのだと荒北は言う。
傍目に見たってそれは明白で、その一瞬を境にして目の色は変わるし時には口の端に笑みが浮かぶのが見えることだってあるのだった。
その時の荒北の顔というのは、福富に言わせてみれば「ひどいもの」である。
獣臭さを隠そうともしない顔だ。怪我をしているときにはなおさらで、ぎらぎらと目を輝かせ、やもすれば舌なめずりさえしそうな表情をしている。
相手を喰らうことだけを考えているのだから自然とそうなってしまうのだが、福富にはそれが気に入らない。
いや気に入らない、というよりか「気になって仕方がない」のだ。
何せあの表情――福富に言わせてみれば(これを惚れた欲目と他人は言うのだ)レース中の荒北は時々目に毒だと思うぐらいにあだっぽいことがある。目の前を走る者を追う瞳は熱を帯びている。汗の伝う首筋。サイクルウェアから除く肌。一つ一つをいちいち気にしている訳ではないが、しかし時折目に入るそれらが気にならないはずがない。
福富はそれを口に出しはしないし出そうとも思わないが、それでもそれが彼に影響を与えているのは確かである。
恐ろしいほどのキレでカーブを曲がっていく荒北の背を福富は見る。自分よりも細いが、それでもしっかりと筋肉の付いた逞しい背中。ばねみたいに身体全体がしなってひやりとするほどの角度でガードレールを掠める。その時一瞬見える横顔には敵だけを見据える獣の姿が浮かんでいる。それと同時に彼が見るのは滴るほどの色気である。極限状態の最中に見る彼の姿は思わず目を奪われるほどに美しいと福富は思うのだった。
レースの高揚に従って、荒北は煽られていく。しかしそれと共に、自分がいつの間にか後ろにいる男を煽っていることに彼は気付いていないのだ。
***
「こんなとこですんのかヨ」
「駄目か」
「…言わせる気もねえ癖に」
狭い個室に福富が荒北を引っ張り込んでから二人がまともに交わした会話と言えばそれぐらいのものだった。
レースが終わってすぐ、着替える間も無く荒北の手を引いて福富が向かったのは道の脇にある公衆便所だった。コンクリート造りで、ちょっとすえた臭いのする個室に男二人で入っているのはどこからどう見ても不自然だろう。
不満げな目を荒北はしていた。綺麗好きと言う訳ではないが荒北は臭いには敏感な方だから、この場所や汗だくのジャージに嫌悪感を感じているのかもしれない。
けれども荒北がその一言きりしか文句を言わなかったのはやはり彼も興奮していたからなのだろう。
荒北の腰を引き寄せると、福富の太股に荒北の昂ぶったものが当たる。荒北が後ろ手に鍵を閉めたのを確認してからドアに押しつけると、脚で擦れたのか彼の吐いた熱っぽい息が福富の鎖骨にかかった。
少しずるいかもしれない、と福富は自分自身について思う。荒北がどういう状態かわかっていて、抵抗しないだろうことを知っていてこういうことをしているのだから。しかしそう思いはしても、もう手を止めることは出来ない。煽りすぎだ、だなんて言えるはずもないが、舌打ちでもしたくなるぐらいには目の前の男に翻弄されている自分がいることを福富は感じていた。
熱に浮かされるがままに噛み付く。荒北が思わずと言った風に口を薄く開いたのに福富が舌を滑り込ませれば、もう抵抗することもなく荒北はそれを受け入れた。脚と脚の間に膝を割り入れているせいで身じろぐたびに自然と擦りつけることになってしまって自分で自分を追い詰めている。
初め余裕が無いのは福富ばかり、と荒北はそう装っていたが、頬や首に上った赤やレース中とは質の違う目の色、そして何より下半身のもののせいで段々と取り繕えなくなっていっているのは明白だった。
お互い必死で舌を追っているうちにかちりと歯と歯が当たる。荒北がやわく福富の下唇を噛めばその歯を福富は辿ってより深く交わっていく。長い瞬きを繰り返すように目を閉じては開きを繰り返している。目が合うたびにじくりと腹の底が疼くような感覚に襲われる。ひっでェ顔、と呟きかけた荒北の言葉は福富の喉の奥に消えた。
「手?口?」
「入れたい」
「時間ねえだろ」
「…努力する」
努力って、と荒北は笑い声を上げる。可愛すぎるだろと目の前の金髪を撫でくって、荒北はその生え際の辺りに唇を寄せた。これだけ昂ぶっているのにあんまりにも色気の無い会話だ。けれども口ぶりに対して荒北の手元は従順で、いつの間にか自分のレーシングパンツを引き下ろして後ろに指を伸ばしている。俺がやる、と福富が言うと荒北は一瞬躊躇うような表情をしたが、すぐに身体の向きを変えて蓋の閉じた洋式便器に手をついた。尻を突き出すような格好をしているのは恥ずかしいらしく、早くしろよォと少し上擦ったような声で荒北が言う。ちらりと向けられた視線にごくりと福富が唾を飲んだのは彼には聞こえなかったようだ。今の格好もそうだが、何より福富がそそられるのは荒北の目に無意識に浮かぶ熱なのだった。
***
ハァ、と声と共に吐き出された息を背中に感じて荒北が身じろぐと、それは奥ではうねりになって彼を刺し貫いている男自身を締め付ける。それでなくともレース直後のことである。準備なんてしているわけもないし、それについ先ほどまで緊張状態にあったのだから、荒北の中はひどく狭かった。
痛いほどに引き絞られる感覚に持っていかれそうになって福富は眉を寄せる。
ずり下ろしただけのレーシングパンツが邪魔で堪らなかったが脱いでいる余裕さえなかった。
自分の顎を伝った汗がぼたぼたと荒北の腰の辺りに落ちてユニフォームに吸い込まれていく。その滴を追うように福富が裾から手を差し込んで背中の窪みをゆっくりと撫でる。ついでに布地を捲り上げていけば、よく鍛え上げられた背筋が露わになる。日に焼けた腿との対比のせいでひどく白く見えた。
こいつの呼吸が整うまで、と福富は心の中で誰にともなくそう理由をつけて荒北の身体を辿っていく。傍目には細く見えるがしっかりと筋肉の付いている太股。割れた腹筋を確かめるように手を滑らせていくとくすぐったそうに荒北が笑う。
「や、っらしい触り方ァ」
上擦った声。語尾は甘ったるく伸ばされて、舌っ足らずな感じがする。
福富が押し上げるように腰を動かすと荒北は短い悲鳴を上げて身体をしならせた。
もうこれ以上奥へは行けないと言うほどにくわえ込んでいるというのに、それでもなお押し入ってくる感覚に頭の芯がぐらぐらと揺らされる。深いところを抉られている。気持ちいい、と言わされそうになったのをすんでのところで止めて、荒北は背を反らして福富の方を見た。
「もっとさ、ァ、キツく、していいよ」
「お前が食うから動きにくい」
「アッハ、福ちゃんもそういうこと、言えるようになったんだァ」
「随分、余裕があるようだな」
「煽ってんだヨ」
もっとくれよ。挑戦的に荒北が言い放つ。わざと低く、色を滲ませた声で言って彼は口の端を浮かせた。
荒北はこういう時にはひどく人の悪そうな笑い方をする。誘いかけるような、挑発するようなものだ。たった一人にだけ向けられるそれは相手の余裕だとか、それから手加減する隙を奪っていく。
わざとそうしているのだということはわかっていても熱はどうしても上がってしまう。
腰を掴みなおしてゆっくりと引き抜くと、福富の方を見ていた荒北の目の焦点がぶれるのがわかった。
「…ッア、ァ」
浅いところで揺さぶると思わず、といったような喘ぎ声が荒北の口から漏れる。それから深く押し込む。更に甲高い声が聞こえてああいいところを掠ったな、とふと頭の端で福富は思いはしたが、すぐにまた意識を下の方へ落とした。押し入るたび声が上がる。どれだけの行為を重ねれば慣れるのか、なんて福富も荒北も知らないし知りようもないが、しかし自分達がどうやれば快感を追えるのかはすでにわかっていた。
奥を掻き回すように腰を回すと、耐え切れないとでも言った風に荒北の身体が沈んだ。悔しそうな色の浮かんだ目が一瞬福富の方へと向けられる。蓋を閉じた洋式便器に縋り付く様な格好になると、まるで懇願しているようにも見える。快感を受け流すために丸められた荒北の背中にレース中の彼の姿を見た。あ、と気が付いた時にはもう遅く、福富は更に腰の辺りに重みが増すのを止められなかった。
必死に身を起こそうとして、その拍子に荒北がトイレのタンクにまた頭をぶつけた。福富が伸ばした手でぶつけた辺りを撫でるのを荒北は目を瞑って受け入れている。離れていく手を追う視線が福富のものと行き交って、それを切欠に再び動きが始まる。
「福ちゃ、ァん」
喘ぎと混じった声で荒北が呼ぶ。福富は何も言わずに身体を曲げて、突き出された荒北の舌を軽く噛んだ。唾液なんだか汗なんだかわからない液体が二人の顎を伝って床にぼとぼとと滴っていく。
福富はキスが好きなのだ。さらに言えばこういう時、どちらにも少しだって余裕が残っていない時にするのが一等好きで、荒北の少し苦しそうにも見える表情が見えるのが堪らないと思う。
空気が足りなくて唇を離すと途端に荒北はもっと、と譫言のように呟いた。きっちりと切り揃えられた爪が白い便器の蓋を音も立てずに引っ掻いている。滑り落ちそうになる肩を福富が掴んでも荒北は振り向かなかった。ひっきりなしに荒北の喉からは掠れたような喘ぎが漏れて、狭い室内を埋め尽くしていた。理性はすっかり飛んでいる。
荒北の腕を掴むと引き攣れたような声を彼は上げた。ア、ア、と無意識の内に漏れたらしい音の端々はどれも溶け切っていて普段の刺はどこにも見え無い。
無理な角度で腕を引けばぐっと奥の方が締まって福富は低い呻き声を上げることになった。肘の内側に爪を立てると荒北が息を呑むのがわかった。レース中だってそうだ。この男は痛みに煽られるのだ。
「福ちゃ、ァ、」
やだ、だめ。取り繕えなくなった声で荒北は言う。手綱を引くようにして福富が荒北の腕を引き上げると落ちかけていた彼の身体はわずかに浮いた。荒北の膝が便器に当たってひっきりなしに音を立てる。どちらも限界が近い。さっきからずっと荒北の視界はスパークしてもう他のことが考えられなくなっていた。同様に、福富に見えているのは目の前にあるものだけだ。引き寄せるたびしなる背中。項に張り付いた黒髪。
不意に荒北が横を背けた。頬が濡れているのが見えた。目がそちらを向く――
***
どこもかしこも濡れている。
荒北は便器に腰掛けてぼんやりと額の汗を拭っていた。
「いいぞ」
「アア、うん」
荒北の太股に伝っていたものを拭ってやっていた福富がそう言うと、荒北はゆっくりと足首に引っ掛けていたレーシングパンツを上げる。疲れた表情をしている。荒北も、福富も。
「レース直後、は流石に辛いな」
「どの口が言ってんだかァ」
立ち上がった福富がそう言ったのを荒北は笑った。けれども馬鹿はお互い様だとわかっているからそれ以上は言わない。
座ったまま荒北が見上げると、ちょうど福富と目が合った。さっきみたいにぎらぎらとはしていない。蛍光灯も点いていないのに、金髪から汗が滴って落ちていくのがやけにはっきりと彼の目には映った。その拍子にふと、彼はレース中のことを思い出す。前を真っ直ぐに見詰める目。引き絞られた口元。ひたすらに進むために動かされる脚――
「帰るぞ」
福富がそう言う。荒北ははっとして顔を上げ、頷いてから腰を上げる。
一瞬ふらつきかけた身体を横から福富の腕が支えた。引き寄せられるような格好になる。ああ帰って早くシャワーを浴びたい。飯を食って、それから眠りたい。身体はそう求めていた。しかし荒北がその時に口にしたのは「もう一回」という一言だった。