長期休みに入ると、一般寮の中はほとんど空っぽになってしまう。
荒北は物音のしない廊下を歩きながら少しばかり落ち着かないような気分になる。大股で、古びた廊下をぎしぎしと鳴らしながら彼は歩いていた。
幅の狭い廊下だ。いつもだったらこうして真ん中を歩いていれば、誰かしらとぶつかったり擦れ違ったりするものだが今日はそんな気配もない。
スポーツ科の方はいつもと変わらないのだろうけれど、しかしこちらは非常に静かだった。どこかがらんどうを思わせる。おそらく今、この棟に残っているのは荒北一人きりで、加えて寮母のおばさんたちも夏休み中は来ないから、いわば本当に荒北はひとりぼっちなのだった。
箱根学園と言えば自転車競技部や剣道部などの運動部が強いことで有名であるが、しかしその一方で県下でも有数の進学率を誇る高校だということも事実である。特に通称特進科と呼ばれるクラスのレベルは非常に高いものであり、わざわざ越境して受験する生徒も少なくない。
荒北の部屋のあるこの棟には主にその特進科の生徒たちが寝起きしているのだ。
当然彼らは部活には入らないし、それに部活に一生懸命なスポーツ科の生徒たちとは違って補講なんてものも受ける必要はないから夏休みが始まればすぐに家へと帰ってしまう。それも八月の声が聞こえればなおさらのことで、盆も近くなった今日、ついに荒北はこの寮で一人きりとなってしまった。
寂しいだとかそういうことを考えるような性格ではないけれど、しかしどうにも違和感は拭えない。
まだここへ来て二年も経っていないもののすっかりお馴染みとなっていたはずの風景が今は違ったものに見える。いつもは常に笑い声のする談話室も、食堂も、廊下も、そこには誰もいない。
風呂や食堂はスポーツ科とも合同のものだからその面では問題はない。よくよく考えてみれば一般生の中に特別仲のいい奴がいるというわけでもないのだから、別段困ることだって無いのだ。
「こっちに間借りしておけばいいのに」
そう自転車競技部の面々も言うし、荒北だってそちらの方が便がいいということはわかっている。しかしながら荒北がそうしようと思わないのは、彼が自分のスペースに他人を入れたがらない性質をしているからだろう。自分の領域と他人の領域をはっきりと区分する人間なのだ。他人が一定以上こちらへ入ってくることを好まないし、それに他人の方へと足を踏み入れることも良しとしない。他人の部屋で寝るのはどうにも落ち着かないし、それにそこが自分の空間ではないことを認識してしまうともう駄目なのだ。匂いが違う。景色が違う。空気が違う。そう考えてしまえば目は冴えるばっかりで、きっと一睡も出来ないだろう。
それに今日は、自分の部屋でなければいけない理由もあった。落ち着くことすら出来ない他人の居場所では決して出来ないことがあるから。
彼が自分の空間を大切にしているもう一つの理由は、そこでなら「秘密のこと」が出来るからであった。
夕食を終えて、荒北は自分の部屋へと足を進めていた。のろのろとした足取りだ。窓は開け放したままになっていたが空気が回りきっていなくて蒸し暑い。朝から夕方までみっちりと練習してそれからのことだから、ひどく強い眠気に襲われていた。欠伸をしながら窓の外を見やる。まだぼんやりと明るいが、段々と山の向こうから暮れていくのが見えた。風呂入んのだりいナァ、と心の中で呟いてみるとさらに足が重くなったような気がして、彼は一つ溜息を吐いた。
ドアを開くとむっとした空気が荒北を包む。電気も点けずに部屋の奥に向かった。足で扇風機のスイッチを入れる。それから一気に窓を開けばようやく少しだけ息がつけるような気がした。
荒北がベッドに腰を下ろすとスプリングが大げさな音を立てて軋んだ。力を抜いて背中からベッドに倒れ込む。朝起きてそのままの状態で丸まっていたタオルケットは熱を持っていて、じわりと荒北の身体にそれを移してくる。額の汗を手で拭ってみたが、後から後から出て来るものだから意味がない。
シャワーを浴びないといけないし、何より今日は起きていなければいけないということはわかっていたがどうにも億劫で荒北はそのまま身体を投げ出していた。温い風が窓から吹き込んでいる。日が暮れて、蝉の声もめっきり聞こえなくなった。ひどく静かである。一つの足音さえも聞こえない。なるほどここには本当に俺一人なのだと荒北はそこで改めて思った。
細々と差していたオレンジ色の光は消えて、紫色だった室内はいつの間にか紺色に変わっている。しばらくの間、荒北は天井に映る影をぼんやりと眺めていたが、次第に瞬きの間隔が長くなり、気付けばもう瞼を持ち上げることすら出来なくなっていた。緩やかな微睡みが心地よくて意識はつい切れ切れになる。
「――。」
そこではっと荒北は目を覚ます。身体のばねを使って勢い良く起き上がり、ドアの方へと視線を向けた。聞き耳を立てながら彼はそちらをじぃっと見つめている。
「荒北、いないのか。」
再び声が聞こえて、ようやく荒北はベッドから脚を下ろす。聞き覚えのある声に、いるよォと呟くように答えたがそれが相手に届いたかどうかは彼にはわからない。
ドアを開くと真っ暗だった。その暗がりの中に、男が一人立っている。
「起こしたか」
福富はそう言って、欠伸を噛み殺している荒北を見た。汗で額に付いた前髪を福富が払ってやると、荒北はまだ芯の無い声でありがとうと返す。
「入ればァ」
「ああ」
そう言って荒北が踵を返すと、福富もすぐに室内に入ってきた。部屋に足を踏み入れた途端にむっとした空気に包まれる。福富が少し眉を顰めて暑いな、と呟くと荒北もそれに同意した。
「クーラーは。」
「今ここ俺しかいねえからつけんのもどうかと思ってさァ」
この寮のクーラーのスイッチは全館一律だから一つの部屋だけつけるということが出来ないのだ。数はどうあれ複数の部屋に誰かがいるならまだしも、自分の部屋だけのためにそれをつけるというのはもったいないような気がして(ただ単に管理人室まで行くのが面倒だというのもあるが)荒北は蒸し暑いこの部屋にいるのだった。
渋い顔をしている福富を手招いて、荒北はベッドに座る。同じように福富も隣に腰を下ろしながら「こちらに泊まりに来たらいいのに」と口にするものの荒北はうんとは言わない。
「お前な、」
「だってそっち二人部屋だろォ。落ち着くかっての」
「それにしたってこの部屋では体調を崩すぞ」
「んなもんで俺が動けなくなるってェ?馬鹿にしてんのかヨ」
俺は一人が性に合ってんだよ、と荒北は言ってから一旦口を閉ざす。黙って俯いて、少しばかり彼は何かを考え込んでいた。そうして少しして首筋を伝った汗をぐいと手のひらで拭ってから、彼はまた福富の方を向く。
「で?福ちゃん何しに来たのォ?」
荒北はそう言って福富を見た。福富はそこでようやく本来の目的を思い出して、そうだった、と頷きながらハーフパンツのポケットを探った。
「これ」
「携帯」
「食堂に置き忘れてあった」
そう言いながら福富は黒っぽい色のそれを手渡す。表面にいくつもの傷があるその携帯電話は確かに荒北のもので、荒北はそれをまじまじと見てそれからふぅとひとつ息を吐くと、もう一度視線を福富の方へと戻した。
「それだけ?」
「…何だ。」
「まさかそんだけの理由でここに来たわけじゃねえだろ」
言えよ。その荒北の突然の質問の意図が読み取れなくて、福富はただそちらを見詰めるばかりである。どういうことだ、と聞かせてくれるような雰囲気でもない。わかってるんだろと視線だけで荒北は言っていて、福富はまた少しだけ眉間の皺を深くする。
部屋には電気は点いていない。段々と相手の姿すらはっきりとしなくなる中で、二人はただお互いを見詰めている。
荒北が一瞬目を逸らした。その視線を追うようにして、福富も同じ方向を見る。と、そこでようやく福富は荒北の言わんとすることを理解して、思わずああ、という声を漏らした。
「なんだァ福ちゃん、わかってなかったのかよ」
「わかりにくいにもほどがあるだろう」
「俺がわざわざ食堂に携帯持って行った時点で気付いて欲しかったねェ」
「それでわかるなら苦労しない」
「違えねえな」
けらけらと荒北は声を立てて笑っている。薄暗い中でその声はよく響いて福富の耳へと届いた。よくその顔が見たくてぐいと引き寄せると、思っていたよりずっと荒北の身体は熱い。ベッドに脚ごと乗り上げてその痩身を抱え込むと、ちょうど福富の顔の間近に荒北の耳がきた。指で軽くつまむと、これもまた熱い。自分から仕掛けておいたくせに照れるなよ、と福富が笑いを滲ませた声で言うと、荒北は少し拗ねたように照れてないと反論する。
いつの間にか外からは月の光が漏れ込んでいた。ぷいとそっぽを向いた荒北の首筋が汗で光っている。ほんのりと赤い。わざわざ食堂に携帯を「置き忘れて」行った時のこいつの表情はどんなものだっただろうか、と福富は思い出そうとしてみるが、しかしどうにもうまくいかない。
「福ちゃんって鈍いよナァ」
「否定は出来ないな」
「一人っきりの恋人がいるんだから夜這いでもかけに行こうとか思わねえの?」
「そういうのは相手の同意があってからすることだろう」
真面目くさった顔で福富がそう返すのに荒北は噴き出しながら、福富の肩に顎を載せる。
「俺のことは好きにしていいのに」
福富の膝の上に載ったまま荒北はそう、ほとんど掠れたような声で言った。きっと普段なら足音や話し声なんかに掻き消されて聞こえないぐらいの大きさだ。今がひどく静かだから、それは福富の耳だけにそっと届いたのであった。
そこで福富は、ここには二人っきりしかいないのだと改めて自覚して、荒北を再度抱き寄せながら耳を澄ませた。昼間はあれだけ煩かった蝉の声も無い。足音も、人の声も、水の音も、それこそ人がそこにいるという気配が無い。今、彼に聞こえるのはただ、荒北が潜めている呼吸の音と、それから自分の心臓の音ばかりだった。
「泊まっていくよな」
ちょっと暑いけど、構うなよ。荒北がそう言ったのに福富は黙って頷いた。空っぽの寮の中で、そうして荒北のいる空間の中で自分だけがここにいることを許されているようなそんな気がして、福富はわずかな眩暈を覚える。
「二人っきりだな」
「ああ、悪くねえだろ?」
「…言って自分で照れるなよ」
「っせえよ」
誰もいないのだから声を抑える必要もない。鼻先のくっつくほどの距離で笑いあいながら、二人はじっとお互いを見ている。朝までは長い。暗いうちにしか、そして二人きりでしか出来ない「秘密のこと」をする時間は十分にあると、福富はちらりと窓の外を見やりながら思い、温い風が緩やかに吹き込んできたのを合図に、手を滑らせた。