隣にいる男が小さく呻き声を上げたのにどうしたのと尋ねてみたが返答はなかった。代わりに彼はこめかみに手を当てて軽く視線で俺に示してみせる。俺が口元だけで笑うと、彼は少し眉を寄せて情けない顔をした。ああちょっとその顔は好きかも。俺は内心でそう思いながらその顔を眺めていたが、福ちゃんの「溶けるぞ」という一言ではっとして再び視線を手元へと戻した。
そこには一杯のかき氷。
蝉の声とそれからこの日差しのせいで思っていたよりもずっと早く溶けていくそれは、俺に夏を感じさせた。
箱根学園の裏門から坂を下ってすぐのところには古びた駄菓子屋がある。ぱっと見からいかにも、といった風情の漂うその店は、聞けば福ちゃんの親父さんがまだこの学校に通っていた頃からもう古びていたという。
そこを切り盛りしているのは年齢を聞けば怒り出すほどの闊達としたばあさんで、子供のあしらい方の上手さや人の顔を覚えることに長けたその様子は店主としての期間の長さを感じさせるものである。
この店の名物はと言えば、まぁ一番に挙げられるのはこのばあさんなんだけども、それ以外にと言われれば季節ごとに変わる店頭の品物だろう。駄菓子やおもちゃなんていう定番の商品はいつだって変わらないけれど、しかしこの店の軒先にある物は季節が変わればのぼりと一緒に変わる。たとえば秋ならここの裏手でとれたサツマイモを使った焼き芋。冬ならほかほか湯気の立つおしることみたらし団子。春は桜餅やよもぎ餅なんていう色とりどりのお菓子が並び、そうして太陽が照りつけるようになって季節が夏に変わるとかき氷ののぼりが吊されるようになるのだ。
かき氷はいつだって三種類だけ。最近じゃどこの縁日に行ったって少なくとも五種類はあるものだが、ここじゃ店主がルールである。イチゴとブルーハワイ、それからレモン。赤青黄色の三種類っきりのかき氷はここの創業からずっとそうだから、とこれ以上増える予定は無いらしい。それでも夏になるとハコガク生は飽きもせずここへとやってくる。何の変哲もないのに、それでも食べたくなるのがここのかき氷なのだ。夏が来たことを感じるため、これは一つの節目のようなものなのかもしれない。
今、俺の手元には青いシロップの掛かったかき氷がある。そして隣の男の手にはピンクのかき氷。「折角だったら髪の色とあわせて黄色にすればよかったのに」と俺が言うと「お前だって髪は青く無いじゃないか」となんだかちょっとずれたような言葉が返ってきたのを思い出す。
厳つい顔をした彼がファンシーな色のそれを食べているのは少しだけアンバランスに見えた。唇にほんのり色が移っているのにうっかり気をとられそうだとふと俺は思って、慌てて目を逸らす。
福ちゃんがこめかみから手を外したのを見て俺が彼に大丈夫かと聞くと、どうしてお前は痛くならないんだと彼はこちらを見た。知らねえよと俺が笑いながら返せば福ちゃんはなんだかちょっと憮然とした顔をする。バーカ、となじった自分の声が驚くほど甘い。蝉が鳴いている。暑い空気の中で交わすにはあんまりにも今の二人の視線は熱っぽい。
「舌、」
「え、何ィ?」
「お前の舌が青い」
福ちゃんが俺の方へと顔を寄せる。ああなんかやらしいこと考えてんなと俺はこっそりと心の中で笑う。スプーンを溶けかけのかき氷のカップに突っ込んで俺が片手をそちらへと伸ばすと、すぐにそれは彼の手に捕まえられた。
「福ちゃんも舌見してよ」
俺がそう言うと、福ちゃんはさらに顔を近付けて俺の唇に噛みつく。見せろって言ったのに勝手な奴、と俺は思うもののもうその時にはそんなことはどうでもよくなっていた。汗をかいたカップが手を濡らしている。手のひらも、背中も、頬も、口も、きっとべたべただ。一瞬口の端に触れた福ちゃんの唇が冷たく感じられたけれど、すぐにそれは温くなって、気付けば熱くなっていた。溶けそうだ。頭のどこかでそう思った。少しだけ目を開けて彼の方を見ると、不意にこちらに向けられた視線とかちあう。思わず喉の奥で笑った俺の声と、それからうるさい蝉の声をかき消すみたいに、彼はぐいと俺の首筋に手をかけて引き寄せた。