今日のごはん
ゆっくりと目が覚める。
まさに意識が「浮上する」という表現がしっくり来るような、そんな目覚め方だった。
荒北は一度開けた目を再び閉じて、そのまま布団の上に沈んでいた。瞼が重い。まだ頭に血が回りきっていなくて起きあがるのがひどく億劫だった。
瞼の裏に白色がこびりついている。さっき目を開いたときに丁度カーテンの隙間から飛び込んできた光を見たのだ。あの色は朝日の色だからきっと自分が思っているより眠っていないのだろうと荒北は考えた。(けれども昨日の夜のある一点からの記憶が曖昧だから今がどれぐらいの時間なのかは彼にはわからない。)
それからしばらくして、どこかで足音がしたような気がして荒北は目を開ける。
と、次の瞬間にはベッドから立ち上がっていた。
「福ちゃん」
どこ行った、と荒北は慌てて左右を見渡す。
あまり親しみの無い部屋。時計がどこにあるかもわからない。けれども匂いだけは嗅ぎ慣れている。目を滑らせる。本棚には写真。壁にはカレンダー。ゴミ箱が横倒しになっている。そしてフローリングの上には見覚えのある服が落ちていた。シャツ、ズボン。それから――
荒北は自分の身体を見下ろす。そうして一瞬の後、彼はぱっと赤面して自分の頭をがりがりと掻いた。
「起こしてくれりゃいいのに」
彼はぼそりと一人呟く。その頬はまだ赤い。そうしてその首もとにはいくらかの赤い斑点があった。
荒北はベッドから離れて、足下に投げ出されている自分の下着を手に取った。派手な色のそれに脚を通しながら彼はふと自分の脇腹にも鎖骨にも赤やそれから噛み痕が散っていることに気が付く。
ドアの向こうから足音がする。きっと先に起きだした彼のものだろう。
荒北がすんと鼻を鳴らす。なんとなく焦げた臭いがするような気がして、彼は眉を寄せた。朝ご飯は自分が作ると言っておいたはずだが、どうやら予定通りにはいかないようだ。
「しゃあねえなァ」
荒北は一言口にして、Tシャツを拾い上げた。
○○○
「すまん」
キッチンに入った途端荒北に向けられたのはそんな台詞だった。
福富はちょっと困ったような顔をして、エプロンを着けたままシンクの前に立っていた。荒北は福富の隣に立って、彼と同じようにシンクを覗き込む。
「…何でトーストが水に浸ってんのォ?」
見ればそこには真っ黒の(ほとんど消し炭と言った方が正しいかもしれない)トーストが水を張った桶にぷかぷかと二つ浮いていた。
「焦げたから消火しようと思って」
福富はそう言って決まり悪そうな顔をすると、ちらりと荒北の方へ視線を向けた。笑うなよ、と福富は言うが荒北はどうにもおかしくて、思わず声を上げてしまう。
「消火って、福ちゃん!」
「どうしたらいいかわからなかったんだ」
むっとしたような言い方で福富が言っても荒北は笑うばかりだ。ロードを駆っている時は怖いもの無しの癖に、降りた途端にこうだ。
水を吸ってゆっくりとトーストは底へと沈んでいっている。それがまたなんとも間抜けに見えて、どうにも馬鹿馬鹿しくて笑える。朝の、静かで張り詰めたような空気は今ここには無い。その代わりに、焦げ臭いにおいと穏やかでどこか緩んだような雰囲気があった。
「俺さァ、福ちゃんのそういうトコ好きだよォ」
「褒められてる気がしない」
「最上級だよ」
荒北はそう言って福富の肩を叩くと、コーヒーを淹れるように指示を出す。エプロンを取り上げられた福富は少しばかり残念そうな顔をしたが、水で膨らんだトースト(だったもの)を荒北がゴミ箱に移しているのを見てすぐに食器棚の方へと退散した。
あ、と荒北が声を上げる。
「福ちゃん、食パンさっきのでラストだったわ」
福富が振り向くと、荒北は空の袋を指先で摘んで持っていた。当然先ほどまで朝食係を担っていた福富はそれが最後の二枚だったことを知っていたから、何も言うことが出来ず、ただすまなさそうな顔をするばかりだ。荒北はそれを見てまたちょっと笑う。普段傲岸なこの男がこんな態度を取るのが可愛くって仕方ないのだ。頭でも撫でくってやりたいところだったが、生憎たった四、五歩ほどではあるが距離がある。そこまでわざわざ近寄ってそんなことをするなんてのは照れ臭くて出来るはずも無いから潔くそれは諦めて、荒北はただ目を細めた。
「一斤買いに行くか」
「いや、いいよ。ご飯もあるし」
炊飯器の中身を確かめてみるとちょうど半分ほど残っている。昨日多めに炊いておいてよかったと荒北は内心ほっとしながら、まだ弱った顔をしている福富に「大丈夫だってェ」と言ってみせる。福富はその言葉にようやくほっとしたような表情をした。
「味噌汁でも作っか」
荒北はそう独り言のように呟いて冷蔵庫を開いた。カップを持った福富が隣にやってきてじゃあ茶にするかと尋ねたのに軽く頷きながら、荒北は野菜棚を漁っている。
「そうだ」
そう言って荒北は手を止めるとぱっと顔を上げ、福富の方を見た。福富は一旦手を止めてそちらに目をやる。荒北は含み笑うように口の端を持ち上げてからこう言った。
「昨日の残りのカレーもあるぜ」