「アア、割れた」

外周マラソンの最中である。
不意にそう声がした。
福富は走っていた脚を止めて振り返る。見れば、自分にぺったりと着いて走っていたはずの男がいない。脇を走り抜けていくチームメイト達の姿を目の端に見ながらも福富は踵を返して元来た道を戻っていく。

すると段々と見慣れた黒髪が見えてきた。道の端に座っている。どうした、と福富が尋ねてみたが、荒北はそちらを見もせずにひらひらと手を振るだけである。先に行けということらしい。伸びた髪が荒北の目をすっかり隠しているから表情は伺えない。
その時丁度、彼はシューズを脱ぎかけているところだった。ちらりとこちらに視線を向けるものの、すぐに彼は目を元に戻して作業に戻ってしまう。それを見た福富はまさか捻挫でもしたんじゃないだろうなと薄ら寒いような思いを抱く。まだ春とは言え、インターハイ前の大切な季節である。しかも荒北はレギュラーの一員でありエースアシスト。つまりは福富の大切な懐刀なのだ。大事があってはいけない。

どうにも気に掛かって立ち止まっている福富に下からの視線が寄越される。
「福ちゃん、」
低い、それでいて柔らかい声だ。どこか子供に言い聞かすような雰囲気もあり、一方で恐ろしく色気のある、そんな声だった。このタイミングでどうしてそんな声を、と福富は疑問に思うものの、三年間こうして寄り添ってきたこの男の「ツボ」がわからないわけではないから彼は何も言わない。ニタリと笑った口元だけがやけに目立つ。わずかに覗いた舌を思わず凝視しそうになって、福富ははっとする。

「んな厳しい顔しなくたっていーよォ」
爪が割れただけだから。そう荒北は笑みを含ませた声で言った。語尾はからかうように甘く伸ばされている。
座ればァ、と荒北が言ったのに福富は返事をせずにただじっとそこに立っていた。あんまりずっとこうしているのも良くないと思う。自分が主将だからとかいかつい男二人がこうして見つめ合っているのは少し違和感があるだろうからとかそう言った外聞的な理由ではなくて、単に福富自身の「ツボ」の問題である。
福富はぐるりと辺りを見回す。もうすでにチームメイト達は皆先に行ってしまったらしく、ほとんど廃道に近いこの道には人どころか車一台すら通らない。二人きりである。思わず唾を飲み込む福富を見て、荒北は今度は隠しもせずに笑った。
「気になるゥ?」
浅く引っかけていた靴を下へと落として、荒北は靴下に手を掛ける。白いソックスの爪先がわずかに赤く染まっているのが見えた。指先で手繰るようにして靴下を脱いでいく。荒北がぱっと手を離して靴下を下に落としてからようやく福富は一つ息を吐いた。
「見せてみろ」
福富が膝をついてそう言うと、荒北は大人しくそれに従って足を持ち上げ爪先を差し出す。いつもは自分の上にある金の頭が下にあるということが何だか新鮮で、荒北はいたずらを仕掛けたいような気分になるが、すぐに福富の動くなよという声で制されてしまう。
「つっまんねェの」
「怪我の手当が先決だろう」
「それはそうだけどサァ、」
ジャージのポケットから取り出した手当道具で福富が自分の足を止血しているのを眺めながら、真面目すぎるのも考えものだなと荒北は内心少し笑った。
俯いたまま、福富が自分の足に包帯を巻いているのを荒北は眺めていた。爪は割れた、というよりも剥がれたと言った方が近い状態である。じくじくと爪先が痛む。帰ったらちゃんとした手当をしろ、と福富が口にしたのを軽い返事で流しながら、荒北は福富の手元をじっと見つめる。走っていたせいでまだ熱い彼の手のひらが自分の足の裏に触れている。不器用な手つきで巻かれる包帯。
その時不意に、福富が何かを言うのが聞こえた。ぼんやりしていたせいでうまく聞き取れずに荒北が聞き返すと、福富は視線を上げ、今度は荒北の目を見ながら口を開く。

「今晩部屋で待っていろ」
そう一言言って、福富は荒北の返事も聞かずに立ち上がってそのまま背を向けて行ってしまう。
その背後で荒北が小さく笑い声を上げたのは、自分と彼があんまりにも似たもの同士だと思ってしまったからだった。


***


荒北は決して、痛いことが好きだというわけではない。
むしろ過去の経験上、大きな怪我や事故は避けたいと思うしそれに何よりそれだけの傷を負ってしまえばアシストとして彼を引けないだろうから、荒北は痛みに対しては敏感だった。
けれどもその一方で荒北自身も薄々感づいていることがある。
それはたとえば紙で指の腹を切ったときだとか、またはさっきみたいに爪が剥がれたときだとか、そういう小さくて尾を引くような痛みについて。
じくりじくりと後から伴ってくるような、そういった類の痛みは自分にとってある種のスイッチらしいと彼は自覚していたのだった。
ほんの小さな傷口に空気が触れるとそこからじわじわと熱が上ってくるような気がする。首筋の後ろに痺れが走るような感覚があって、無意識に呼吸が震えるのだ。
それは別にいつでもどこでもというわけではないし、それに何に対してもというわけではないけれど、荒北にとっては非常に厄介なものであることには違いない。そうして何よりもどうしようもないことに、それを彼自身が楽しんでしまっているところが一番いけないのだろう。

荒北のその「スイッチ」が入るのは、ある条件下だけのことである。
彼にとっての唯一の絶対的なもの。福富が側にいるときだけ、その感覚は荒北を襲うのだった。

その原因はすべて福富という男にある。それに二人が二人、気付いているかどうかはわからない。ただ無意識でのことが一番質が悪いということは確かに事実である。


***


消灯時間間近になってから福富は荒北の部屋を訪れた。
「遅かったネェ」
「ああ、ちょっとな」
ちょっと、という言葉を荒北は真似て何度か口にする。福富がそういった風に言葉を濁すのは珍しいことだった。何かあるな、と彼の勘が言っていたがしかしながら今ここで口にするのはあんまりにも無粋だろう。荒北はベッドに腰掛けたまま、福富が近付いてくるのを黙って見つめていた。
近付いてきた福富のシャツをぐいと引っ張って顔を寄せて、いつものようにキスをする。初めは軽く触れるだけ。それから口を開いてそれを深めようとするが、福富は荒北のその誘いには乗らずにただ宥めるように口の端に触れた。
「何でェ。」
「用が済んでからだ。」
「いいってばァ、そんなの。」
「良くない」
鼻先をくっつけながらそう言い争いつつ、福富は丁寧な動作で荒北の手を自分のシャツから引き剥がす。荒北は不満げな視線を送ってはいたが、福富に逆らうことはしない。さっさと終わらせろよ、と奥に熱をはらんだ瞳が言っている。仕方のない奴だなと福富が笑えないのは、彼自身もそれを望んでいるからだろう。

屈んでいた姿勢を元に戻して、それから福富は昼間と同じように荒北の前に膝をつく。福富が視線をやれば荒北は得心したように頷いて、すぐに爪先を彼へと差し出した。
怪我をした小指は、案の定福富が手当した状態のままだった。ちゃんと医務室へ行けと言っただろう、と福富が言っても荒北は悪びれる様子もない。
「福ちゃんがやってくれるつもりだったんだろ?」
人の悪い笑い方をする。けれどもポケットの中に手当道具を入れてきた福富はそれに反論することも出来ないのだった。

「解くぞ」
そう一言口にしてから福富は血の付いた包帯の端に手を掛ける。血はすっかりと乾いてしまって褐色じみていた。止血するためだけに巻いたものだったから、患部に布が貼り付いてしまっている。そっと福富が視線だけを上に向けて荒北の表情を伺うと、荒北は目を伏せていた。眉間にわずかに皺を寄せていた。やはり痛くないはずがないのだ。そっと、出来るだけ丁寧にそれを取りながらも福富はその表情から目が離せずにいる。口に出したことはないが、福富は荒北のこの顔がどうしてだか好きで堪らないのだった。
血で汚れた包帯をすっかり取ってしまってからようやく荒北はほっとしたように眉間を緩めたが、福富が消毒液を取り出すと、さっきよりも数倍渋い顔をした。
「逃げるなよ」
「逃げねえけどォ・・・」
福富が荒北の痩せた足首を掴むと、一瞬びくりと驚いたように反応する。荒北はぐっと奥歯を噛んで、目を細めて福富の方を見た。

「アッ」
と荒北が悲鳴じみた声を上げる。消毒液が相当に染みたらしい。仰け反った首のラインが蛍光灯に照らされて鋭利に光っているのが福富の目には見えた。同時にぞくりと背筋を何かが這い上がってくるような感じがして、福富は唾を飲む。

(まだだ)
自制するために福富は心の中でそう呟いた。一つ瞬きをすると、それから逃げを打とうとする荒北の足を捕まえて、素早く処置をする。ロードに乗る人間にとってこれぐらいの傷は茶飯事のことだから、不器用とはいえ福富にとってもこれぐらいの手当ならお手のものだ。
手当を終えてなお、福富を見下ろす荒北の目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。自業自得だ、と福富が言っても俺は悪くないとでも言いたげな視線を向けるばかりだ。
そうしてその目にはさっきよりもより濃く色が浮かんでいる。
「もういいだろォ」
荒北はそう言ってからハァと一つ息を吐いた。熱っぽい。滴るようなものである。たまったものではない、と福富は内心思うものの、まだそちらに手を伸ばすわけにはいかないから慌てて視線を再び下にもどす。
もう少しだけ、と言って福富が彼を制すると、荒北が堪えきれずわずかに身を捩るのが福富には見えた。

そんな荒北の様子を目の端に映しながら、福富はポケットに手を突っ込む。そうしてその奥から小さな小瓶を取り出した。まるで彼らしくないような華奢なデザインの瓶。
「それ何?」
「マニキュアだ」
「マニ・・・何ィ?何で福ちゃんがそんなの持ってんの?」
わずかに暗い蛍光灯の下でもわかるほどの、混じりけのない赤である。無骨そうな男の手に握られるのは似合わないものだ。あまりに唐突に現れたそれに荒北は驚き、目を瞬かせている。
「爪の補強のために塗っておいた方がいい」
福富はそう言いつつ荒北の足を持ち直し、早速作業を始めようとしている。頑ななのだ。一度こうと決めたら簡単には目的を曲げない男である。何を思っているかは知らないが、こうなったら身を委ねるしかないのだと荒北は金髪を見下ろしながら思い、強ばらせていた脚の力を抜いた。

福富は字は綺麗だが、絵はあまり得意ではない。彼が小さな刷毛で四苦八苦しながらも赤を爪先に塗り広げていく様子を荒北は見ている。丁寧ではあるが、決して綺麗ではない。所々はみ出しているし、それに表面だってがたがただ。けれどもどこか意固地になってそれを塗っている様子が荒北にはなんだか可愛く思えたりもするのだから、惚れた欲目という奴はどうしようもないと思う。
なぁ、と荒北が福富に声を掛けると、少し待て、と福富は顔も上げずに言う。くつくつと喉を鳴らして笑うと、動くなよと福富が視線だけで言ってくるのが見えた。可愛いなぁ。なおも荒北は笑う。

「ところでさ、何で赤なの。」
普通透明とかそういうのじゃないの。荒北は不意に疑問に思って、そう口にした。透明だったら別段はみ出したりするのも気にしなくていいし、それに男の足に塗るのにも違和感は無いだろうに。
荒北がそう言うと、福富はしばらくの間黙っていたが、少ししてから顔を上げる。

「赤が似合うだろう、お前は」

余りにストレートな言い方に、うっかり呆気に取られてしまう。荒北は一瞬ぽかんとしてそちらを見つめていたが、すぐに吹き出して笑い始める。
「福ちゃん、それってあんまりじゃナァイ?」
自分で自分の性癖晒してるようなもんだぜ、と荒北はニィと口の端を持ち上げて言った。
刷毛を持ったままの手を荒北の手が掴む。荒北の手のひらにべったりと塗料が付くのが見えた。赤である。ひどく鮮やかだ。ぞくりとするほどこの男には赤が似合う、と福富は改めてそこでそう思った。

福富には加虐趣味はない。
むしろ過去の経験から、誰かを傷つけることをすら厭う傾向すらある。
けれども、たとえばちょっとした切り傷や擦り傷、そうしてわずかに血の滲むような傷跡を見ると身の内に火が宿るのだ。それはいつどこででも、誰にでもというわけではない。荒北という男にだけ。この男の持つ鮮やかな色にだけ、ひどく興奮するのであった。

赤が似合うと思う。ベッドに乗り上げながら福富は荒北をシーツに押しつけた。手の中にあった刷毛を床に落として、福富はそのままの手で荒北の頬に触れた。べたりと赤色が荒北の目の下につく。自分の吐いた息が熱いのに福富は気付いた。荒北が楽しげに目を細めて、首を仰け反らせた。堪らなくなって福富が首筋に噛みつくと、荒北が声を漏らすのが聞こえた。荒北がわずかに顔を歪めたのが見えてまたそれに煽られる。
足首を掴むと、手当したところの包帯と、それから塗りたての赤が見えた。まだ乾いていない。

「汚れるよ」
荒北がそう言ったのに福富は一言、構わない、とだけ返した。そのまま乱暴に唇を奪うと、少しだけ苦しそうに喘いだ荒北の声がひどく福富の耳には魅力的に聞こえたのだった。