※福富寿一(60)×荒北靖友(60)






 ぱちん、ぱちん。
不規則にそんな音が聞こえてくる。うとうととまどろんでいた福富が目を開くと、それは自分からほんの少し離れただけの場所から聞こえてきているということがすぐにわかった。
身体を起こすと彼の傍で、二つに折りたたんで枕にしていた座布団が元の形に戻ろうとゆっくり動き始める。同時に、掛かっていた薄手の毛布が肩を滑って畳の上に落ちていく。いつの間に掛けられたかとんと記憶がない。福富にわかるのは、誰がそれを自分にかけてくれたのかということだけだった。
毛布を適当に畳んで、福富は真上に手を伸ばして背伸びをする。身体はまだ目覚めていない。少し体をひねればいくつもの関節が鳴る音が聞こえた。わずかに肩の辺りに走った痛みを感じて福富はわずかに眉を寄せながら、若いころはこんなことなんか一つもなかったのに、となんだかそんなことを思った。しかし、そうやって過去のことを思い出すようになったらお前ももうすっかりジジイだぜ、といつだったか同居人に言われたことを不意に思い出して、彼はそこで考えるのをやめてしまう。年を取るのは誰しもに当たり前のことだが、しかしそれを認めてしまうのは福富にも、そして同居人の男にもあんまり似合わないことだと思ったのだ。

福富はゆっくりと立ち上がって、縁側の方へ近付いていく。するとすぐに、こちらに背を向けたままだった男が振り返る。
「起きたかァ」
荒北はそう言いながら目を細めた。目の端に皺が寄る。なんだか機嫌良さそうにしているのは、きっと小ぶりに雨が降っているからだ。雨が地面や屋根を打つ音や、それからこのニオイが好きなのだという。高校時代は「走りにくいから雨なんか降らなきゃいい」とあれだけぶつくさ言っていた男がいつからこんなことを言うようになったか、福富は覚えてはいない。あれからずっと、人生のほとんどの時間を共にしてきたのに不思議なことである。次の誕生日で福富は還暦を迎えて、そうして二人が出会ってからもう四十年以上はゆうに一緒にいることになるのに、まだ彼は荒北についてたくさん知らないことがあるのだ。タバコは吸わない、酒はたしなむ程度の二人だからきっと長生きするだろうし、残りの人生も共にするのだからそのうちにいくらかは知るようになるのだろうが、だがそれでも知らないままに終わってしまうこともあるのだろうと思うと、少し寂しい。もっと早く出会っていたらなんてことは言う気はない。あの日あの場所で出会っていなければ今自分たちはここにいないのだと福富はよくわかっているし、今までこうして来れたのだからこれ以上のことはないだろうとも思うが、だがもっと時間が欲しいとも思うこともあるのだった。

「買い物行かなきゃなァ。もうトイレの紙ねえし」
「あと軟膏と湿布も」
「うわ、ジジくせっ」
「オレよりお前の方がジジイだろう」
「わかってらぁ。相変わらず生真面目に返しやがって、このジジイ」
荒北はそう言ってけらけらと笑いながらまた視線を自分の手元に落とす。隣に座った福富も釣られてそちらを見ると、そこには一株の盆栽があった。去年の暮れに近所の神社の縁日で買ってきた五葉松はぐんぐん裾を伸ばして、初心者が育てているにしてはずいぶんと見映えのするものになってきている。コイツの面倒をみるのは、ほとんどが荒北の仕事だった。福富だって水をやるぐらいのことはできるが、しかし剪定するときの細かいバランスやら、葉の付き方のことなんか一向に覚えられそうもないから結果的に荒北がやることになってしまっているのだ。二人でここではない場所で暮らしていた頃に勝手に家に入り込んでいた野良猫も、なんだかんだとぶつくさ言いはしたがしっかり面倒を見ていたし、こう見えて案外この男は世話焼きなのである。
ぱちん、ぱちん、とまた音がする。胡坐をかいて座った荒北の裸足の足首の辺りに細い葉が散る。鋏を丁寧に操る手先にはいくつも傷があった。爪を短く切るのは荒北の昔からの癖である。それは福富と出会う前、彼が野球をやっていた頃からのことで、もうすっかり身体に染みついた習慣だ。右手の中指が少しだけ動かしづらそうなのは、昔彼らがまだ現役選手としてプロでやっていた頃にひどい骨折をしたからだ。小指の付け根にある傷もその頃のものである。左手にいくつか散らばっている真新しい切り傷は見慣れないものだから、近所の猫に触ろうとして引っ掻かれでもしたのだろう。高校時代からずっと変わらず、荒北の手には傷が絶えない。いつだって無事なのは、走るために必要な腱や目や、そういった目には見えない部分ばかりなのだ。

福富はそっと視線を持ち上げて、荒北の横顔を盗み見る。本当ならもう少し近付いて見たいところだったが、きっと身体を動かせば荒北はその気配を察してこちらを見るだろうからそうもいかない。年を食っても相変わらずそういう勘はいいのだ、この男は。
お互いに白髪が増えた。ずっと無茶をしていたから、自分はきっとつるっといくだろうと福富は思っていたのだが、その予想は当たらなかった。多少生え際は後退したものの禿げているとまでは言わないほどだし、後頭部も頭頂部も今のところは問題ない。もう髪を染めなくなって何年も経つが、白と黒が混じった灰色に近いこの色も嫌いではない(と荒北が言うから福富もそう思っている)。
荒北の髪の色は相変わらずほとんど真っ黒のままに見えるが、伸びた髪を掻き上げるたびにはっきりと白いものが混じるようになっていた。年相応だろ、と荒北が言ってそれを気にしない風でいるのは自身の見た目についてほとんど興味がないからだ。ほとんど、と頭に言葉が付く理由は単純で、それは福富が荒北のそういった変化について時々口にすることがあるからというものだった。口にするといっても元々そう口数の多い男でもないから、ふとした瞬間に荒北の髪に触れて「触り心地は一緒だ」なんてことを言ってみたり、またはその他のたとえば目尻の皺を指でいたずらに伸ばしてみたりするぐらいのものである。出会った頃から続くそういったささやかな触れ合いが福富は好きだった。年を経るごと、お互いが変わっていくごとにその触れ方がほんの少しずつ変化していくのも楽しくて、そうして荒北に触れるたびに、たぶんオレは死んでもこいつからは離れられないんだろうな、と思うのだ。そうしてそれと全く同じことを荒北が考えていることなど、その顔に浮かんだ色を見れば明らかだった。


肩に何かが触れたのに気付いて荒北が顔をそちらに向けると、福富の横顔がすぐそばにあった。
「なんだヨ福ちゃん、甘えてェ」
ジジイのくせに。荒北がそう笑うと、福富は軽く彼の方に体重を掛ける。くつくつと喉を鳴らしながら荒北は片手に持っている鋏を畳の上に置いて、身体をほんの少しだけ福富の方に向かって開く。福富が彼の肩に頭を載せると荒北はわずかに身じろいで、それから彼の方からも福富の側に体重を預けた。もたれかかっているのとは反対側の手で、足や膝元に落ちていた五葉松の葉を払い除けながら、なんとはなしに荒北は福富の癖付いて戻らなくなってしまっているらしい足の巻き爪に目をやって、それから今では健康的といえる程度にしか彼の脛を見た。
何か言いかけて福富が一つ咳をする。荒北がそちらを見て何も言わずにその背中を擦ると、むせただけだ、となんだかちょっと拗ねたような言い方で福富は言った。こういうところは変わらない、と内心面白がられていることにコイツは気付いているだろうか。荒北はそう思いながら笑みを浮かべている。
しばらくの間、二人とも何も言わなかった。二人ともというよりか、荒北は単に福富の言葉を待っていただけだから結果的に黙り込むことになっただけのことなのだが、そう長くはない時間、福富も荒北も口を開かないでただお互いに体重を預け合ったまま縁側の外に見える景色をじいっと眺めていた。晩ご飯なににしようかなぁ、だとか、明日晴れたら洗濯物を干さなきゃいけないなぁ、だとか考えることはたくさんあったが、しかし急を要するようなものではない。現役選手の頃、シーズンオフはいつもこうして過ごしていたな、と荒北は福富の方に頭を押し付けながらそんなことを考えている。トレーニングはしても、ただそれだけ。それ以外に何をするでもなくベッドで一日寝転がっていることもあったし、お互いの記事の載った雑誌をけらけら笑いあいながら切り抜いて取り出すだけの日もあった。
今とあの頃の違いはなんだろうか。現役の頃と引退した今では確かに立場は違うだろう。だがそうと考えてみたとき、ふと思い返して高校の頃と現役の頃とを比べてみるとそこにはさしたる違いは感じられないように思うのだ。きっと本質的には高校時代の、あの出会ったときから二人とも何も変わっていない。とんでもない出会い方をして、気付けば同じ部員になっていて、エースとアシストの関係になって(そのどこかの間に「恋人になって」というものが入るはずなのだが、それがどこなのかもうはっきりとは思い出せない)、二人で生きてきたその間、この距離感は少しも変わっていないのだ。


「福ちゃん、買い物行くぞォ」
ぼんやりそんな取りとめもないことを考えていた福富を、そうやって荒北は呼び戻す。頭をぽんぽんと二つ叩いて合図して、荒北はぱっと立ち上がった。続いて福富が立ち上がるのを見てから、荒北は踵を返して上着を取りに寝室の方へと歩き去っていく。痩せた背中を眺めながら、福富はもし荒北がいなかったら自分はこの年までどうやって生活していたんだろうかとそんなことを考えてみるが、そんな当て所もないことに答えが出るはずもないとすぐに諦めてしまう。福ちゃーん、と間延びしたような声がする。
「今行く、靖友」
そう返事してから福富はスラックスの裾を軽く払い、立ち上がった。


○○○


外に出ると、雨はまだ降り続いていた。傘を差して、ゆっくり歩いていてもズボンの裾に水が跳ねる。
大股で歩くのは昔からの癖だからもう治りそうもない。だがそれでも脚を動かす速さは若いころよりはずいぶん遅くなったから、歩く速さは格段に落ちた。何十年も前のことになるが、肩で風を切るようにして歩いていた荒北の姿を福富は彼らしくて好ましいと思っていたが、しかしだからと言って最近の彼の歩き姿が好きでないわけではない。今の彼の、歩みはそう早くはないが軸を据えて大股で迷いなく進む姿も、福富は好きである。きっと荒北だったら何でもいいのだ。この男が何であっても自分は構わないのだろう。こうして何もかもを受け入れられる相手がいるのは悪くないことだと、彼はまた思っている。

「晩飯の材料と、トイレの紙と、湿布と、あとはァ……」
「軟膏だ」
「あー、それだ」
「しっかりしろよ、ジジイ」
「あっ福ちゃん口悪ィ」
「お前のがうつったんだろ。何年一緒にいると思ってる」
「ヘイヘイ悪うござんした」
「ヘイは一回だ」
「ヘーイ、わあってるよ」
そう答えてから、荒北は福富の方を見た。福富もそちらを見ると、視線が合った瞬間に弾かれたように荒北は声を立てて笑った。笑うと細い目はさらに細められて糸のようになる。何年連れ添ってもそれがどうにも可愛く思えるのはどうしてだろうか。誰かにこれを言えばきっといい年をして惚気なんてと呆れられるとは思うが、それでも思うものは思うから仕方がないのだ。
福富が自分の持っていたビニール傘を閉じて荒北の方に入ると、荒北は「バッカじゃナァイ」と呆れたように言ったが、それを拒否することはしなかった。年を食おうが身体のサイズはそうそう縮みはしないから、幅が広いわけでもない傘ではぎゅうぎゅう詰めである。それでも構わず、二人はふらふらと人気のない通りをゆっくり歩いていくのだった。

手と手が触れ合って、ふと思った時にはもうどちらからともなく手を繋いでいた。
福富の右手が荒北の左手を掴んでいる。荒北の手は痩せて骨ばってはいるが暖かい。ふと冷たい感触があってそちらを見ると、ちょうど自分の指が荒北の左手の薬指に当たっていることに気が付いた。銀色の指輪は、何度も磨きに出した覚えがあるがそれでもいつも身に付けているものだから傷が絶えない。福富の左手のものと同じ銀色が、鈍くそこには輝いていた。
「福ちゃん今度の日曜日、ちょっと走りに行こうぜ」
「サイクリングか」
「スピード出せるんなら引いてやってもいいけどォ?」
「……心拍数と血圧には気を付けないとな」
「本気かよ」
今でも黒いジャイアントとチェレステのビアンキは倉庫には入れられないまま、二人の家の玄関にいる。さすがに福富が荒北に譲ったあのビアンキは随分乗り込んだせいでもう乗れなくなってしまったが、しかしそれでも福富も荒北も、自転車を彼らの生活の傍から離すことはまだできずにいる。彼らにとって、自転車は何もかもの始まりだったからそれは当たり前のことなのかもしれない。いつか本当に自転車に乗れなくなってもなお、ジャイアントとビアンキはそこに二つ並べられたままになるだろう。二人の左手にある指輪とそれは、同じ意味を持っているのだ。


「相変わらずだね、お前たちは」
不意にそう声を掛けられて二人は顔を上げる。見れば、着物を着た男がそこに立っているのが見えた。東堂、と福富が声を掛けると、彼はちょっと苦笑して、口と目元に笑い皺を作った。
「お前たちとちょっとお茶でもしようと思ったんだが」と言いながら、東堂は腕に抱えていた風呂敷包みを少し持ち上げる。荒北は少し首を傾げて福富の方をちらりと見て、福富が軽く頷くのを見ると「じゃあウチ来いよ」と口元を緩ませながら言った。
「出掛けるつもりではなかったのかね」
「いーんだよ、単なるデートだからァ」
「まったく、いい年をして」
「いい年だからだヨ」
残り短い余生好きに生きさせろよ、と荒北が言えば、今までとどう違うんだと東堂は笑った。ちらりと東堂が視線を落としたのはきっと、その間中も福富と荒北の手が繋がれたままだったからだろう。福も福だ、と東堂が言う。福富が首を傾げると、荒北がこらえきれずに噴き出した。

荒北が元来た方向に進路を戻して歩き出すと、二人もそれに従って歩き始める。東堂はそう遠いところに住んでいるわけではないからまた日を改めようか、とも言ったが荒北はそれを聞かなかった。律儀なんだかそうじゃないんだかよくわからないところがある、と東堂は彼について思う。昔から、決まった相手にだけは丁寧に対応するがそれ以外にはぞんざいだったからそんなことを思うのだろう。
一つの傘にでかい図体を押し縮めるようにして無理やり入っている(それも肩なんかは入りきらずに濡れているのも構わないで)男たちを眺めながら、昔からあいつらは変わらないなと彼は心の中で笑った。きっとこれから先変わる予定もないのだろう。東堂が彼らのことを好ましいと思うのは、そういうところがあるからかもしれない。
雨の降る中、ゆっくりと歩きながら東堂は昔、荒北と福富の歩みがひどく速かったことを思い出している。

『福富』と表札の掲げられた一軒家の前に立ち止まる。先に歩いて行った荒北が玄関のカギを開けているのを、福富は黙って見つめていたが、少しして「福ちゃん」といういつもの呼び方が聞こえるとすぐにまた足を動かし始める。
「相変わらずいいアシストだな」と東堂が言うと、先に玄関から家に入っていた荒北は照れたように「っせ」と短く返した。
そうしてふと気付いたように福富の方を見て、おかえり、とゆっくり口にする。
「ああ、ただいま靖友」
「おかえり福ちゃん」
笑うと、荒北の目尻に皺が寄る。福富の口元がわずかに緩んで皺を作ったのも、荒北には見えただろう。それはこの先一生、彼だけに向けられるものなのだ。