はやとと!
新開隼人の朝は早い。
とは言っても荒北を含む他の自転車競技部員から見ればさほど早いとは言えないし、東堂や福富からみれば遅いとも言えるものだ。けれども朝に弱い新開から見れば午前六時なんてものは十分すぎるほど早朝で、毎朝きちんと起き出せていることはもはや奇跡に近いんじゃないかと思ったりもするのだった。
鳴り続ける目覚まし時計を片手で止めつつ、何よりも朝起きるのが一番大変だよなぁと新開は内心で思う。二人部屋の頃は誰かが起こしてくれたが、しかしこの寮では三年生になったら必ず一人部屋を与えられるのが定例となっているから今はそうもいかない。
ベッドの上で膝を立てたままわさわさと頭を掻く。寝癖と生来の癖っ毛のせいで指先にやたらと髪が絡みついてくる。そういえば昨日クラスの女の子がリンスだかコンディショナーだか何かくれたけど使うの忘れたな。あの甘い匂い結構好きだけどあれをつけるには俺はちょっとごつすぎるんじゃないだろうか。寝起きの頭の中で様々なことを彼はぼんやりと思い巡らせていたが、ふとベッドサイドに置かれた時計を見てああそろそろ用意しないと、と思い立ち一つ伸びをする。
背骨がいくらか音を立てて、それと同時に喉の奥から声が漏れた。
寝起きの声は低くてざらざらだ。
欠伸した拍子に出た涙を手のひらで拭って、それから顎を手で擦ると生えたての髭が指の腹に当たって少し痛かった。
のろのろとベッドから降りて、新開は真っ先に窓を開ける。もう梅雨に入ったとニュースでは言っていたが、まだ風は乾いていて心地良い。三階の角部屋。この部屋からは箱根の山々が一望できて、日に日に緑を増す木々が毎朝彼の目を楽しませる。
彼自身、そんなに情緒だとかそういった詩的なものに造詣が深いわけではないからそれを見て具体的にどうとか思うわけでもなかったが(きっと東堂だったら「あの山々の美しさはまるで巻ちゃんの髪の」だとかなんだとか例えるんだろう)それでも新開は箱根の山々が好きだし、それにちょっと古くさいけれどこの寮も気に入っている。
もうここへ来て三年になるけれど、今更になってここへ来て良かった、とこうしたふとした瞬間に彼は思ったりするのだった。
土曜日か、と壁に掛かったカレンダーを見ながら彼は欠伸した。しかしそれを見てもどうにも今日の練習予定が思い出せなかったが、まぁ動きやすい格好をしていれば間違いはないだろうと新開は適当なシャツを手に取る。
「あれ、これ洗濯したやつだっけな」
洗濯したものも洗濯していないものもまとめて置いてしまう(彼曰く)癖があるせいで、部屋の一角には服の山ができていた。その一番上にあるものを手にしたものの、これがいつのものかも思い出せない。
この部屋の現状を見たらきっと東堂は卒倒するだろうし(案外潔癖なのだ)荒北だったらあけすけに罵ってくるだろう。去年までずっと新開と同室だった福富は別段これに関して口出しすることは無かったが、それでも生来きちんとした男だからこれを見たら眉を顰めるぐらいはするに違いない。
片付けないとなぁとは思うものの、練習が終わって部屋へ帰ってくるともう眠くなってしまうからどうしようもないのだと新開はどこか諦めている節があるのだった。そのせいで負の循環に陥っていることはわかっているのだが、元々のものぐさな性格もあってなかなか一歩を踏み出せずにいる。またそのうちに、と今日も彼は部屋の惨状から目を逸らしてそいつを意識の外へとやるのだった。
手に持ったシャツに鼻を近付けて臭いを確かめてみると、どうやらこれは「はずれ」だったらしい。すっぱい汗の臭いがしたのに新開は少し眉を寄せてそれをまた山の上に戻した。そうしてしばらくあれでもないこれでもないと服と格闘していたが、ようやくその山の下の方を探って彼は「当たり」を見つけたのだった。寝間着にしているタンクトップを脱ぎ捨てて(これもまた服の山の上へ)襟刳りの少し伸びた緑色のシャツを羽織る。
「今日は静かだなぁ」
ドアから一歩踏み出した彼が口にしたのはそんな台詞だった。いつもだったら自分が起き出す頃にはこの寮にいる運動部の奴らが慌てて用意をし始めているから上へ下へとてんやわんやで騒がしいぐらいだが、今日は人の声どころか足音さえしない。自分が寝坊したという訳ではないだろうから(昨日明日は早いだとかそんなことは言っていなかったように思う、たぶん)今日は他の面子が遅いのだろう。
それならもうちょっとゆっくり起きても良かったかなぁなんてことを思いはしたが、しかしあれでもう一度目を瞑っていたら次に目が覚めるのは何時になっていたことかわからないから彼はすぐにその考えを頭から追い払ってしまう。出来ないことをうじうじと考えるような性格ではない。
そんなことよりも今彼にとって重要なのはさっきからぐうぐう鳴り続けるこの腹を早いこと黙らせることだけだった。