めみみはなくち




聞こえる音はペンが紙を擦る音ばかり。潜めているわけでも無いのに、四人分の呼吸は夜の空気に溶けて見えなくなる。
小さくンン、と唸る声がその静けさをわずかに裂いた。
荒北は眉を寄せ、直後勢いよく顔を上げて口を開く。

「こんなもんどう答えろっつうんだよ。」
その言葉と同時に彼がテーブルの上に投げたペンは音を立てて弾んで、それから向こう側へと転がっていった。狭い机越し、ちょうど向かいに座っていた東堂がそれを受け止めながらそう言うなと苦笑するが、荒北はやはり渋い顔である。
「面倒臭ェ。」
背もたれにしていたベッドに頭を載せて天井を仰ぐ。蛍光灯の白い光が眩しくて目を瞑ると危うく睡魔に襲われかけて、慌てて瞬きを二三回。片手で目を擦って欠伸をした荒北に、寝るなよ、と一言投げたのは隣に座った福富だった。その言葉にアアと曖昧に答え、荒北は視線だけをそちらへ向ける。

「福ちゃんも思うだろォ。」
「何がだ。」
「つっまんねえこと聞くなってんだっての。」
「つまらないか。」
「つまんねえよ。」
「『異性の好きな身体の部分』。」
「読み上げんなヨォ。」
答えなきゃなんねえ俺たちが馬鹿みたいに思えるだろ。荒北はそう毒づいてぐしゃりと前髪を掴んだ。
すっかりやる気を無くしてしまっている荒北の様子を眺め福富は少し困った風にしていたが、対して彼らの向かい側に座っている二人は面白がっているようだった。
「なんだ荒北。そんなに自分のフェティシズムを晒すのが嫌かね。」
「べっつにそんなんどうでもいいんだけどさァ。ばっかばかしいだろ。」
「もしかして靖友って案外ウブ?」
「どう考えたらそうなンだよ。お前走りすぎてどっかにネジ落としてきたんじゃねえのォ?」
いくら悪態を吐かれてもそれでひるむような仲でもない。おっかねえなぁと口では言うものの新開は依然笑顔のままで、隣にいる東堂と目を見合わせて小さく笑い声をあげる。寝転がったまま荒北が見もせずに投げた枕は彼らの脇を通って壁に勢い良くぶつかった。苛立ったような舌打ちが部屋に響く。
床に転がった枕を膝の上に載せて抱きながら新開は机の上を見る。そこに並ぶのは四枚の紙とそれから銘々の筆記用具。一枚には流れるように美しい文字が幾行にも渡って綺麗に並んでいる。一枚には「かみのきれいな子」という角の丸い柔らかそうな文字が中央に記されている。一枚にはきっちりとしていて、でも力強い文字がいくらか連なっていた。一時間前からずっと「荒北靖友」という硬質な字だけが端に置き去りにされた紙はほとんど白紙のままで、新開はそいつが少し可哀想だと内心密かに思ったりもする。やすともー、と語尾を伸ばして優しく呼んでみたってその白紙の主はそちらを見ようともせず、それどころか返ってきたのは剣呑な舌打ちだけだった。
「締め切り明日だぜ、靖友。」
「わかってらァ。」
言ったもののベッドに身体を預けたまま動こうとすらしない彼に、東堂はちょっと呆れたように息を吐いた。これがそんなに厄介なものかね、と言った彼の質問は答えを得ることもなく消えていく。


人の噂も七十五日とは言うが、しかしながら好奇心は際限無く沸いてくるものである。
「それじゃあよろしく」と今朝方福富が新聞部の女子から手渡されたのは数枚の白い紙だった。明日が期限なのだと頼み込まれて断れない辺り彼もなかなかにお人好しなのかもしれない。
『緊急校内アンケート!』
紙にはそう印字されていた。明日の校内新聞の一角に載せられるらしいその記事は、新聞部の彼女曰く元より予定していたトピックが教師の検閲を受けただとかそれの中心になっていた人物がまずかったんだとかでダメになったから当てられたもの、つまり言うところの突貫的な埋め合わせらしい。
「こんなもん聞いてどうすんだ」というのは荒北の意見ではあるが、確かに福富にとってもそれは同意見だった。しかしながら頼まれたものを無碍にも出来ず、「仲のいい何人かだけでいいから」という彼女の言葉にそのまま従って福富は荒北を含めた三人にその紙を渡したのであった。
福富には誰がどんなことに興味を持つかなんてわかりっこないし、それに知ろうとも思わないけれど、人の好奇心というものは尽きないものである。その人とってはくだらないと思うようなことでも、ある人にとっては非常に大きな意味を持つこともあるのだ。


たとえばこんな風に。


「靖友さぁ、なんでそんなにそれ書くの嫌なの?」
抱えていた枕を脇に置いた新開はそう言って、自分の名前の書いてある紙を手に取った。単なるアンケートだろう。当たり障りのない、それでいてちょっとだけ下世話な面もあるようなありきたりの質問。『好きなところ』なんていくらだって答えはあるだろうし、思いつかないってわけでもないはずだ。
新開の言葉を聞いて荒北は少しの間黙っていたが、腕を持ち上げて頭をがしがしと掻いてから、再び口を開く。
「別に理由なんかねえし。単に面倒くせえだけだっての。」
「それだけ?」
「それだけだよ。逆に聞くけどォ、それ以外にどんな理由があるってんだ。」
首だけマットから起こして荒北は新開を軽く睨みつけた。新開はその目線には応えず、そうだな、と言って右下の方を見て何か考え込んでいた。アア禄でもねえこと考えてんなこいつ、と荒北が内心思ってどう言ってやろうかと考えあぐねているうちに新開は何やら閃いたらしい。ぱっと顔を上げ、彼は例のポーズを荒北に向けた。

「わかったぞ。」
「ンだよ。馬鹿みてえなこと言うなら、」
「靖友お前さ、好きな人がいるんだろ?」
「・・・ハァア?」
何が、どうなってそうなったんだ。荒北は盛大に眉を寄せ、自信満々に自分を指さしている男に鋭い目線を向ける。新開はと言えば「ほら、当たっただろ」と得意げな顔をしていて、自分が間違っているだとかの他の可能性については全く考慮していない様子である。バッカじゃねえの、と荒北が口に出したのにも彼は動じない。
「そうじゃないとそれだけ嫌がる理由がないじゃないか。」
「そんなんじゃねえ。」
「じゃあ言えよ。」
「しつけえなお前はヨォ!」
噛みつくような声で荒北はそう言って勢いよく身体を起こす。今にも飛びかからんというふうな姿勢になった荒北を横から福富の腕が制せば、すっと彼は矛を収めるものの、まだ腑に落ちない表情で奥歯を噛みしめていた。
「何でそんなムキになってるんだ。」
「なってねえし。」
「なってるだろ、それ。」
「なってねえっつってんだろボケナスがァ!」
「こら隼人、あんまり荒北を煽るな。」
やれやれ、といった顔でそう割って入ったのは東堂だ。腰を上げかけている荒北に目線だけで座るように示し、また一方で言い過ぎだぞと新開に告げる。
二人が互いに腰を落ち着けて、部屋がようやっと静けさを取り戻したところで東堂は荒北の方を向いた。

「まぁ言いたくないことがあるのはわかるから、無理にとは言わんよ。」
東堂はそこで一旦言葉を切って、荒北の目を覗き込む。さきほどまで怒りでどろりと濁っていたその目は今は落ち着いて、いつもの色を取り戻していた。それを確かめてから彼はしかしだな、と言葉を継いだ。
「これは福が頼まれたことだからな。」
福富と仲のいい奴らと言われれば自然とこの三人が浮かんでくる。東堂が言いたいらしいことはつまり、福富はは当人含め四人分の働きを期待されているのだということだった。
言外にその意味を読みとった荒北は開きかけていた口を閉ざし、それから福富の方をちらりと見る。福富は何にも言わなかったしそれに荒北も口を開きはしなかったが、目が合った瞬間に荒北は諦めて、ハァと息を吐いて座り直した。どうしてこうも彼には弱いのか。荒北にはわからない。

机の上を見る。紙は未だ白くて眩しい。さっき彼が投げたペンはすでに東堂の手によって机の上に戻され、荒北の手元へ置かれていた。荒北は複雑な気持ちでそれを見つめながら渋い顔をする。
「んだよ、何書けっつーんだこんなもん。」
「難しいことを書けっていわれてるんじゃないんだしさ、テキトーでいいんじゃねえの。」
「テキトー、ねえ。」
渋々といった調子ではあるが机の前に戻った荒北は、テキトー、と言った新開の言葉を舌先で転がしながら、用紙の上に印字された文字を見直していた。

(他人の身体の部分。)
そうまじまじと他人を見ることなんてそんなにあるだろうか。荒北はくるりとペンを指先で回しながら考える。授業中、練習中、誰かと話しているとき、食事のとき、寝るとき。日常のあらゆる瞬間を切り取って思い浮かべてみても具体的なものなんてなかなか思いつきそうにない。
荒北は少し顔を傾けて、隣にいる人物に目をやった。
(まぁ一番よく見てる、っつったら福ちゃんだけどなァ。)
彼は生真面目そうに机に向かっている。もうすでに件のアンケートには答え終わったのか、福富は部関係の書類に目を通しているらしい。福ちゃんは何て答えたんだろう、とふと荒北は思うが、しかし聞くようなことでもないなと結局口は開かなかった。
何とはなしに荒北は福富の方をぼんやり見ていた。規則的に指先が動く。それにあわせて伏せられた目も動きを辿っている。長くはないが、太くて密な彼の睫。彫りの深い二重と太い眉毛。目の下に落ちる影は濃くて彼の男らしさを感じさせる。

(あ、目か。)

荒北がそう思いついたのはその時のことだった。
思い立ったように彼はペンを動かし始める。
「お、やっと何か思いついたんだな。」
新開がそう言って楽しげに笑うのには、るっせという彼には慣れた返答を投げた。白のまま置かれていた紙の上に、荒北は「目」という一文字を書いてからまた考えごとを始める。
他人と初めて会ったとき、まず見るのは目だろう。目はその人の、たとえば性格だとかその時の気分だとか調子だとか、または自分に対してどんな感情を抱いているのだとか、実に様々な面をこちらに示してくる。自信に溢れて力強い光を放つ目。気力を失い虚ろになったものもあれば、一方で内面にぐるぐると渦巻く感情が混じりあったような濁った目もある。また笑顔ですら目の色でその意味を変える。そして時に、目だけがその人の本心を語ることさえあるのだ。

目、視線。
なるほどこの言葉か、と荒北は納得する。

しかしそこでふと、彼はあることに気が付いた。
(目?視線?それはいいんだけど何で、)
誰か、他人の、ごくごく一般的で普通に『好きな身体の部分』を思い浮かべればいいのに、荒北がそれを想像しようとすると必ずある一人の人物がそこには現れるのだ。意識しているのならまだしも無意識のうちのことだから余計始末が悪い。

ちらつくのは金髪。それに太い眉、しっかりとした密な睫、それが落とす濃い影とそれから視線。真っ直ぐに前を見つめる、力強い意志を持った目。考え込むときに伏せられる目。ふとした瞬間に笑って緩められる視線やまたこちらを見る時のその色がありありと脳裏に浮かぶ。日常を切り取った映像やレース中のそれがこびりついて離れない。
荒北はそっと隣を見る。福富はまだ手元に視線を落としたままだ。
どうして彼が浮かぶのだろう、と荒北はただ純粋に思う。この質問に答えるのに「誰か」を思い浮かべるなら、たとえばクラスメイトの女子の一人を引き合いに出すのが適当なんじゃないんだろうか。

「どうした荒北。手が止まっているぞ。」
東堂が目敏くそう言ってくるのに荒北は曖昧な返答をして、こめかみの辺りを親指でぐりぐりと押した。何だ、これじゃあまるで、という前置きに続いて頭の中に現れた言葉を軽く首を振って消し去りつつ、荒北は瞬きを数度する。
確かに彼の目が好きだとは思う。目的を見据えるときのその強さだとか、案外深い色をしているところだとか、あと笑ったときに少し細められることだとか。けれども決してそういうんじゃない。そんなはずがない。荒北はペンを置いて頬杖をつく。
(俺が福ちゃんのことを好き?)
これこそ馬鹿馬鹿しい考えだろう。どうしてそうなんだよ、と自分で突っ込んでみたがこびりついてしまったものはなかなか剥がせない。がりがりと指先で頭を掻いても物理的にはどうにもならないらしい。そんなわけがないだろうとは思ってみても、どうにも心臓がうるさくって仕方ない。

「荒北。」
そこでふと呼ばれて、彼は顔を上げる。声は隣からのものだった。思わず肩が跳ねそうになったのをすんでのところで止めて、荒北は平静を装った声でなァにと返し、福富の方へと視線を向ける。

「福ちゃん?」
荒北がそちらを向いてたっぷり十数秒は黙っていただろうか。福富は何も言わずにじっと荒北を見つめていたが、不審に思った荒北がそう呼んでから、ようやくはっとして口を開いた。
「何て書いたんだ。」
思わずぽかんとして、荒北は福富を見る。少し早口に、そしてなんとなくぶっきらぼうな調子のその言葉の意味がすぐには上手く掴めなかったのだ。荒北はさっき福富が黙っていたのと同じぐらいの時間呆気に取られていたが、しばらくしてその言葉をしっかりと飲み込んでから急に頭がひどく熱くなるのを感じた。

(いや、まさか、ちょっと待てよ、)
単語が並ぶ。細切れの言葉しか出てこない。福富はじっと荒北を見て、彼の返答を待っている。その目に自分が映っているのを荒北は見た。真っ直ぐな視線が注がれている。これはだめだと思って目を逸らすものの、彼がこちらを見ていることには変わりはないから顔は熱いままだ。
きっと福富に他意は無いのだろう。別段深い意味もなく、ただの興味であの質問をしたのだ。友人としての、チームメイトとしての、単なる他人に対しての軽い好奇心。ほんのちょっとした、くだらない質問なのだ。
けれども荒北にとってはそのくだらない質問が非常に大きな意味を持ってしまった。答えではなく、その問い自体によって荒北は気付いてしまったのだった。

「あ、俺、ちょっと飲みモン買って、くる。」
舌をもつれさせながら荒北はようようそう言って立ち上がった。頭にどんどん血が上っていくのを感じて慌てて彼は首筋を押さえる。東堂や新開が驚いて話しかけてくる声も聞こえたがしかしもうそこへじっとしていることは出来なかった。ペンを持っていればきっと手が震えていることがわかってしまう。今もう一度彼の目に自分が映っているのを見たらどうなってしまうかわからない。

(俺は福ちゃんのことが、)
彼の目が好きだと思う。こちらを見て話すときの目が、レース中の激しく波立つような目が、深い考えごとをしているときの目が。

背中でばたんとドアが閉じる音がしてから、自分がひどく汗をかいていることに荒北は気が付いた。ふらふらと廊下を歩きながら彼は考える。ほらやっぱりこんな面倒くせえもん答えるんじゃなかった。

(これからどうすりゃいいんだ。)
頭を抱えながら歩く彼の瞼の裏に映るのは、やはり鮮やかな金髪であった。