※「次は」の福富目線の話






「ーーはい、二人。六時に。お願いします」
それでは、と言って彼は通話を切る。抑えていた息をほっと吐くと、朝八時の冷たい空気の中でそこだけが白く曇った。福富は携帯の待ち受け画面を見ながらようやくそこでまだ今が早朝と言ってもいい時間だということに気がついて、しまったなと眉を寄せた。今日が日曜日だから早めに予約を取っておこうと思ったのだがさすがに早すぎたかもしれない。電話に出たレストランの店主がなんだかちょっと驚いた調子だったことを思い出して彼は決まり悪くなって軽く頭を掻く。
(張り切りすぎだ)
あんまりそわそわしていると気付かれそうだ。彼の恋人は勘が鋭くて彼の隠し事には人一倍鼻が利く。福富はベランダに座り込んだままガラス戸にもたれ掛かって、背後にある部屋のことを思った。
荒北はまだ眠っている。日が昇るか昇らないかの頃先に目を覚ましたのは荒北だったが、体を起こさずにぼんやりしている彼に気付いた福富が抱き寄せるとすぐにまた眠ってしまった。寝起きの荒北の声は静かでいつもより柔らかい話し方をする。語尾はいつもに増して甘く伸ばされる。今日は昨日の晩のこともあるから(これを他人事みたいに言ってしまうことは福富にはできない)「喉痛ェんだけど」となじった声は掠れていて、ほんの近くで話す彼の息がひどくくすぐったかったことを福富は思い出す。荒北は基本的に眠りが浅くて普段なら福富がベッドを抜け出したり一度目を覚ましたりするとそのまま起きてしまうのだが、今日は再び眠りについてから目を開ける気配もない。疲れさせた自覚はある。福富はそう思いながら自分の首筋に手を当てて、そこにある噛み痕をなぞってみた。最中に夢中になって荒北が歯を立てるのは毎度のことで、特に肩には毎回こういう痕がつく。痛くないわけではないし、着替えの時なんかにその痕を見られて冷やかされることもあるからちょっと困ったりもするのだがそれを福富が責められないのは自分も荒北の身体に噛みつく癖があるからなのだった。無意識である。二人とも示し合わせたわけでもないし、相手にやられたからといってやりかえしているつもりもない(しかし最中のことだからはっきりとはしない)が、そういう意識しないところで共通してしまうのはそもそもの気質が似ているからだろうか。それともこうして一緒に暮らすようになったからなのか。福富にはわからないが、だがそうして自分と荒北が同じものを持っているということが彼には嬉しく思えるのだった。
携帯を握る手がすっかり冷えてしまったことに気付いて彼はようやく立ち上がる。再び時間を見ても、まださっき見たときから大差はない。予約の時間まではまだ随分時間があるのにこんな調子で大丈夫なんだろうか。

数年前の春にここへ引っ越してきた。それからずっと二人で暮らしてきて、荒北のことを「恋人」と呼ぶのももう照れくさくはなくなった。高校の時は口に出来なかったその名前を言えるようになってもう随分と経つのだ。

(荒北は何と言うだろうか)
柄にもなく緊張している。まるで一緒に住もうと言ったときみたいに腹の底が落ち着かない。
福富は荒北に告げなければいけないことがある。それは一つのけじめである。今までずっとそばにいて自分と一緒に歩いてきた荒北への気持ちの区切りであり、変化である。
今日二人は「恋人」をやめる。
もちろん荒北がうんと言えば、という条件は付くが、きっと荒北は福富の言うことには逆らわないだろう。
冷たい風が福富の頬を撫でた。寝間着のシャツの裾から寒さが這いあがってくる。福富は小さく肩を震わせながらガラス戸を引いて部屋の中へと足を踏み入れる。まだ荒北はきっとベッドの中にいるだろうが、しかしもう眠る気にはなれなくて彼は溜息を一つ吐いてから、仕方なく洗面所の方へと向かった。


***


荒北が起きてくるまでにはまだ時間があるだろう。
福富はそう思いながらキッチンに立ち尽くしていた。キッチンは流しも、棚もどこも綺麗に片付いている。
さて何を食べようかと彼はぼんやり考えながら辺りを見回した。朝食用のパンがある場所は知っている。冷蔵庫に昨日のご飯のおかずが残っていることも知っているし、それになんなら荒北がこっそり隠している夜食のラーメンの場所だって知っている。福富が料理があまり得意ではないが、全く出来ないと言うわけでもない。センスがある方じゃないしパンだって時々は焦がすが、でも自分がちょっと食べるようなものぐらいは作れるし(たとえば目玉焼きだとか)昔に比べれば随分出来るようになったのだと福富は自分で思っている。しかしどうも今から何か作ろうかという気持ちにならないのは、きっと隣に荒北がいないからだろう。
荒北は料理が出来る。別に上手くはない、と荒北本人は言うが世間一般から見ても(もちろん福富から見ても)上手い方だと思う。確かにちょっと大ざっぱではある。味付けも大体適当だし、分量なんて量っているのは見たことがない。でも荒北の料理は美味いし、それに一緒に料理をしている時の指示だって的確だ。(なんだかそれが彼のライディングに似ていると福富はこっそり思ったりもする。)福富が昔よりちょっとだけ一人でも料理が出来るようになったのは荒北がそうして教えてくれたおかげである。しかしそれと同時に一人でやっても仕方がないと福富が思うようになったのも事実だった。
福富が料理をするのは大抵荒北が一緒にいるときだけだ。福富が野菜を切ったり、皮を剥いたりしている横で荒北がお湯を沸かしながら手切るなよ、だとかそれじゃ危ないだとか何かと口を出してくる。彼は心配そうに福富の手元を覗き込んで、それからしばらくしてから完成したものを見せれば目を細めて嬉しそうに笑う。そしてその後、荒北はちょっと皮肉っぽく「まぁ悪くないんじゃナァイ」なんて言いながらも美味しそうに福富の作った料理を食べるのだ。それが明らかに焦げていたって形が悪くたって荒北は構わず食べて「悪くない」と笑う。福富はそれがあるから時々料理をしてみようと思うし、それが無いなら料理をする意味はないとさえ思うのだ。
福富はそこでふと自分の生活の中で荒北が大きな部分を占めていることに気が付いた。高校一年のあの初めて出会った時にはあのおかしな髪型をした柄の悪い男が自分にとってここまで大切なものになるだなんて想像もしていなかったのに。福富が荒北を拾って、それから共に走るようになって、そして卒業して一緒に住むようになって今までの時間は長いようにも思えるし短いようにも思える。年数にしてみれば二桁にも達していないから短いのかもしれない。しかしその中身を考えてみれば決して簡単にそうだと言い表せるものではないだろう。
そんなことをぐるぐると考えていると、不意に腹が鳴った。昨日あれだけ運動したから、だなんてことを考えてまるで荒北みたいな言いぐさだと福富は一人で頬を緩める。いつの間にかこんなところまでもあの男に影響されてしまっている。恋人だと言うのはもうすっかり慣れたが、こういうことを認めるのはまだ照れくさい。
彼は冷蔵庫の棚に適当に突っ込まれていたカップスープのパッケージから一つ袋を取り出して、それから取り出したマグカップに中身を入れる。やかんに水を入れながら彼はそっと寝室のドアの方を見て荒北が起き出してこないか窺ってみるものの、向こう側からは物音一つしない。小腹満たしのカップスープだって自分の作るものと荒北の作ったのでは味が違うような気がするのだ。
(今更、だな)
福富は一人そう思ってまた時計を見た。時間はそう早く過ぎるはずも無いのに気にしてしまう。早くその時が来ればいいとも思うし、その一方でこのままでいいとも思う。変わることは大切なことだが、しかし時として人を傷つけることにもなりかねないのである。
また一つ溜息を吐いた。お湯がまだ沸く気配がないのを見て、福富は一旦キッチンから離れてリビングの方へと向かう。冷えたフローリングを裸足のままぺたぺたと音を鳴らしながら歩いていると足先が寒さで痛む。ふと彼はいつも何を言っても靴下を履こうとしない同居人の足の裏の冷たさを思い出した。部屋で二人きりでいるとき決まって荒北は寒い、と言いながらも自分ではどうにかしようともせずこちらの温もりを奪おうと擦り寄ってくるのだ。これは二人で一緒に暮らすようになってからの癖(だと荒北本人が言うのだからそういうことにしておこう)ではなくて、高校時代、寮にいるときからずっとそうだった。冬になると荒北はそうして理由を付けてやってきて、そうして自分が構ってやれば嬉しそうに笑うのだった。
リビングのストーブに火を点けて、福富はその前に腰を下ろす。目が覚めたらどうせ荒北は靴下も履かずにこちらへやって来るのだろうから、せめて部屋は暖めておかないと。
手間のかかる同居人だ。そう彼は思うが、しかし荒北だって同じように福富について考えていることも知っているのだった。


***


結局荒北が起きてきたのは昼前のことで、それは福富が起き出してから三時間も後のことだった。
寝室からごそごそと人の動く気配がして「福ちゃん?」と呼ぶ声が聞こえたのと換気とストーブの灯油を入れるためにベランダに向いた窓を開いたのは同じ頃で、福富は荒北の姿が見えたとき内心しまったなと思ったのだった。彼の起きてくる時間がもう少しずれてさえいれば部屋を暖めておけたのだが、起きてしまったものは仕方がない。福富が内心そんなことを考えているのも知らずに荒北はフローリングの上を裸足でぺたぺたと歩いてこちらへとやってくる。
「おはよう」
「おはよ。福ちゃん何してんのォ」
「灯油が切れた。お前、靴下は」
「昨日福ちゃんが脱がせたんだろ」
荒北はそう言うとすぐに福富の首に腕を回して抱きついてくる。福富は一瞬給油用のポンプを握る手を止めて荒北の方を少しだけ振り返った。まだ余り開いていない目。顔と顔が近いから短い上睫と長い下睫が目尻で交差しているのが見える。荒北が乱暴な仕草で目に付いた目やにを取るのを一瞬見てから福富は再び手元の作業を始める。抱きつかれているせいで体重がかかって少し腕が動かし辛いが、背中に寝起きの体温が当たっていて温かいからいいこととする。
灯油を入れ終わって福富が手を止めると荒北はそれを察したのかすぐに彼から離れてリビングの向こうに消えていった。背後から水を流す音がする。灯油の缶の蓋を閉めてそれからストーブにそれを戻した後、福富も彼に続いて洗面所の方へと向かう。
歯を磨いている荒北の背後に立てば彼はちらりと視線を一瞬福富の方に向けてすぐに洗面台を譲る。どうやら温めておいてくれたらしくお湯が蛇口から流しっぱなしにされていた。それに手を差し入れながら小さく息を吐いて、それから「タオル出してくれるか」と福富が荒北に言えばへいへいといういつもの答えが返ってくる。
福富は石鹸で手を洗いながらぼんやり荒北の背中を見つめていた。襟刳りの伸びたスウェット。ふと荒北の首筋に赤い痕を見つけて、福富は一人赤面する。荒北が振り返る前に彼の手からタオルを取ったのは、こんなのが見つかれば「自分で付けといて」とからかわれるに違いないと思ったからだった。
荒北が歯ブラシを口から出したのを見て、今度は福富が場所を譲る。荒北がぺっと白い液体を吐き出して口をすすぐのを福富はじっと眺めていた。そのまま顔を洗った荒北が頭を上げたのと同時に横からタオルを差し出すと、彼は見もせずに慣れた仕草でそれを受け取った。荒北が顔を上げる。鏡越しに一瞬合った目が笑っていたように見えた。福富は黙って半歩分近付いて、それからちょっと顎を引いた。するとすぐに振り返った荒北の手が伸びてきて首筋にかかる。舌と舌を緩く絡めると、その唾液はよく知った歯磨き粉の味がした。
「ナァ福ちゃん、歯磨き粉変えようぜ」
口を離した途端に荒北がそう言って大げさな仕草で舌を出した。この間買ってきた歯磨き粉は彼の口には合わなかったらしく、きついミントのじゃないと目が覚めないと彼はぼやいていた。辛党のこいつの舌に見合うようなのだと自分には合わないだろうなと内心福富が苦笑して肩を竦めると、本気にしてねえなと荒北はわざと拗ねたような口調で言った。
「どんなのがいいんだ」
「エクストラハードミント」
「…」
「嘘だヨ、そんな顔すんなって。あ、福ちゃん後ろ寝癖」
「お前も前髪跳ねてるぞ」
ここが跳ねてるだとかそろそろ髪切らないとなだとか、だらだらとしばらくの間そうしてお互いの髪をいじったりしてじゃれあっていたが、さすがに長く放置しすぎたらしい。スープとコーヒー以外何も入れていない福富の胃袋が音を上げたのをきっかけに二人はようやく一旦身体を離して動き出すことにした。

「洗濯物あるか」
そう福富が尋ねると荒北は考え込むように黙ってそれから「オレ昨日の夜パンツどこやったっけ」と福富に聞いた。福富も同じように黙り込んで、一瞬ぐるりと辺りを見渡した。それからしばらくして「そこだ」と荒北の足元を指差す。派手なグリーンのボクサーパンツは風呂用のマットと一緒にぐちゃぐちゃになっていた。荒北は顔を隠すみたいに片手で口元を押さえてそうだったと言った後、着替えてくると一言口にしてすぐにその場から退散していった。洗面所の前に一人残された福富はそのままの体勢で頭を掻く。照れ臭いのはお互い様なのだ。
福富はそのまま屈んで敷いてあったマットとグリーンのパンツ、それから荒北の靴下を見つけて拾い上げてそれらを脇にある洗濯機の中に放り込んだ。洗濯機の中には昨日着ていたシャツやジーンズなんかが適当に突っ込まれている。スイッチを押して分量を確かめながら洗剤を入れている最中ふと色移りするかもしれないと気が付いて荒北のパンツを取り上げるかどうか考えたがなんだか面倒になって、まぁ緑色になったらその時だと思って手を伸ばすのをやめてしまった。昔から自転車のことやそれに関する道具のことになると荒北も自分も神経質だと思うほど細かかったが、しかしこういった(彼らにとって)どうでもいいことについては全く頓着しないのだった。きっと物事に対する取捨選択の感覚が似ているのだろう。荒北と二人で暮らすのが苦にならないのは福富が荒北のことを好きだということが一番大きいが、それに加えてこの感覚の共有があるというのも大切な要因だと彼は思うのだった。これがこの先ずっと続けばいいと彼は思っているし、荒北だってそう考えているだろうと思う。
だから荒北には、と再び福富が考えかけたとき向こうでドアが閉まる音がした。はっとして彼は開けたままにしていた洗濯機の蓋を閉めた。

(ともかくは今日の夜だ)
福富は心の中でそう呟くと、一瞬鏡を振り返ってから洗面所を出た。


***


夜は近くのレストランに行こう、と福富が言ったとき荒北はひどく驚いた顔をしてそうしてすぐに視線を逸らしてしまったが嫌がってはいないようだった。それどころか嬉しがっているというのは明らかで、この男にしては珍しく頬まで赤くなっていた。
『こっち見んなってェ』
朝食を食べながらついちらりと視線をそちらに向ければ荒北はそう言って何度も顔を背けていた。二人で外に食事に行くのは初めてのことではないがしかしそれはたとえばファミレスだとかファーストフード店だとかの男二人で行っても紛れて違和感がないところばかりだったから、こうしてきちんとしたレストランで二人きりというのは今までにないことなのだった。男二人だぜ、と荒北は口では言っていたもののその表情は明るかった。その様子を見て、福富は内心あの店を選んでよかったとほっとしたのだった。

それからしばらくは二人で洗濯物を干したり細々とした用事を終わらせたりしていた。荒北は大学生である。レポートが面倒だ、文章を書くのは嫌いなんだとぶつぶつ言いながら彼は福富の隣で机の上に広げた資料を捲って苛立った様子でひっきりなしに紙に何事か書き付けていた。まだ実業団に入って間もないとは言え、一応社会人の福富から見ればそういった専門的な資料は物珍しいもので面白がって隣でその本を読んだりしていたが、荒北にとってはもうそれは見飽きたものらしく「よくそんなん読んでられるよナァ」とちょっと呆れたようにその様子を見ては言ってくる。
「あんまりこういう本は読んだことがないからな」
「物理学なんか数式ばっかりじゃん。読んでて面白えとこなんかあるゥ?」
「数式以外を読めばなんとなく」
「それって読んでるって言うか?」
どこ読んでんの、と肩口にもたれかかってきた荒北にページを示してみせれば、すぐにああそれはサァ、と彼はいくらか講釈を入れてくれる。文句は言うがそんなに嫌いでもないみたいだ、と内心福富が笑っていることは荒北にはバレていないらしい。


三時過ぎになって福富はふと腰を上げて「少し出掛けてくる」と荒北に告げて外に出た。何をしに行くのか曖昧に言って出てきたが別段荒北は気にしない様子だったところを見るとおそらく自転車のパーツでも取りに行くとでも思っているのだろう。

(バレなくてよかった)
自転車に跨りながら、福富は一つ息を吐いた。これでもし少しでも疑問を持たれたり、もしくは荒北が一緒に付いてきていたりしたら今日の計画がすっかりおじゃんになってしまうところだった。福富は立ち止まったまま一度ポケットの中身を確認する。そこに入っているのはさっき「ついでに取ってきて」と荒北に渡されたクリーニング屋の伝票と、それから紙がもう一枚。飛ばさないようにと思いながらその二枚をポケットの奥に押し込んで、彼はペダルを踏む。冷たい風が首元を抜けるのは冷たくて仕方が無かったが、今みたいにちょっと頭を冷やしたいときにはちょうどいいかもしれない。

福富が今日のこの「計画」を思いついたのは先週の日曜日のことだ。
考えてみればあれからたった一週間しか経っていないのか、とふとそこで福富は思って一人心の中で驚く。なんとなくこの計画はもっと前から考えていたように思われていたからだ。別にずっとこのことを意識していたわけでもないし、それにこれについてどうと考えたことも無かったのに、不思議なことである。
信号待ちのついでにポケットに手を突っ込んで紙の感触を確かめながら福富はその日について思い返してみる。その日も今日みたいにすっきりと晴れていた。しかし今日よりは随分暖かくて、日差しも強かったように思う。雲ひとつ無い空は冬らしく白の混じったような青色だった。
荒北がそれを見て「結婚式日和だねェ」とちょっと冗談っぽく言っていたことを覚えている。その日には同僚の結婚式があったのだ。
今ちょうどポケットに押し込んであるクリーニング屋の伝票はその時に着たスーツのものである。元々は兄のものだった黒いスーツに袖を通すのはチームと正式に契約することになった日以来二回目だから、荒北に言わせてみれば「しっくりこない」といった感じだったらしい。
『紺の方が似合うんじゃねえの』
『…お前ハコガクの制服思い出してるだろう』
『あっバレたァ?』
福ちゃんがきっちりした格好してんのって俺あれしか見たことねえもん。そう言って荒北は悪戯っぽく笑っていた。確かに高校時代から一緒に住むようになって今まで(と言ってもたった二年ほどだが)そうした格好を荒北に見せたことはなかった。練習に出るときには着替えやすいように出来るだけ楽な格好をしていくし、それに何かあったとしてもスーツはカバンに入れて持って行ってしまうから荒北の前でこうして見せる機会なんてなかったのだ。そういえば荒北もスーツを持っているらしいがそれを着ているのを見たことはないな、と福富はその時ふと思った。
(お互いにまだ知らない姿があるんだな)
なんだかそんなことを思って、福富はその時ちょっと不思議な気分になったのだった。

ちょっと半笑いの荒北に見送られて(行く寸前になってから『俺は好きだヨ』と言うあたりこいつらしい)家を出て、福富はそのままタクシーで式場に向かった。
一人でこういう場に向かうのは慣れていないから、どうにも落ち着かない。加えて福富がふわふわしたような実感のない気分でいるのは、結婚と言うものが彼にはなんとなく遠いものに思えていたからだった。兄は結婚しているし、それに彼の結婚式にも出た。周りの選手やスタッフにだって既婚者は大勢いるし、それどころか何度目かの結婚だという者だっている。それに時々ではあるが福富自身、「お前も早めに身を固めた方がいいぞ」なんてことも言われる事だってあるのだ。しかしそれでも彼は結婚が自分には無関係のものだと彼は感じていて、結婚というものがまるで実体の無い、見えないものだと思っていたのだ。
それは彼が荒北という「男」と付き合っているからだという理由ではない。別に今の時代、国にこだわらなければ男同士で結婚できないこともないし、いずれは海外に渡っての挑戦をすることになるのだろうしその時には荒北も付いてくるだろうからそれに関して心配をしているわけではない。
しかし彼がそれが現実的なものに思えないのは「どうして結婚するのか」という理由がはっきりしないからなのだった。荒北と暮らすのは快適だし、それに幸せだ。一緒に住み始めるようになって一番によかったと思うのは朝起きたときに隣に荒北がいる時である。二人きりでいて苦になることもない。たまに喧嘩もするが、お互いに相手の悪いところも自分の足りないところもわかっているからすぐに収まるし、この距離感が手放せない事だということも知っているからそれ以上喧嘩が派手になることもない。この関係が非常に心地良い。だからこれ以上変わる必要は無いと彼は思っていたのだった。


しかしその考えはそれから二時間後に変わってしまう。
福富の予期していなかったところで、彼の考えは崩されてしまったのだった。

その日の新郎は福富のチームメイトだったが、それと同時に昔からの顔なじみでもあった。今は海外にいる彼の兄がこのチームにいるときからこのチームに所属している選手で、国内レースで数々の賞を取った事もある腕利きである。いつも朗らかで周りから人気のある男だったがどうしてか結婚だけはしないとずっと笑い種にされていたのが、突然彼女にプロポーズするのだと言い始めたのが今年の頭のことだった。
今その男は真っ白なスーツを着て、階段の上で珍しくはにかんでいる。光の明るいチャペルの中で緊張と恥ずかしさを半々にしたみたいな表情をして、彼は唇を噛んで立っていた。福富は後ろのほうの席に座ってそれを見ていた。いつもにこやかで冗談ばかり言っている男なのに、今日ばかりは静かだなんてことをぼんやり考えながら教会の高い天井を見上げてみたりしていた。隣に座っていた同じチームのクライマーは「あいつも緊張することなんてあるんだな」と笑っていた。
そうしているうちに時間は過ぎ、神父の低い咳払いに続くようにオルガンが鳴り始めた。それまで口々に側にいる人と話をしていた列席者たちも段々と口を噤み始める。後ろで扉の開く音がして一斉に周りの人間が顔をそちらに向けるのに釣られて福富もそちらへ顔を向けた。
新婦が一歩一歩ヴァージンロードを歩いている。隣にいる父親は緊張しているのか堅い表情だった。新婦の顔はベールに覆われていて見えない。ゆっくりとした速度で二人が進んでいくのに合わせて福富も視線を動かしていく。差し込んだ光が当たって真っ白なドレスはきらきらと光っているように見えた。
その時ふと何とはなしに、福富は目を新婦から逸らして前に向ける。
そうして不意にあ、と声を上げかけて彼は慌てて口を噤んだ。

新郎はいつも明るくて、朗らかで、笑顔以外の表情なんてレース中ぐらいしか見せない男である。普段何を言ったって怒らないし、話すこともたいていは冗談めいている。
その男が。福富は驚いて目を見開いていた。隣にいるチームメイトをそっと見ると、彼もこちらの様子を窺うように見ていたからちょうど目が合った。あれって、と声を出さずに彼が言った。自分と同じように、彼もひどく驚いているらしい。
福富は視線を前に戻す。新郎は真っ直ぐに新婦の方を向いていた。そうして彼女を見つめながら、ぼろぼろと泣いていた。
涙を拭うことも、止めるために手を当てることもしない。それは一見呆然と立ち尽くしているようにも見えた。ただ歩いてくる自分の妻となる女性を見て彼は大粒の涙を流しているのだ。
新婦が新郎の前で立ち止まる。彼がずず、と鼻を啜りながら一歩近寄ると彼女もそちらに歩み寄った。流れた涙がぼたぼたと床に落ちていくのが見えた。彼が新婦の顔にかかったベールを外す。するとその中から現れたのは、彼女のちょっと困ったような笑顔だった。仕方ない人ね、とでも言いたげな表情で彼女は笑っていた。彼はそれを見て釣られてくしゃりとした人の良さそうな笑顔を作る。しかし涙は止められず、やっぱり白いスーツの胸元にはどんどんしみが出来ていく。

福富はそれを見つめながら自分の中に今までにない気持ちがあることに気が付いた。自然と鼻の奥がつんとして、目の奥がじんわり痛くなる。前で並んで立っている二人の姿がとても美しいもののように見えた。神父が誓いの言葉を述べている間も時々新郎は新婦の方に顔を向けて、ぐしゃぐしゃの顔のまま笑いかけていた。新婦がそれを見て、今度は彼女が釣られて自分の目元に手を当てる。

結婚というものについて、それまで福富は深く考えたことがなかった。それが全く自分には関係のないものだと考えていたからだ。しかし彼はその時、それがそんなものではないという気付いてしまったのだ。
病めるときも健やかなるときも、というお決まりの誓言はなるほど確かに契約の内容である。結婚は墓場だと誰かが言っていたのも聞いたことがある。だが今目の前で並んでいる二人の表情はどうだろう。

『誓います』
掠れて上擦った声で新郎が言うと、新婦もそれをなぞるように続けた。福富はそれを聞いて、じんと痺れるような感覚が胸の中に広がるのを感じたのだった。


***


自転車を停めて店内に入る。ここへ来るのは三度目だが、きらびやかな店内の雰囲気にはやっぱり慣れない。福富はこの場に似合わない自分の居心地の悪さを感じながらも奥のカウンターの方へと進んでいく。
「いらっしゃいませ」と愛想のいい店員が話しかけてきたのに、ポケットから紙を取り出しながら予約していたものをと告げればすぐにわかったらしく彼女は頷いて隣にいたもう一人の店員に紙を手渡すとこちらににこりと笑いかけた。
「今日はスーツじゃないんですね」
どうやら先週の日曜日にここに来たときの店員だったらしい。福富はその言葉にちょっと恥ずかしくなって少し俯いてからはいと答えた。視線を落とすとそこは一面にショーケースがある。一枚ガラスを挟んだ向こう側には目に痛いほど眩しい宝石類や、それから金や銀のアクセサリーが並んでいた。今までこういった貴金属店になんて入ったことすらないからどれを見てもおののいてしまう。この小さい指輪一つであのフレームと同じ金額なのか、と思うと恐ろしい気さえして福富はどこを見ればいいかもわからずただ視線をさまよわせていた。
初めてここへやってきたのは先週の日曜日のことだ。結婚式が終わったその足で、閉店時間のギリギリにスーツでやってきたものだからきっとひどく印象的だったのだろう。しかもその時には相手の指輪のサイズなんてことも何も考えていなかったために、結局次の日もう一度出直すことになったからなおさらだ。

「プロポーズの言葉はもうお考えになりました?」
手持ちぶさたそうにしている福富を見かねたのか、店員がそう言って笑顔で話しかけてくる。思わぬ言葉に福富はぎょっとしながら口の中でプロポーズ、と繰り返した。そうか一応これはプロポーズになるのか、と彼はそこになってようやく気付いて、困ったなと今更になって考え始める。
(今晩までに)
思わず眉間に皺が寄る。一緒に住もう、というのは今更というかもうすでに一緒に住んでいるのだから必要ないし、毎朝ではないが彼の作った味噌汁もいつも飲んでいるからこれも使えない。そうなるとストレートにいくか、もしくはもう少しひねるかだがーー
福富はしばらくの間じっとそんなことを考えていたが、奥からやってきた店員がこちらに呼びかけるのを聞いて、彼は一旦考えを打ち切った。

「こちらでお間違いないですか?」
店員がそう言って小さな箱を差し出した。彼は一度その箱のなだらかな角を指でなぞった後、それを開いて中身を見てみる。
中にはつやつやとした布地が張られていた。それで包み込むようにして、真ん中に置かれているのはシンプルな銀の指輪である。

痺れるような感覚が胸から背中まで広がって、鼻の奥をつんとさせる。これを見たら同居人のあの男は何と言うだろうか。もうずいぶんと長く一緒にいたし、それに二人きりで暮らすのにも慣れたから今更だと思うかもしれない。それにもしかすると彼はこれを望んでいないのかもしれないし、それがあいつを傷つけることにだってなるかもしれない。
しかし言わないわけにはいかないのだ。これは一つの
区切りである。

今晩福富は荒北と「恋人」をやめようと思っている。
それからどうなるか、まだ彼にはわからないが彼は心の中で荒北はきっと自分の言葉を受け入れるだろうと確信している。

不意に『恋人の次は何になろうか』とどこかで聞いたようなコピーが彼の頭を過った。

(「結婚しよう」が、一番いいか)

福富は手のひらで箱を包み込んでその感触を味わいながらそんなことを考えていた。
結婚は墓場だと言うが、しかし荒北だったら一緒に死んでくれるだろう。柄にもなくそんなことを考えて、彼は密かに今朝見た荒北の寝顔を思い出していた。