※オフ本「今日のごはん」と少しだけ繋がってます
箱根学園の学生寮から麓まで約5キロ。歩くには遠いが、遠出をすると言うには短い距離だ。
荒北は寮の駐輪場の前で腕を組んだままじっと考える。ビアンキは学校の駐輪場。箱根学園はほとんど山の頂上にあるから、中腹のここから歩いて取りに行くのとこのまま麓のコンビニまで行って帰ってくるのではどちらが早いだろうか。
(どっちにせよ面倒くせえ)
そんな意見がふっと頭を過るものの一度立てた予定を変えるのも癪だ。日曜日の午後である。練習は午前中で終わってしまって、ついでに福富から直接「午後は休め」と言われてしまったものだから練習することも出来ない。部屋に戻って勉強するのも馬鹿らしいし、昼寝するにしても中途半端な時間だ。荒北は軽く首を振ってから足を踏み出した。
「これ壊れねえだろうなァ」
荒北は思わずそう一人呟きながら眉を顰める。彼がさっきから出掛けるのを躊躇していた理由はもう一つあって、それがそこにある、いわゆるママチャリのせいなのだった。寮棟の真裏にある駐輪場に昔からずっと備え付けられているその自転車はどこもすっかり錆びきっていて、古びたトタン屋根の下で日陰になっているせいもあってかひどくぼろぼろに見えた。おざなりにサドルに被せられたビニール袋もいつから替えられていないのか。
荒北の手の中にはさっき寮監室の前を通りがかった時に渡された鍵がある。これを使えば早いのは確かだろうが、しかしどうにも乗るのを躊躇ってしまう。見た目のせいもあるし、それに何より強度が不安だ。
またしばらく荒北は立ち止まってその自転車を眺めていたが、ともかく一度乗ってみればわかるだろうと諦めてゆっくりと一歩ずつそちらに近寄って行く。近付けば近付くほど、見れば見るほど今にも壊れそうな雰囲気が伝わってきたが見ない振りをして荒北はハンドルに手をかけた。
「買い出しか」
共用のママチャリを引き出して通用門の方へと荒北が向かっていると、不意にそう横から声を掛けられる。見れば東堂であった。携帯電話を片手にゆっくりと歩み寄ってくる東堂に荒北は呆れて他にすることは無いのかと言うと、俺だって巻ちゃんにばかり気をかけているわけじゃないさと彼は肩を竦めた。
「今朝真波が来なかったから連絡していたのだ」
「何だ、結局あいつ来なかったのかよ」
「葦木場が言うには来ていたは来ていたらしいのだがな。どうも練習コースではないところで走っていたらしい」
「ハッ、あの不思議チャンがァ」
「全く、我の強い奴だ」
やれやれとでもいった風に東堂が眉を下げているのに釣られて、荒北も溜息を吐きたくなる。気まぐれで何を考えているかわからない後輩が休日の、しかも今日みたいにからりと晴れた天気のいい日にまともに練習に来たためしはない。幾度か注意はしたものの「だって風が気持ちいいし」と悪びれた風も無く言うものだから、最近では段々と周りも諦め始めていて、初め朝からうるさく招集をかけていたのが今ではこうして後から東堂が連絡するだけになってしまった。結局のところここの自転車競技部は実力主義なのである。それゆえに実力があればこうして好きにさせておけと自由な行動が許されるし、周りも喧しく言うことは無い。もし真波にそれだけの力が無ければ相応の処分やペナルティがあったはずだろう。即物的なもんだと荒北は内心思いながら、すいすいと山道を登っていく白いLOOKを脳裏に思い浮かべた。
あまり好きにさせすぎるのもな、と何か考えるように東堂は言いながら山の方を見ている。まだ真波はあの山のどこかを走り回っているらしい。夏はどうやったって近付いてくるから、そろそろ真波に全体練習にもきっちりと参加させないととこの間東堂と福富が話し合っていたのを荒北は思い出した。個人練習主義の彼にもそれは当てはまることだから少し耳に痛い。
決まり悪くなって荒北は東堂から目を逸らし、ポケットの中から取り出した携帯電話の画面を覗き込む。
時間は午後二時を過ぎてそろそろ三時に近い。
これからコンビニに行って、帰ってきたらどれぐらいになるかなと彼はぼんやり待ち受け画面を眺めながら考えていた。画面には、今目の前に広がっているのとよく似た山の風景が写されている。秦野の山の景色だ。そういえばここへ行ったのも今と同じぐらい晴れた日だったなと思い出し、荒北は慌てて手で顔を隠す。思わず顔が緩みそうになったのを悟られたら東堂に何を言われるかわかったもんじゃない。追随して様々なことがどんどん頭に思い浮かんできて、顔に出ていると指摘されるのも時間のうちだと荒北は早々にその場を立ち去ることにした。
「ところで荒北、お前どこまで下りるんだ?」
荒北がそちらを向くと、東堂はしれっとした顔をして荒北の方を見ていた。何が「ところで」だ、わざとらしい。そう心の中で悪態をついて嫌そうな顔をしてみたって聞くつもりはないようで、東堂は飄々とした態度で荒北の返事を待っていた。
(こいつハナからそのつもりだったな)
ちらとそんなことが荒北の頭を過る。真波と東堂が似ていると思うのはこんなところだ。きっと二人とも意識はしていないだろうが、しれしれとしているくせに自分の欲しいと思うものや意志を通すところなんかよく似ている。口振りの割に曲げるつもりの無い言葉を聞いて荒北はちょっと呆れ混じりに口を開く。
「お前真波のこと言えねえぞ」
「何のことかね」
言ってみても東堂は悪びれた様子もない。
「ノートを一束頼む」
礼はするから。東堂はそう言って荒北に手を振る。荒北はもう言い返す気も無くてただ適当な返事をしただけだった。
(自覚もねえのに先輩後輩で似るもんだな)
皮肉っぽく荒北が胸の中で呟いたことは東堂にはおそらく聞こえていないはずだ。
○○○
案の定自転車はひどく漕ぎにくかった。
一つ踏み出す度に壊れるんじゃないかというぐらいの音を立てる。一番低いところからちっとも上がってくれないサドルのせいでハンドルに膝は当たるし、それにタイヤに空気が入っていないらしく漕いでも漕いでも漕いでいる感覚がない。幸い下り坂だからなんとかなっているものの、帰り道が思いやられると荒北は今更この移動方法を選んだことを後悔していた。
(もしかすると歩いた方が楽だったんじゃねえのか)
そんなことを思ったりもするが、しかし後の祭りである。一度漕ぎだしたものは仕方がない。戻ることも出来ないのだから諦めて進むしかないんだと心の中で諦めの言葉をいくつか吐くと、口から溜め息と一緒にうめき声が漏れた。
徐々にしか利かないブレーキに気を付けながら、荒北はゆっくりと緩やかな坂道を下っていく。休日であってもこの道はほとんど車が通らない。人の気配も無くて、しかも左右にあるフェンスの向こうはすぐに森が広がっているから一層静かに思えた。荒北は顎を持ち上げて頭上に掛かって日陰を作っている木々を見る。普段ここを通ると言ったら練習コースに向かう時ぐらいのものだから、こんな風にゆっくりと見上げることはあまりない。緑はまだ浅い色をしている。そのうちにあれは夏の強い日差しを浴びて、濃い色になるのだろう。緑の間を繋ぐように青い空と、それから雲がほんのわずかなスピードで飛んでいるのが見えた。穏やかな風景だ。毎日、それこそ風景なんか見ている余裕がないぐらいの速さで走っているのもあって、荒北の目にはそれがどこか暢気なものに映った。たまにはこういうのも悪くないかもな、と彼は思いつつ前に視線を戻す。長い下り坂の切れ目がもうすぐそこに迫っていた。
住宅街の中を通って、真っ直ぐに道を進んでいく。
平坦道に入ってさらにぎしぎしと派手な音を立てる自転車を宥めながら漕いで行くとそのうちに大きめの通りに出た。住宅街の中を通って、真っ直ぐに道を進んでいく。慣れた道だから迷うことも無い。
平坦道に入ってさらにぎしぎしと派手な音を立てる自転車を宥めながら漕いで行くとそのうちに大きめの通りに出た。それからもう数分もしないうちに目当ての建物が見えてくる。
「あ」と荒北がほとんど無意識に声を上げたのはそこに見慣れた二つの背格好を見つけたからだった。
「おい黒田ァ!そんなとこ座ってんじゃねえよ、バァカ」
荒北が近付きながらそう声を掛けると、銀髪が驚いたように顔を上げるのが見えた。駐車場の止め石に腰掛けていた彼が慌てて腰を上げるのを眺めながら荒北がそちらに近付いていくと、その隣で立っていた背の高い茶髪が軽く頭を下げる。
「荒北さん。お疲れさまです」
お疲れェ、と荒北が軽く返すと葦木場はちょっと嬉しそうに頷いて、その後すぐに隣にいる男に目をやった。自転車から降りた荒北が彼らの前に立つと、少し低い位置からちょっと睨むような視線が向けられる。
「荒北さん、ママチャリ全然似合わないっすね」
「うるせえな。大人しく『お疲れさまです』だけ言えねえのかヨ」
「お疲れさまです」
「ハッ本当に可愛くねえなァ」
そう荒北が言うと黒田はそうっすかね、と言いながら顎を持ち上げて彼を見た。その姿にいつかの自分の姿が一瞬ダブって荒北は少し面白くなる。(と言ってもあの頃彼がしょっちゅう突っかかっていたのは主に同級生の福富にだったが。)挑戦的で負けず嫌いなところは似ていると思う。こいつはオレの後輩なんだなとふと荒北はそんなことを思い、なんだか気恥ずかしくなってすぐにその考えをかき消した。似合わない言葉だ。数年前の自分にこのことを教えてやったら一体どんな顔をするだろうか。
「買い出しですか」
葦木場がそう聞いたのに荒北は頷く。尋ね返そうかと思ったが、二人ともまだジャージ姿のままだというところから練習が終わってからまたどこかへ走りに行っていたということは明らかだったので口に出すのはやめた。二人して片手に持ったペットボトルも、ロードにつけたままのボトルも空にしているからきっと山でも登っていたのだろう。汗だくで、それでも「次はどのコース行こうか」なんて言っている辺りこいつらも相当な自転車馬鹿だと彼は思うのだった。
「なんかおごってやろうか」
荒北がそう言うと、すぐに葦木場は「本当ですか」と笑顔で返した。一方の黒田は一瞬ぎょっとしたような顔をしたが荒北がそちらに視線を向けると少し躊躇いながらも頷いた。
「珍しーっすね」
「そうかァ?」
荒北はそう言って目を逸らす。ほんの気まぐれだ。たまには先輩らしいことをしてみるのもいいだろう。
「ただしここに売ってるもんだけにしろよ、面倒だからァ」
「荒北さんオレ、ソフトクリームがいいです。オレがバニラでユキちゃんがチョコレート」
「おい勝手に決めんなって」
「わかったソフトクリームなァ」
「アンタねえ!」
自動ドアをくぐった荒北の後ろを後輩たちが追いかけてくる。今は想像もつかないが、こいつらもいつか今の自分みたいに照れくさい思いをすることがあるんだろうかと考えて、荒北は一人密かに笑った。
○○○
もう少し見て回るから、と言って後輩たちを先に外に出して荒北は店内をゆっくりと歩き回る。
文房具の棚を覗いて五組一束になったノートを手に取って籠に入れた。もうそれで目的はほとんど果たしたようなものだが、しかしこれだけで帰るのもあの男のために来たようで癪だし何より時間潰しにすらなっていないからもうしばらくうろつくことにする。
切らしていた炭酸飲料を買い足して、それから夜食用のカップ麺をいくつか。レトルトのカレーをちらりと見る。荒北の頭にその時浮かんだのはここにはいない男と一緒に食事をした時のことばかりで、何を見てもあの金髪を思い出すことになるなんて相当自分も煮詰まってるんだなと少し呆れて笑いそうになる。ついさっきの後輩たちとの会話でもそうだが、何であっても自覚すると照れくさくなってしまうものなのだ。それが自分が先輩であるという意識であれ、誰かを好きだという想いであれ。
(こんなとこで思い出すようなことじゃねえな)
レトルト食品の並んでいる棚から目を逸らしながら荒北は頬の辺りを撫でる。何となく熱いような気がして、思わず隠すようにして手を止めた。一緒にいないときでもこんな調子だなんて誰にも言えたもんじゃない。
(ああもうどうしようもねえなァ)
諦めるしかない。一度進み始めたものは戻ることもできないし、それに何よりこれが心地よいと思っているから仕方がないのだった。
そろそろ店から出よう。そう思って荒北はくるりと踵を返す。店内の時計を見上げてみるとまだ四時にもなっていない。おやつにしては少し遅いが、何か甘いものでも買って帰ってみようか。不意に福富の顔が見たくなって荒北はそんなことを思った。
きょろきょろ辺りを見ながら何がいいかと目ぼしいものを探すと、ちょうどレジの前に生菓子のコーナーがあった。あんなにいかつい見た目をしているくせに、福富という男は甘いものが好きなのだ。
(ショートケーキ、シュークリーム、みたらし団子、羊羹)
端から順番に棚を見ていく。嫌いだというわけではないが荒北自身はあまり自ら甘いものを買って食べる習慣が無いためにいざ買ってみようと思うと何を選べばいいのかわからない。
しばらくうろうろとコーナーの前を行ったり来たりしていたが、少しして彼は足を止める。コーナーの端に一つぽつんと置かれたそれを覗き込むように荒北は見て、すぐにそれを手に取った。
レジに向かいながら彼の頭に浮かんでいたのは福富がこれを見たらどんな表情をするかということと、それからほんの少しの気恥ずかしさだった。
「荒北さん、ごちそうさまです!」
店を出るとすぐに荒北はそう声を掛けられる。そこで待っていたらしい葦木場と黒田は二人ともまだソフトクリームのコーンを持ったままである。味わって食えよォ、と言った荒北に向かって葦木場が頷く。黒田も同じように首を振ってから、荒北に短く礼を言った。
「お前らまだ走んのかヨ」
「ハイ。もう一周ぐらい流すぐらいですけどーー」
「ユキちゃんこれ返すよ。オレやっぱりバニラの方が好きだ」
「ハァ?お前がこっちがいいっつったんだろ」
「あ、荒北さんそれ何買ったんですか。タルト?」
「おい聞けよ」
言いながらも葦木場が差し出したコーンを手に取って自分のものを黒田は彼に渡している。言い争いは(葦木場の方は気に留めていないらしいから一方的に黒田が言っているだけにも見える)絶えないが案外いいコンビなのかもしれない。「本当にお前ら仲いいなァ」と荒北が笑うと黒田はちょっと眉を寄せて首を横に振っていたが、それに対して葦木場は嬉しそうに頷いていた。
「でも福富さんと荒北さんにはかないませんけど!」
「…一言多いんだよこの天然チャン」
荒北が決まり悪そうに頭を掻くのを葦木場は不思議そうに首を傾げて見ている。それに耐えきれずに小さく声を上げたのは黒田だった。
○○○
後輩達と別れて荒北が再び自転車を漕ぎ始めたのは一番日差しが眩しい時間だった。
今の季節、午後四時前には天辺から下りてきた太陽がちょうど目の高さと同じに来るからひどく目に痛いのだ。
荒北は何度も瞬きを繰り返しながらも前を睨む。山道に入れば少しはましになるだろうが、住宅街のフラットな道では直に光が飛び込んでくるからどうにも走りにくくて仕方がない。
ペダルを踏み込んでスピードを上げると、前籠に入れたビニール袋の中身が跳ねて音を立てた。荒北はノートの束が飛び出しそうになるのを片手で押さえながらついでにビニールの中を覗く。青のボトル缶に隠れていた浅い色合いのタルトがまだ潰れていないのが見えて彼はほっと息を吐いた。ケーキ一つのためにこんな風に荒北が進んでいることを彼を知る人間が知ったらどんな顔をするだろうか。
行きよりもずっと重いペダルを踏み込んでようやく寮までたどり着いた時には荒北はもう汗だくになっていた。駐輪場に自転車を戻してのろのろと寮の玄関の方へ向かう。行き帰りの山道でもほとんど見知った寮生と出会わなかったし今もスポーツ科の寮棟が静かであるところを見ると、どうやら今日の午後練習の無い部活は自転車競技部だけらしい。玄関の前で立ち止まって見上げてみても人の気配は無い。
荒北はちらりと手元のビニール袋に目をやる。別に後ろめたいことでもないのにどうしてだか少しだけ緊張していた。やましいことをしに行くわけでもないのに、と思ってから荒北はすぐに自分が少しだけその「やましいこと」を期待していたことに気付いて居たたまれない気持ちになる。首を振って一旦忘れてみようとするが一度上った血はなかなか下りない。赤くなった耳を擦りながら、荒北は引き戸に手を掛けた。
と、そこでようやく荒北は扉の向こうが何やら騒がしいことに気が付いたのだった。
「――いや、そんな。いけません」
「いいだろ。ちょっとだけだから付き合えよ、悪いようにはしねえから」
「でも、俺そういうのは」
どうもそこだけ聞くとよからぬことでもしているようだ。声の主はわかっているから別段心配するようなこともないが、しかし物騒である。
「おい、後輩脅迫してんじゃねえぞ新開」
荒北はそう言いながらガラス戸を引く。すると案の定そこには見慣れた赤毛と坊主頭がいた。新開は靴箱の前の簀の子に腰掛けて、泉田はその前に立っている。荒北が少し妙だと思ったのは、座り込んだままの新開が泉田の片腕を両手でしっかりと掴んで、まるで駄々をこねるような格好をしているところだった。
「あ、靖友。いいところに帰ってきたな」
新開が言う。それと同時に彼は立ち上がり、泉田の隣に並ぶ。腕はまだ掴んだままである。何やってんだ、と荒北が胡乱な目を向けながら言うと新開はいやあ、と少し笑った。
「泉田を誘っているんだが、つれなくてな」
「いや俺はそんなつもりじゃなくてですね」
「…どっか変なとこ連れてこうとしてんじゃねえだろうな」
「靖友、そういう偏見はよくないぞ」
新開が肩を竦める。
「ただ二人でラーメン食べに行こうって誘っただけさ」
そう言って新開はやっと泉田から手を離した。そうして軽く首を傾げながら少し困り顔の後輩の顔を覗き込む。泉田はそんな新開の行動にたじたじといった風に眉を下げ、でも、そんな、と言葉を濁していた。
「てめえが馬鹿みてえに食うから一緒に行くの嫌なんじゃねえのォ?」
「いえ、そういうわけではないんですけど」
「泉田さ、俺が奢るって言ったら嫌がるんだよ」
「アア、なるほどなァ」
つまり言うところの、この勤勉で慎ましい後輩は遠慮をしているのだろう。さっき会った二人やそれから今日は会っていない後輩と彼が違うところはここだ。荒北は別にその三人が馬鹿で遠慮もしないような奴らだなんて思ってはいないが、しかし少しぐらいは泉田のことを見習ったっていいんじゃないかと考えることはある。だが泉田だって、その三人のことを見習う部分はあると彼は思うのだった。
「泉田ァ、お前大人しく奢られとけよ」
荒北が頭を掻きながらそう言うと泉田は一瞬驚いたような顔をして彼の方を見た。でも、と重ねようとする泉田の台詞を遮って、荒北が「後輩なんだから」と言うと彼はどうしたらいいかと困って新開の方を見た。
「靖友の言う通りだ。俺にもたまには先輩らしいことさせてくれよ」
言ったと同時に新開は泉田の手から鞄を奪うとすぐに荒北の方に投げて寄越す。「行くぞ」と言って泉田の腕を引いて歩き始めた男の背中に「あんま遅くなんなよ」と一言だけ投げれば、新開は言葉を返さずに手だけ振って去っていった。隣を過ぎる瞬間に見えた泉田の表情は少し戸惑いの混じったものだったが、歩いて行くその背中は嬉しそうなもので、どの後輩でも変わらねえもんなんだなと荒北は少し感心する。
(まぁ馬鹿な先輩に付き合わされんのも大変そうだけどなァ)
そう心の中で彼は一人呟きながら、段々と遠ざかっていく二人の背中を眺めていたのだった。
○○○
「荒北」
「あ、福ちゃん。ただいまァ」
「ああ、おかえり」
福富のその返答に満足して荒北が笑顔を見せると、福富も釣られたようにちょっとだけ口の端を緩めた。二年棟の方に後輩の鞄を放り込んで、一旦荒北が自分の部屋に戻ろうとしたときのことだった。丁度廊下の向こうからやってきた福富に荒北が手を振って、それからこうして向かい合って言葉を交わしている。
福富は手に何やら小包を持っていた。何かと荒北が尋ねると、実家から果物が送られてきたのだと言う。部屋に来ないかと福富が言ったのに対してすぐに荒北は頷いた。
「ナァそれってさ、もしかして桃?」
荒北が冗談めかしてそう言えば福富は一瞬押し黙ってから荒北の目を見て、それから少し照れたようにああと短く答えた。
「他の果物もあるんだ」
慌てたように付け加えたのがおかしくて荒北は思わず噴き出す。堪えきれなくなって笑い始めた荒北に福富は少し困ったような顔をしてみせる。バァカ、と荒北が軽くなじると福富は気恥ずかしそうに目を逸らした。
「何かやらしいこと考えてたろ」
「そんなつもりじゃない」
「ヘェ?」
「…ただの、おやつだ」
その言葉を聞いた荒北が慌てて片手で自分の顔を押さえると、彼の手元のビニール袋ががさりと揺れる。照れくさくて口に出すことなんて出来なかったが、荒北は内心、似たもの同士だと笑っていた。
「これ置いたら部屋行くわ」
ビニール袋を持ち上げて荒北がそう言うと福富は黙って頷いた。それから彼はその手元にある物を見て「ところでお前は何を買ってきたんだ」とふと尋ねる。
それに対して一瞬荒北は言葉を詰まらせて、それからたいしたもんじゃないと答えるが、福富の視線に耐えきれなくなってすぐに降参してしまう。
「…何だよ」
「お前だって」
「あーもう言うなってェ」
今日食べないならこっそり冷蔵庫に入れておこうと思ったのに。荒北がそう拗ねたように言うのが福富にはひどく可愛く思えて、思わず頬を緩める。袋の中にある一切れの白桃のタルトをこの男がどんな顔をして買ったのか少し見てみたいと福富はふと思った。
「今日はこっちが食べたい」
福富が袋からタルトを取り出しながらそう言うと荒北はそうかよ、と少しぶっきらぼうに言った。そっぽを向いた荒北に向かって「明日のおやつはこれにしよう」と手元の包みを福富が示すと、荒北はちらりと視線を向けて、それから一言しゃあねえなァと言って、こう続ける。
「じゃあ、また明日」