「10分だけ」と言って荒北が目を瞑ったのは今からもう1時間近くも前のことで、福富はそろそろ起こすべきかどうかと逡巡しながらも一つも動けずにいた。手に持っている文庫本で読んでいないページはあとは一番後ろの書評ぐらいのもので、そもそも三十分近くも前から本を読むということ自体に飽きてしまっていたから実を言うと早く他の事をしたいところだったが、彼の太股の上には荒北の頭が載っているものだからそうもいかない。
胡坐をかいた福富の脚の、腰骨に近い辺りに鼻を埋めるようにして荒北は眠っている。普段騒がしいくせに寝るときだけは静かな男である。背中はカーブを描いて、妙にひょろ長く見える脚は軽く曲げられている。荒北は部屋に来てからずっと、いつものように本を読んでいる福富に寄り添うようにベッドの上で雑誌を読んだりしていたが、不意に福富の太股を枕にしたと思ったら次の瞬間にはその台詞と共に目を閉じていたのだった。
まるで受け入れるのをわかっているみたいなその行動に福富は一瞬驚いたものの、別段払いのけることもしなかった。もしこれが他の人間だったらあんまりいい気分はしないだろうが、しかし荒北のすることである。恋人のすること、と言うのはまだ照れ臭いが、荒北とこうして触れ合っていることが福富は好きだし、時折こうして荒北がじゃれつくように寄ってくるのは可愛いとすら思っているのだ。基本的に誰にも心を開かない、警戒心の強い荒北という男が自分にだけ見せる表情が福富は好きで堪らないのである。
今日の練習の分の部誌を書かないとだとか明日の数学の課題の残りはどれぐらいだっただろうなんてことが頭を掠めたが荒北が小さくウウだとかンンだとかそんな呻き声を上げたせいで全部吹っ飛んでしまった。福富が視線を落としてみればやっぱりちょっと寝苦しいらしく眉を寄せているのが見えた。さっきから荒北が丸まるたびに額を腰骨に押し付けてくるのが気になってはいたが案の定痛いらしい。それはそうだろう、と福富がなんだかちょっと呆れたような可笑しいような気分になっているのも知らないで、荒北がまたもぞもぞと頭の位置を変える。
「荒北」
そこで一度そう呼びかけてみたが返事は無かった。寝苦しいくせに目覚める気はないようだ。まだ消灯までは時間があるとは言えすっかり夜も深まってきた頃だからもう自分の部屋のベッドで寝てもいい時分なのに動く気も全くないらしい。仕方ない奴だな、と思いながら福富は持っていた文庫本を脇に置いてそっと荒北の頭の下に手を差し込む。出来るだけ揺らさないようにして荒北の頭を持ち上げた後、彼は音を立てないように慎重に胡坐をかいていた脚を崩して真っ直ぐに伸ばした。少しじんじんする。久しぶりに血が行き渡っているような感覚だ。荒北の頭を元のように太股に載せて彼はほっと息を吐く。さっきよりは少し寝やすくなったらしい荒北は眉間の皺を解いて、満足そうに頬を福富の脚に擦り付けた。
少し赤くなった荒北の額を撫でながら、電気も消した方がいいんじゃないだろうかなんてことを福富は考える。誰か他の、例えば東堂なんかが聞いたら「ちょっとこいつに甘すぎるんじゃないか」とでも言われそうだ。それは普段荒北が言われている台詞でもある。福富に対してちょっとどころではなくほとんど過保護といってもいいぐらい甘やかす彼を周りがどんな目で見ているか、福富は知らないわけではない。時々余りにも差のあるその態度に「不公平だ!」と新開や東堂が文句を言うのも何度も見たことがある。でもこれが一番居心地のいい関係なんだから仕方ないとも彼は思うのだ。甘やかすのも、甘えるのも、お互いにこいつにだけならと思っているからこそ出来るのである。それはどこか独占欲にも似たような思いだ。荒北がこうして不意に身を寄せてきたりするとき、福富はそれを一等感じる。荒北もそんなことを考えたりするのだろうか。福富は荒北の寝顔をぼんやりと眺めながらそう考える。
荒北がごろりと仰向けになる。蛍光灯が眩しいらしく一瞬眉が顰められたのを見て福富が手で彼の目を覆ってやると、ゆっくり持ち上がってきた荒北の手がそれに重なる。眠っている人間はとても温かい。節くれだって、自分のよりも細く見えるくせに大きい荒北の手は隅々にまで血が行き渡っていると感じられた。幾度も出来ては潰れた肉刺のせいで手の平は硬い。一般的な美しさとは少しずれているかもしれないが、福富にはその手が何よりも美しいものに見えるのだった。求めるものの手である。欲しいものを掴むためにたとえどれだけ傷を作っても諦めずに伸ばされてきた指先である。
荒北の手は福富の手の甲に引っ掛かるようにしてしばらく重ねられていたが、次第にずるずるとベッドに落ちていった。音も無く、几帳面に切りそろえられた爪の先がベッドシーツに沈む。福富はその光景をじっと見詰めていたが、それから何とはなしに荒北の手首に視線を移した。それから辿るように腕を眺める。腱と血管の浮いた腕の上に視線を滑らせ、それからすらりとしているくせに存外にしっかりと筋肉の付いた二頭筋。尖った肩をなぞって、それからタンクトップを着ているせいでむき出しになっている鎖骨を見る。首は筋張っている。一欠けらも余分な肉の付いていない顎のラインは鋭い。薄い唇が好きだと思う。普段気性の荒さに任せて叫んでいる時にぐわっと広げられるあの口の形も、今のほんの少し開かれているだけの形も好きだ。鼻は低いけれど形は悪くない(と思う)。ニオイを嗅ぐ癖のある彼その鼻を摘んでみたい衝動に駆られたことがあるのは一度や二度のことではない。らしくないことだと自分でもわかっているが、荒北に対してだけはそういう興味だって沸くのだった。
自分の手が覆っているせいでそこから上は見えなくて、福富はもどかしいような気持ちになる。どうしようか、とじっと自分の手の甲を少しだけ睨んだ後、彼は身体をそっと動かして自分の頭で荒北の上に影を作った。すると自然と俯いて、まるで彼の顔を覗き込んでいるような格好になる。なんだか妙に顔が近いようにも思えたが構わず、彼は手をゆっくりと退けた。
目は閉じられたままだ。睫毛が細かく震えている。荒北の睫毛は少し変わっていて、下睫毛ばっかりが長いのだ。邪魔にはならないけど気に入らないと彼は言うが、福富はその睫毛が嫌いではない。慎重に親指を目の下に置いてなぞると柔らかい下睫毛がさりさりと指に当たった。そのままゆっくりと指で瞼を撫でる。緩い曲線。この下にある目が敵や、ゴールに向かって投げる強い視線は今は鳴りを潜めている。それに自分にだけ向けられるあの視線も。
福富は荒北の顔から手を離すと、詰めていた息を吐いた。
「きれいだ」
自然と溢すように出た言葉だった。どこが、だとかそういった具体的なことを思い浮かべようとしても出来ない。荒北靖友という男の全部に自分は惹かれているのだ。不意に福富はそんなことを思って、ああ俺はこいつが好きなんだなあと一人で納得していた。
身体を起こして、つい数分前と同じように壁を背もたれにする。荒北が小さく呻く声が聞こえたのにまた片手をそっと差し出して目を覆ってやる。
(こいつがきれいだということは俺しか知らないんだ)
福富がそんなことを思っていることなど、眠っている荒北は知らないのだった。