――鞘鳴りが聞こえたような気がした。

彼は振り向いてあたりを見渡す。道行く人々の明るい声と騒がしさの中で、あんまりそれは似つかわしくない音だった。
嫌な音だ。刀身の削れる音である。
ただの空耳やもしれぬと思いはするものの、腹の辺りがざわついて仕方がない。仕事柄、というよりかはどこかそれは衝動的な感情だった。どこかの浪人崩れがそれを持っているならば気に留めるべくもなかろうが、それでも気にかかる。
鈍く低く響いたその音はおそらく自分以外には聞こえていない。彼にはそんな確信めいた思いがあったのだ。
再び音がする。彼は一歩踏み出して、左右を見やり、それからーー。


***


「どうにも気にかかったものだから。」
店先に二束三文で投げ売られていたらしいその刀を持ち帰った福富は「物好きだ」と呆れる親兄弟にそう言い訳した。
「他にいい刀ならいくらでもあっただろう。」
「これが気に入ったんです。」
「そんな鉄くずみたいなの、使えると思うのか。」
「使えるようにしてみせます。」
「そんななまくらどうするつもりだ。」
「どうにも。しかし俺は刀鍛冶です。」
呆れた顔をされているのには気付いているだろうに。それでもそのぼろぼろの刃をなぞる彼の表情がどこか楽しげだったから、そのうち誰も何も言わなくなってしまった。普段仕事以外に一切興味を示さない男である。生真面目なこの次男坊のわがままなんて久しく聞いていなかったものだから、珍しさが勝ったというのもあっただろう。とにもかくにもその無銘の黒漆は福富の手に渡ったのであった。


「鞘はこの通り、随分剥げてしまっているから塗り直しだ。刀身も錆びているし、それにここがひどく欠けてしまっているから打ち直す必要があるだろう。鍔はこいつじゃあ使いものにならないから取り替えようと思う。そうなると柄巻もやり直すことになるか。」
「ハァ、えらく気の長いこった。お前にそんな趣味があったなんて俺でも知らなかったぜ。」
わざわざそれを紙にしたためている親友の様子を、新開はおかしそうに眺めていた。こいつが刀鍛冶の仕事以外に何かに没頭しているのを見るのなんていつぶりだろうか。鍔の種類は何がいいだろうかと真面目くさった表情で尋ねてくるのに吹き出しながら、新開は件の刀の方へ視線を向ける。
「それにしたってこんなぼろどこで見つけてきたんだ、寿一。」
「外れの刀屋だ。大橋の袂にあるだろう。」
「ああ、あそこな。・・・それじゃあもしかしてお前、これただ同然で貰ってきたのか。」
「・・・家の者には言ってくれるなよ。」
彼らの口にしている刀屋は古くから福富家が贔屓にしている老舗である。刀鍛冶の福富の号は世に名高く、特に彼の父の名は、その銘が入っているものを持つだけで武士としての格が上がるとまで言われるほどのものだ。その号の入った刀を年に数本も卸すのがその店なのだ。よりにもよってその息子ーー彼自身も駆け出しではあるがいい刀匠であるとそこそこに知れ渡り始めたこの男が、よもや刀鍛冶の人間にありがちな「名刀の魔力に惹かれてふらりと買ってしまう」というのでもなく、ほとんど屑鉄に近いようなおもちゃを買っていったなど甚だ外聞の悪いことだろう。
「どう言って買ったんだ。」
「『どうにも気にかかったものだから』と。」
「そのまんまじゃねえか!」
「思いつかなかったんだ、仕方ないだろう。」
しかもよく聞けば、そもそも買ったのではなく捨てるために店の前に積まれていた中から見つけたのだという。これにはすっかり新開も呆れてしまって、お前なあと苦笑するしかなかった。
「あんまり無茶すんなよ寿一。きっとそのうち『福富の次男坊が刀の呪いに掛かった』って噂されんぞ。」
「それでもこれが欲しかったんだ。」
頑固だなぁ、と新開は小さく呟く。普段から無表情で、仕事以外のことにはとんと無頓着な朴念仁のくせに、こうと決めたことは曲げないのだ、この男は。新開は一度立ち上がり、机に向かっている親友の隣へとまた腰を下ろす。机の上にはこの男の気質そのままの無骨そうな文字が並んでいた。少し憮然とした色をその鉄仮面に浮かべている親友の肩をぽんと一つ叩いて、新開は笑う。
「お前がそう言うんなら何かあるんだろうよ。」
幼い頃からずっと、こいつがやることには間違いなんてないのだと新開は信じている。今回もきっと何か彼自身思うところがあるのだろう。出来上がりが楽しみだと朗らかに言った新開の顔を見て、福富は「楽しみにしていてくれ」と珍しく頬を緩めたのだった。


***


その刀をすっかり綺麗なものにするには三月ほどかかった。
欠けてしまっている刃は研いでも直らないだろうと諦めて、一度折って打ち直すことにした。鋼を加え、もう二度と欠けたり折れたりしないようにという念を込めながら慎重に形を作り上げていく。元々反りがほとんどない美しい直刃の刀であったから、形はそれに則り、またその地肌を生かしたいがために銘もいれないことにした。本来なら研師に頼む研磨の工程も「単なる趣味だから」と言ってわざわざ自分の手ずから行い(ここでもまた呆れられたことは言うまでもない)、刀身はすっかり全部、彼が手掛けてしまったのだった。

一方で、鍔に関してはひどく鋳物師を困らせることになった。
さすがの福富でもこれは範疇外であるからと、鞘と柄巻、そして鍔は懇意の塗師や白銀師に頼むことにした。鞘は黒漆、柄も黒で統一して、それでいて出来るだけ簡素なものにしてくれと頼んだからそちらに関しては全く以て問題は無い。
しかしながら問題は鍔である。
「こんな複雑な透かし復元できるかねえ。」
やはり元のと同じものがいいと相談しに行った矢先、彼は鋳物師にこう告げられた。材質は鉄、形は丸形とその時点では至って単純な作りではあるのだが、いかんせんその図案が複雑すぎるのだ。
鍔の図案として獅子は珍しいものではないが、これは狼であった。牙を剥き、鋭い眼でこちらを見据える。見たこともない構図だ、匠さえもわからない、と祖父のからの付き合いである老いた鋳物師さえも驚いていた。「これは出来ない」と随分と渋られたのを「そこをどうにか」と頼み込んでようやくそれが出来上がったのが、福富がその刀と出会ってから二月半ほど経ってからで、仕事の合間を縫ってのことだというのもあったから、そうしてようやく三月目で出来上がったのだった。

仕上がったその刀を受け取った瞬間、背筋にぞくぞくと甘い痺れが走るのを福富は感じた。何の因果か出会って自ら選び出したこの刀が、美しい刃を宿して自らの手の中にある感覚が、これまで生きてきた中で体験したことが無いほど彼の心を震わせている。早く抜いてみたい。刀に対してこれほどの感情を味わうのは福富にとって初めてであった。
ーーもう鞘鳴りはしない
その一言を思い浮かべるだけでこれが本来の姿を取り戻したということが過って、歩きながらも頬が緩みそうになる。
急ぎ足で家へ帰り、早く見せてみろと急かす兄や父を宥め、福富は一旦自室へと戻る。その頃にはもう日は暮れ、部屋には夕日が差し込んでいた。福富はゆっくり、丁寧な所作で刀を畳の上へと下ろす。橙と、穏やかに夜の訪れを告げる紺が混じりあった複雑な光が刀の黒に呑み込まれていく。黒漆で仕上げた鞘はほどよい光沢をはらみ、覗き込む福富の目を映している。同じく黒で統一された柄や頭、切羽さえもうっとりとするほどの出来である。
ふうと息を一つ吐いて、福富は刀を手に取った。しっくりとよく手に馴染む。まるで元から自分のためにあったのだと錯覚してしまいそうだ。

意を決し、静かに刀を抜く。

(これは、)
一瞬何も浮かばなくなる。言葉も、感覚も、全て奪われてしまう。

抜き出した刀身が鈍く光を放つ。ぶれもせず、揺れもせず、ただただ真っ直ぐな直刃の模様は何度も見たはずなのに、福富の息を奪ってやまない。
そうしてそれは青く光るのだ。
夕日の色、夜の色、鉄の色、鋼の色、どれにも属さない空ような青さをその光は持っている。一見儚く、しれしれとした風に見える癖に鋭い。今までに刀鍛冶として見慣れてきたはずなのに、刀とはこんなものであっただろうかと福富は目を見開いた。


「寿一?」
夕餉に呼びにきた母のその声を聞くまで彼は動けなかった。魅入られかけていたのだと気付いてぞっとする思いを抱く。
しかしそれよりもなお、彼の心を占めていたのは喜びだった。


***


「腕を上げたな、寿一。」

夕餉が終わり、さぁ早く早くと待ち受ける家族の前にその刀を持ってきて抜いてみせると、思わずといった風に一同から感嘆の声が漏れるのが聞こえた。
刀は、これは見事だと父をも唸らせた。息子がやたらと金のかかる厄介な趣味を持ったと渋い顔をしていた母でさえ、その茎を見せたときにはほぅと息を吐いたほどである。

「俺も追い越されないようにしないとなあ。」
兄はそう言ってからりと笑っていた。弟の才能に心底嬉しそうな顔をして、青く光るその刃を飽くこともなく見つめている。さすが長年刀鍛冶をやっているだけあって祖父も父も目は肥えているのだが、こんな光を放つものは初めてだと二人とも顔を合わせて驚いていた。
「何か新しい技術でも見つけたのか。」
「いいえ、まさか。」
「しかし色合いだけでなく、刃の成形も素晴らしい。末恐ろしいな。」
普段あまり人を褒めない祖父にそう自らの技術について褒められ福富がわずかに赤面する一方で、父もすこぶる上機嫌な様子でそれを見つめる。末恐ろしいとは口では言っても、祖父も父も、この次男坊の成長が嬉しくてたまらないのだ。
「ところでこれに銘はいれないのか。」
刀を手に取って眺めていた兄がそう聞くと、福富は少し困った顔をして、今はいれないつもりです、と応えた。
「元々は俺が打ったものではありませんし、無銘のままにしておこうかと。」
「そんなのよくあることじゃないか。折角これほどまでのものが出来たのだからいれておけよ。」
兄も父もそう勧めたが、どうも福富の方は気が乗らなかった。
(自分の名なんか鋳れて、この刀の良さを失わせてはならない。)
まだまだ自分は未熟なのだと彼は常々思っていて、今回この刀を作り上げられたのも運が向いただけのことなのだろうと考えている。いつかこれぐらいのものが、自分の手で作り上げられるようになったら。そうして父にも劣らない名工と呼ばれるようになってからでないと、この刀には及ばないだろう。そう口には出さなかったが福富は考えていたのだ。

考えておきます、と一言告げて席を立った福富の背に父の声が掛かる。
「それはお前が作り上げた刀だ。大切にしてやれよ。」
じんと響くようなその言葉に大きく頷いて、福富は黒鞘を握り直した。ひやりとした感覚は火照った頬を冷ますどころか、その内包する美しい刃に当てられて、また甘い感覚を蘇らせたのだった。


***


その夜半過ぎのことである。

ぎし、と床の軋む音で福富は目を覚ました。耳の痛むほど静かな夜だったからひどく響いたのかもしれない。しばらくぼんやりその音を聞いて、誰かが厠にでも向かっているだけだろうと福富は再び瞼を閉じようとしたのだが、ふとその時目に映ったものに、はっとして身を起こした。

(刀がない)
寝る前に確かにそこに置いたはずの物がない。思わず立ち上がって、自室を見渡してみてもどこにも見あたらず、彼は慌てて襖を開く。
足音は居間の方へと向かっているようだ。それが犯人だという明確な証拠は無かったが、一番可能性としては濃いだろうと福富はその音の方へ踏み出すことにした。いそいそと追いかけるその背に嫌な汗が流れる。もしかすると家の誰かがもう一度じっくり見たいからと持ち出したのかもしれないが、そうでなかった場合ことだ。大切にしろと言われた矢先に盗まれただなんて、冗談にしても笑えない。

家の者を起こさないように、一応足音を潜めながら福富は居間へ向かった。襖は開け放たれたままで、同じく開かれたままの障子窓から月の光が煌々と差し込んでいるのが見える。ひどく心臓が跳ねているのが分かる。眠気はいつの間にかすっかり姿を消してしまっていた。色々なことが浮かんだのを頭を振って消しながら、福富は光の方へと近付いていった。

ふとそこに影が過る。

「そこにいるのは誰だ。」
部屋の入り口で福富はそう声を上げた。出来る限り抑揚を抑えてはいるが、その声に怒りが込められているのは明らかである。
そこには男がいた。月を背に立っている。
背丈は福富と同じぐらいの痩せ型の男である。すらりとした身体に上質そうな真っ黒の着流しを一枚引っかけ、艶やかな黒髪を風に揺らしている。細くてきりりとした三白眼と薄い唇は酷薄そうな印象を与えるが、それでいてどこか優美である。月の光を受けて、首筋が青く照らされている。その光景が何となく見覚えのあるような気がして、福富は息を止める。

男は福富を見て口元をにぃと歪ませると、ゆっくりとそちらへ足を進めた。
「いい夜だなァ。そう思うだろアンタも。」
何も言えず、ただ黙りこんで福富は男を見る。返事が無いのに別段気を悪くすることも無く、男はくつくつと喉を鳴らした。

男が一歩分の距離まで近付いた所で福富はぐっと唾を飲み込み、ようやく口を開く。
「刀はどうした。」
「オレさァ、アンタにお礼言わなきゃなんねえと思って、」
「質問に答えろ。」
「アンタがいなきゃあ今頃どうなってたか、」
「おい、聞いているのか。」
「アンタが見つけてくれなきゃ俺、今頃朽ちてただろうなァ。」
「お前は一体何をーー」
「まァだわっかんねえの?刀以外のことにはとんと鈍いんだな。」
男の手が福富の肩に触れる。骨張って、腱の目立つ手だ。しかし傷も何もない。爪の先から手首まで、およそ生きていれば自然と出来る歪みもたこも肉刺も一切見当たらない手だった。その手が肩から腕へ、そして手へと下りていく。触れたその皮膚の感覚が余りに冷たく、まるで金属に触れているようだと思った。
冷えた指先で握られたのは右手だった。槌を持つ手である。肉刺が出来ては潰れて固くなった手のひらに、彼の滑らかな肌が触れている。

「手ェ離すなよ。目も逸らすな。」
男の目は真っ直ぐに福富を見つめている。青く底光りする鋭い視線に、一瞬で捕らわれる。言葉も、感覚も、そこでは無意味だった。

不意に男の顔から笑みが消える。全てを切り離したような表情に福富は息を呑んだ。

その次の瞬間。


「ーーどういうことだ、これは・・・。」
ひどく掠れた声で、ようよう呟けたのはそれだけだった。

目を見開くばかりの福富の前に、さっきの男はいない。
その代わりに彼の手にはあの刀が、青く光る、美しい抜き身の刀が握られていた。
鞘がかつんと落ちる音にはっと顔を上げ、福富は辺りを見回す。されどそこには自分以外の人影は無い。再び視線を手の中に戻して、福富は確かめるようにその刀を眺めた。反りの少ない刃も、ぶれのない直刃の地鉄も、そして自らの手に馴染む感覚も、彼の作り上げたあの刀に違いない。一体何が起こったのか。彼にはまだ掴みきれていなかった。
のろのろと膝を折り、床に転がった鞘を拾い上げる。黒漆もやはりこの刀のものだ。静かに鞘に刀身を納め、今度は両手で持ち直す。

「うわっ、」
「これでわかったか。」
また突然、声が聞こえたかと思ったら男がそこに立っていた。しかも今度は福富の両手を握っている。

(まさか、いやそんなことがあるはずが、)

眉を顰め困惑の色を隠すこともなく、福富はただそこに突っ立って黙り込む。まさかよもやとそんな言葉ばかりが頭の中を巡っていた。一つ浮かんだその可能性はこの世の理ではあり得ないことであり、また彼の人生の中で味わうことになろうとは思いもしていなかった出来事であった。じっとりと背に汗が滲む。これが冷や汗なのかなんなのか、混乱しきった状態の福富にはわかりもしなかった。

「おーい、固まんなよォ。」
男は握られたままの両手を軽く振りながら福富の顔をのぞき込む。目は面白がるように細められて、口元は先ほどと同じように笑っていた。手の中にあるものは確かに人の手のはずなのに、ひたりと馴染む感触や冷たさがどうしても他の物を思い起こしてしまうのを抑えることが出来ない。

「お前は一体何なんだ。」
「まだわかんねえの?」
「いや・・・しかしだな、まさか、」
「なんだわかってんじゃねえか。そうだよ。俺ァ、アンタの打ち直した刀だよ。」
「・・・訳がわからない。」
「まァ、いきなり言ってもそうなるわな。」
そこで一旦言葉を切って、男はちらりと視線を下に落とす。福富はそこになってようやく自分が彼の手を握りしめていたことに気付き、すまないと口の中でもごもごと言って手を解いた。男は強く握られてわずかに赤くなった指先を、ちょっと苦笑いするような顔をしてから軽く振って、また福富の方へと目線を戻す。

「アンタ、付喪神って知ってるか。」


***


「付喪神、ってあれか、座敷童みたいな?」
「間違ってはいないが、近くは無いな。要は、『年月を経て意志を持った物』のことらしい。」
「へえ。それでこの刀が、それ。」
「ああ。」

新開はすっかり温くなった茶をすすりながら友人を見やる。やはりというか、何というか、福富の予想していた通りすぐさま理解してもらえるということは無く、その目には疑いの色が滲んでいた。
まぁそれも当たり前のことかもしれない。
福富自身でさえ、あの日のことはまだ夢の中のことだったかもしれないと思うことがあるのだ。あれからもう何日も経って、あの男と顔を何度合わせたかも知れないのに。


呆然とする福富に、さっき彼が新開にしたのと全く同じ説明をした男は、自らを『荒北靖友』と名乗った。
「随分人間らしい名前だな。」
「俺らみてえなのは総じて人に憧れるものさ。」
ただの物から人の形を得るまではかなりの時間が要るのだと荒北は言う。
「自分でどうにかすることも出来ねえし、ただ待つってのはなかなか苦しいもんだぜ。しかも俺なんか随分前に目ェ覚めてたってのに身体ぼろぼろで人にも成れなかったし。」
自分がどれだけ望んでも動けない。しかしこのまま無理矢理人の形になったところで足りないものが多すぎて生きることもままならないだろう。
物としてこのまま朽ちていくか、それとも一時でも人間になって死んでしまうか。道は二つであったが行き着く先は同じだと目に見えていた。

「本当は人にこの姿見せるつもりなんて無かったんだけど、どうしても礼が言いたくてなァ。」
皮肉っぽい口振りの割に素直に彼は「ありがとう」と言って目を細めた。わざとらしくない、自然に出たようなその笑みに胸の辺りをぐっと掴まれたような気持ちになって、福富は声を詰まらせる。疑問も、言いたいこともまだ山ほどあるのに何も浮かばなくてもどかしい。
そうして福富が何も言えないでいるうちに、荒北はまた彼の手を取って握る。

「アンタ、名前は?」
「名前・・・あ、ああ福富だ、福富寿一。」
「へえ・・・じゃあ福ちゃん、アンタが俺を手放さない限り、俺は福ちゃんに尽くすよ。それが仁義ってやつなんだろ?」
その目の奥に潜む鋭さ。ぞくぞくと背筋が痺れる感覚に福富は唾を呑んだ。これはえらく恐ろしいものに魅入られた。そう思いはしてもこの手を離す気は無かった。
福富が大きく頷いて、「よろしく頼む」と言ったのを荒北は笑って諾うとその次の瞬間には姿を変えていた。確かめるように手元に視線を向ける。それは確かに彼の作り上げたあの刀であった。


「寝ぼけてたとかじゃなくってか。」
「ここまで説明しておいて疑うのか、お前。」
「だってさぁ、そんな絵空事みてえなこと信じろって言う方が無茶だぜ寿一よ。」
このお堅い男が冗談など言うはずがないから、確かに説得力はある。だがしかし、あまりに飛びすぎている。本当に呪いかなんかに掛かったんじゃないだろうな、と新開は内心少し心配になった。仕事に打ち込むのも趣味に打ち込むのも実に結構なことだが、しかしながら物の怪やら悪い物に取り憑かれるなんてのは論外だ。
新開の疑わしげな目に、「俺はまともだ」と福富は憮然とした表情をする。そうしてしばらくの間じっと視線だけで会話していたが、結局いつもどおり新開が根負けしてはぁとため息を吐くことになった。昔からこうなるとこちらが折れないことには決して決着が付かないのである。

「っていうかこういうのは俺じゃなくて尽八に言うべきなんじゃねえの。」
この辺りの氏神を奉る神社の跡取りなら何か相談に乗れるだろう。新開はそう言って、自分と親友との間に置かれた一振りに目をやった。黒塗りに自分の顔が映りこんでいる。確かに彼の言うとおり、その美しさには何かしら潜んでいるようにも思える。しかし果たして蛇が出るか鬼が出るか。

それも考えたんだが、と福富はわずかに言葉を濁らせながら答える。
「こいつは悪い奴じゃあないようだし、」
「でもさ、人ならざるものってのには変わりないだろ。」
「いやしかし悪さもしないのに無理矢理押し込めるのはどうかと」
「ハァ、寿一、お前本当にこの刀に取り込まれたんじゃないだろうな。いっくら出来のいい刀だって言ったっておかしなもん憑いてちゃどこにも出せねえだろ。第一、呪いの刀打った刀匠なんて洒落になんねえ、」
「誰が呪いの刀だってェ!?」

強く床を踏む音が聞こえたと思ったら、途端に男がそこに現れる。福富が止める間も無く、長い腕が伸び新開の胸倉を掴んだ。
「ふっざけんなよこのクソ餓鬼ィ!誰指して呪いの刀だ憑き物だァ言ってんだ!それに人のことを座敷童みてえな小物と一緒にしやがって。荒ぶれば禍をもたらし和ぎれば幸をもたらすって言葉ァ知らねえのかこのボケナス!」
「なんだ荒北、聞いていたのか。」
「頭の上であんだけ言われりゃ目ェ覚めるっての。んで、福ちゃん誰だこの馬鹿。」
「馬鹿とはなんだこの疫病神!」
「付喪神だって言ってんだろ、てめえ本当に呪われてえか!」
「よせ二人とも。」
いいから座れ、という福富の言葉に不満そうな顔はしたものの、荒北は大人しく新開から手を離し、福富の隣へと腰を下ろした。新開は襟元を正しながら、普段は見せないような不機嫌そうな様子を露わにしている。どうやら相性はあまり良くないらしいと福富は二人がきりきりとした視線を交わすのを見つめながら表情を曇らせた。そうしてしばらくして、二人が落ち着いたところを見て、福富が口を開く。

「こいつは新開隼人、ここの通り沿いの呉服屋の息子で俺の幼なじみだ。」
「へえ、呉服屋の道楽息子ね。ハッ、そりゃあ馬鹿でも仕方ねえわな。」
「なんだと、」
「口が過ぎるぞ荒北。・・・それで、こいつは荒北靖友。さっき言ったとおり、付喪神だ。」
「とんだ疫病神じゃないか。さっさと燃しちまえよこんなやつ!」
「っんだと、言わせておきゃあこの若造、」
「いいから少し黙れ二人とも。話が進まん。」
あの夜の飄々とした態度はどこへやら。荒北が牙を剥いて食ってかかるのを片手で肩を掴むことで抑えつつ、どうしたものかと福富は頭を捻る。
気に入らねえと舌打ちした荒北を軽く窘め、きちんと座らせると再び福富は新開の方へと向き直った。

「仲良くしてくれ。」
「何でだよ、こんななまくら、」
「それ以上言うと怒るぞ、新開。こいつは俺のものだ。」
福富のその言葉に新開はぐっと喉を詰まらせる。ひどく傲慢な台詞なのにそれは余りにこの男に似合っていて、言い返す言葉が見つからない。隣の荒北もまた少し驚いたように一瞬福富を見たが、その顔に迷いがないことを見ると満足げに目を細めた。
「へえ、俺がアンタのものねえ。」
「何か間違っているか。」
「いいや、どこも。」
くつくつと喉を鳴らしながら荒北は行儀よく座りなおす。さっきの一言で機嫌を良くしたらしい。
余りに荒北の扱いを心得ているような福富の態度に新開は内心舌を巻く。いつの間にそこまで親しくなったのか、まるで十年来の友人かそれとももっと深い仲の者であるかのようだ。
「お前等、あの日より前に会ったことがあるってわけじゃあないよな。」
「ハァ、何言ってんだ、バカじゃねえのォ?」
「こら荒北。」
福富に対する態度と自分に対するそれのあからさますぎる違いはもういっそ清々しいまでのものである。たった数日でこれほどまで仕込むっていったい何をしたんだと新開は首を傾げながら二人を眺めやる。
ああだこうだと何やら言い合っているが、福富の手は荒北の乱れた袂を甲斐甲斐しく直してやっているし、一方の荒北は気性の荒さをそのまま出した口調の割に大人しくされるがままになっていた。
二人の間にあるものはなんだろう。友情では無い。忠誠というには少々近すぎるし、信頼だけでも決して無いように思う。ならば、と最後に一つ思い浮かべたものが一番しっくりくるような気がしたが、新開は慌てて頭を振ってそれを打ち消した。
(刀鍛冶が刀に惚れるなんて、どこの絵双紙だ。)

とにもかくにも、もはや二人の関係は切っても切れないものと相成ってしまっているらしい。もはや呪われただとか憑かれただとかそういう次元の話ではないのである。

「えらいもん拾って来たなぁ寿一。」
「何がだ。」
「いやあ・・・わかってねえんだったらいいや。」
福富は首を傾げて新開を見る。その鉄仮面が綻んでいることに彼自身は気付いているのだろうか。気付いた日にはどうなるんだろうなんてふと疑問が頭を過ったが、見なかったことにしておく。


「悪く言ったのを謝るよ。すまなかった、荒北。」
親友のこいつがそれだけ気に入っているのなら、きっと面白い奴なのだろう。基本的に単純な男である。あまり深く考えるのも性ではないし、それに付喪神だという荒北自身にも興味があったから新開はそう言ってあっさり謝ってしまった。それを聞いて荒北は一瞬ぎょっとしたような顔をしたが、しどろもどろになりながらも「悪かった」とこちらもきちんと頭を下げる。

「なるほど、寿一の言うとおり悪い奴じゃあないみたいだな。」
その言葉に荒北はひどく不本意そうに悪態を飛ばしていたが、一方その隣で福富はそうだろうとでも言いたげに大きく頷いていた。

「ところで、その福ちゃんってのは寿一にはちょっと可愛すぎやしないか?」
んだと、とぎゃんと叫ぶ荒北を宥める福富。そんな二人を見ながら新開は、やっぱりこいつといると退屈しないなと笑ったのだった。


***


「ねえ、寿一。今日隼人さん以外に誰か来てらしたの?」
母のその問いかけに福富はびくりと肩を揺らし(表情以外は案外わかりやすい男である)、なるたけ声が上擦らないように気を付けながらいや、と一言だけ答えた。
「あなたの部屋の前を通りがかったとき、随分賑やかな様子だったから。」
「うるさかったでしょうか。」
「いいえ。誰か来てらしたならお茶でもお出ししたのに、と思ったんだけれど。」
来ていないなら構わないわ、とおっとりと母は言って立ち上がる。歩き去っていく背中を眺めながらほっと福富は胸を撫で下ろした。もう少し深く尋ねられていたらきっとあの付喪神のことをぽろっとこぼしてしまっていたに違いない。

(母にぐらいは言ってもいいかもしれないが。)

荒北自身もそういったことに対してさして興味がない様子で「福ちゃんの好きにすりゃあいい」と言っていたから、福富は家族には荒北のことを言ったっていいと思っていたのだ。
しかしながらそれにあまり良くない顔をしたのが新開である。
「あんまり言わないほうがいいんじゃねえかなぁ。」
「そうだろうか。」
「うーん、だってさ、付喪神っていうと神聖なものだろう。荒北だって一応神様なんだぜ。」
「一応って何だよてめえ。」
「まぁまぁ。つまりだな、俺が言いたいのは、そういうものが側にいるってことは人に知らせない方がいいってことだよ。」
「身内でもか。」
「身内だからこそ、だよ。」
本来こういった人の知るところではないものたちはそっとしておくか、もしくは社にでも奉っておくべきものだ。その理由はもちろん人でないものと人が交わること自体よくないことだというのもあるが、反面、人間たちが彼らを利用しようとするという可能性があるということも関わってくる。
「お前んとこのおっかさんや親父さんがそんなことするわけはねえってのはわかってる。けどこういったことは意図していなくても人から人へ伝わるものだから、もしうっかり家の外にこのことが広まっちまったら、それこそ『次男坊が刀に呪われた』なんて噂よりよりもっと洒落になんねえことになるぜ。」
気を付けろよ、と新開は念を押して二人を見た。荒北はあまりぴんときていない様子で小首を傾げていたが、福富の方はそれで納得したようである。
「わかった。なるべくこのことは口にしないことにしよう。」
「ああ、それがいい。」
新開は親友のその台詞に頷いて、俺も気を付けなきゃなぁと独り言のように呟いた。まだ掴み切れていない荒北は、福富の方を見て「俺はどうすりゃいいの」と尋ねる。
「俺が呼ぶまで出てくるな。」
「えー、俺暇じゃん。」
「人気の無いときなら部屋の中ぐらいはうろついていて構わない。本も好きに読んでいいから。」
「俺、字ィ読めねえし。」
「・・・追々教えてやるから。」
ともかくじっとしていろと福富が少し困ったような声音で言い聞かせると、荒北は気乗りしない様子であったが、視線に耐えきれなかったのだろう、少しして「わかった」と首を縦に振ったのだった。
「お利口ちゃんに待ってるヨ。」
「ああ、そうしてくれ。」
えっらそうに!そう荒北は叫んだものの、その口元は不快に歪んでいる訳ではないようだ。(こいつの生まれつきの傲慢さをわかった上でこの態度ならそうそう離れることはないだろうと、新開が内心で少しばかり面白がったのは当人たちの知らないところである。)

とにもかくにも、こうして密やかに福富と付喪神との生活は始まったわけであるが、果たしてこれが隠し通せるかということに日々頭を悩ませることになろうとはまだ彼自身気付いてさえいなかったのだ。


***


(まあ確かに、暇だろうなこの部屋じゃあ。)

夕餉を済ませ、戻ってきた部屋を見てふと福富は思う。すっと後ろ手で襖を閉めながらそこらを見渡してみるが、床の間に収まっている例の刀以外には目立つものもなく、自分の無趣味さがありありとわかる部屋の有様である。文机の上に置かれた書物だって刀に関するものだし、またその他ここに置かれている物は全て「必要だから」あるのであって、暇を潰すのには向かないものばかりだった。ずっとあいつの相手をしてやれればいいのだが、それなりに認められ始めたとは言え、福富はまだ駆け出しの尻の青いひよっこであるからそうもいかない。だからといって急に物を増やせば不審に思われるだろう。さてどうしたものか、と福富は立ち尽くしたまま考えていた。

「難しい顔してどうしたってんだ、福ちゃん。」
不意に声がしてそちらを見ると、男が床の間に腰掛けている。もうすっかり見慣れたものだからそれに福富が驚くことはない。(新開がここにいたらきっとよくもまぁ日も浅いのにと呆れた顔をするだろう。)荒北はゆるりとした動作で立ち上がると、背伸びしながら福富の方へ近寄ってきた。欠伸しながらこちらへ来るところを見るとどうやら昼寝でもしていたらしい。福富が懐から居間でくすねてきた饅頭を取り出して渡すとその目がぱっと明るくなった。それがなんだか可愛くて思わず頬が緩みそうになる。
手招きして二人で縁側に腰掛けて、庭の風景を眺めていた。季節はもう初夏に入ろうかという、穏やかな暖かさが満ちている頃である。桜はとうに散ってしまっているものの、新緑が日々青さを増し夕暮れの色を反射して深い色を放っていた。見上げれば遠くに見やる箱根の山に日が沈んでいくのを、福富はぼうっと見守っていた。

先に口を開いたのは荒北の方だった。
「そんでェ?どうせ俺が退屈だろうなとか考えてたんだろ。」
何も言わずにむっつりと黙り込む福富の横顔に、図星かよと荒北は笑う。わかりやすい奴だと言ったらこいつはなんて言うだろうか。
口を大きく開けて饅頭を頬張りながら荒北は福富の言葉を待っていたが、口べたなこの男は次をどう切り出したものか考えあぐねているらしい。結局荒北がすっかり菓子を食べきってしまうまで、聞こえたのは遠く外から響いてくる街の喧噪と、それから風の音ばかりだった。
口の中にあるものを全部飲み込んでしまって、それから荒北は少しだけ福富の方へ身体を寄せた。厳しい顔をして考えるようなことでもねえだろ、と彼が内心苦笑しているのは福富にはきっと気付かれていないだろう。まるで獣が愛着を示すように、荒北は隣の男の肩口にぐりぐりと頭を擦り付ける。なんだ、とも福富は言わず、ただ黙ってなすがままにされながらその旋毛を見下ろしていた。そうしてふと福富が手を伸ばしてその毛並みを撫でると荒北ははたりと動きを止めて、福富の方へと身体を預ける。あのさァ、と荒北が語尾を伸ばして言うのを、福富はじっと見つめていた。
「俺ァよ、福ちゃんには感謝してんだ。死にかけてたとこを助けてもらったのもあるし、」
荒北はそこで一旦言葉を切って、身体を起こすと福富の目を覗きこんで一二度ゆっくりと瞬きをした。
「それにアンタは俺を人と同じみてえに扱ってくれるだろ。」
ただの刀であった頃はまだ良かったのだ。けれども時を経て意志を持ってしまってからの途方もなく長い日々の間、ずっと荒北は人の姿を見つめることしかできなかった。人々が「普通に」歩き、話し、また怒ったり笑ったり、そうして動き回る姿を蚊帳の外から眺めるしかなかったのだ。それは荒北にとって決して手の届かないもので、いくら望めども自分の力では触れることさえできぬものであった。

「だから俺ァ福ちゃんとこうやって喋ってられるだけでいいんだヨ。」
こうしてまるで人間みたいに相手と接することが出来る。ただ「普通に」日常を過ごせること。それが幸せなのだ、とまでは荒北は言わなかったが、彼の顔に浮かべられた柔らかい表情がそれが事実であることを物語っていた。
それだけでいい。荒北は言う。

「福ちゃんがいりゃあいいんだ。」

投げ出されるような言葉だった。そう言った後、荒北は少しばかり照れくさそうな顔をして福富から目線を外す。その首筋に朱が昇っているように見えるのは気のせいだろうか。もしかすると暮れた日が当たっているせいかもしれないが、それがなんだかとても美しいものに見えて、福富ははっと息を呑む。
なるほど、と密かに福富は心中呟いた。新開の言っていた『えらいもん拾ってきた』という言葉の意味がようやくわかったのだ。
目も逸らせずに見つめる先にいる、あの男の言葉の一つ一つは全て自分だけに向けられている。精巧に作られた鍔の文様を福富は不意に思い出した。牙を剥き、鋭い眼でこちらを見据える狼の姿。何者をも恐れずに立ち向かい、自らに徒なすあらゆるものを喰い尽くす獣。その気高い生き物が、己の全てを自分に差し出している。お前がいい、お前しかいないのだと男は言うのだ。
そくりと、えも言われぬ感情が福富の身の内を走る。独占欲、といった言葉だけでは到底量れない、それは実に様々な想いが入り交じったものであった。
何も言えなくなって、福富はしばらく隣にいる男の横顔を見つめていたが、いつの間にやら昇った月がその頬に冴え冴えとした色を与えるのを見て堪らなくなって不意に手を伸ばす。
ぐいと肩を引き寄せれば造作も無く痩身は傾いで、福富の方へと倒れ込んできた。
目が合う。だが二人とも何も言わない。
ふと荒北が声もなく笑う。唇の端をくいと持ち上げ、そうだろ、とでも言いたげな顔をした。止め、とばかりのその表情に福富は思わず小さく声を漏らして、それからわずかに目を伏せる。

「俺以外に懐くなよ。」
それから少しして放たれたそんな台詞に、荒北がどんな顔をしたかは想像に難くないことである。